第1章

1.松田小学校

「失礼します。室田修治(むろた しゅうじ)と申します。臨時採用の面接を受けに参りました」

 職員室のドアを開け、ボクは裏返りぎみの声で叫んだ。机の3分の1ほどには教師がついていたが、一様にボクを見つめて笑顔を浮かべている。ただし、苦笑、あるいは失笑と言うべきものだった。それでも、あの時のボクには、悪意の含まれた笑みに腹を立てる余裕は無かった。

 部屋の一番奥で、頭の薄くなりかけたひょろっとした男が立ち上がった。彼は、悪意の含まれてはいない笑みを浮かべると、ゆっくりとこちらに向かってきた。

「良く来てくれました。教頭の樫山です」

 ボクは、改めて名乗ながら、軽く会釈した。昨日電話をくれた人だった。急な欠員で、臨時採用教員を探していると言っていた。

 彼は、値踏みするような目で、ボクの全身を睨め回した。


 ボクは、大学を卒業して、この春から、出身県の県庁所在地で、臨時採用の話を待ちながら、来年の教職採用に備えていた。いわゆる教職採用浪人という身分だった。

 ちなみに、ボクの田舎は、県庁所在地から車で30分以上も山を駆け上った高原にある小さな町だ。自宅に戻っても良かったのだが、臨時採用の可能性も考えて市内にアパートを借りていた。

 最近では、ほとんどないそうだが、当時でも、臨時採用の口なんて、そうめったにありつけるものではなかった。だから、降って湧いた幸運に、ボクは飛びついた。あと10カ月、いや1年10カ月かもしれないし、2年10カ月かもしれない期間を、スーパーでレジ打ちのバイトで過ごすことを考えれば、急な求人であることや、いきなり特殊学級(今では特別支援学級という名称になっている)を担当するという不安など、取るに足らないものだったからだ。


 だから、その転がり込んできた幸運を逃さないように、ボクは、梅雨に入ってジメついたこの季節に、汗でびっしょりになりながら、リクルートスーツに身を固めていた。こんなことなら、1着でいいからサマースーツを買っておくんだったと後悔した。

「面接は、校長が行います。こちらへどうぞ」

 職員室の中で、そこだけ場違いに重厚なドアに案内された。樫山教頭は、ノックしてドアを押し開くと、中に入るように、片手でボクを促した。

 ボクは、生唾を飲み込むと、先ほどと同じようにして声を張り上げた。校長は、「聞えてましたよ」と言って、部屋の中央設えられたソファーに向った。ボクは、校長に続いて、絨毯が敷かれた室内に足を踏み入れた。絨毯は、妙な浮遊感があった。

 ソファー前で直立不動となっていたボクは、校長の「かけて下さい」の言葉で腰を下ろした。それでも、全身は緊張で固まったままだった。

 校長は、良く通る声をしていたが、権威がかった感じは受けなかった。さながら、品を良くした現場監督というところだ。

「私の前でそんなに緊張していたら、児童の前になんて立てませんよ」

 だが、それとこれとは話が別だと思った。児童は臨時採用の決定権なぞ持ち合わせてはいないのだから。もちろん、そんなツッコミは入れない。

「松田小学校の校長をさせて頂いている橋立です」

「室田修治です」

 ボクは、ソファーにかけたまま腰を折った。

「なるほど、大きいですね」

 ボクは、188cmある長身を、なるべく小さくして座っていた。それでも校長より頭一つ分大きかった。小学校教諭としては、ボクの身長は、マイナス要素となりかねなかった。大学の友人には「子供が脅えるから止めておけ」と何回言われたことか分からないくらいだった。

 だから、この時も小さな声で「スミマセン」とつぶやいた。

「いやいや、問題視している訳じゃありませんよ。むしろ逆です」

 長身がプラスになる理由が分からなかったので、ボクは「はあ」と気のない答えを返した。電球の交換とか、用務員の仕事もやることになるのだろうかと、訝しんだ。しかし、それもこなさないとチャンスはものに出来ないぞ、と自分を納得させた。

「では、早速お話をさせてもらいましょうか」

 そう言った校長は、ボクのことを尋ね始める前に、学校側の事情を話し始めた。

「先日、当校の特殊学級を担任していた先生がケガをしてしまいましてね。現在、近くの病院に入院してます。そのケガが、腰椎の骨折なものですから、入院期間も長くなりそうですし、たとえ退院しても、直ぐに職場復帰は無理そうなんです。後遺症はない見込みなので、復帰はできそうなんですがね」

「腰椎ですか」

 腰は、体の中でも最も負担のかかる部位だ。骨折となれば、リハビリにもかなりの期間がかかるだろう。

「ええ。ですから、少なくとも、その先生が復帰するまでは、臨時で勤めて頂きたいんです」

 その先生には気の毒だったが、ボクにとっては幸運だった。採用されれば、少なからぬキャリアになる。継続して採用される可能性も高くなるし、本採用の選考でも有利になるだろう。人の不幸を喜びたくは無かったが、こんなチャンスはめったにあるものでは無かった。

 全くの未経験であるボクが、いきなり特殊学級を受け持つことに、確かに不安は感じた。でも、断る理由にもならなかった。

「はい。是非やらせて下さい」

 橋立校長は、目尻に皺を浮かべて肯いた。

 続いて、氏名や年齢と言った基本的な事項を聞かれた後、話題は、資格と大学での勉強になった。

「室田くんは、小学校だけでなく特殊学級の教員免許も保有しているね。大学では、障害児教育について、どのような勉強をしてきたのかね?」

 特殊学級の臨採教師を捜しているのだから、ここは、たとえ嘘でも障害児教育を専攻したと言うべきだった。でもボクは、嘘だけはつきたくなかった。

「確かに、特殊学級の教員免許はとりました。ですが、授業は教職免許の取得に最低限の科目をとっただけですし、障害児教育について、それ以上の勉強はしていませんでした。特殊学級での採用があるとは、正直言って考えていませんでしたから」

 ボクの言葉を聞いて、校長の表情が、わずかに翳った。そりゃそうだろう。特殊学級の教員を探しているのに、実は素人に毛が生えた程度だって分かったんだから。

 校長は、ふっと息を吐くと、「分かりました」とだけ答えた。

「では、長所と短所について教えて下さい」

 実務経験がない以上、後は人となりについて聞くしかないのだろう。長所と短所は、面接で必ずと言っていいほど聞かれる項目だ。回答は用意してあった。

「長所は、誠実なことです。短所は、その裏返しになりますが、潔癖過ぎることだと思います」

 校長の視線は、老眼鏡の上から、ボクの内面を見透かすかのように投げかけられた。

「なるほど。良く分かりました。先ほどの教員免許のお話にしても、そのとおりですな。自分の事は良く分かってらっしゃるようだ」

 ボクは、作り笑いでごまかそうと思ったが、恐らく苦笑いになってしまっていただろう。「頭が固すぎる」と、何度言われたか分からなかった。

「室田くん」

 校長は、改めて呼び掛けるような調子で、次の質問を発した。

「教育上、嘘をついた方がいい時もある、とは思わないかね?」

 先ほどの質問で表情が翳ったのは、障害児教育についての知識に懸念を持ったからだけではないのかもしれない。それが分かっても、ボクの答えは変らなかった。

「真実を話すタイミングは、考える必要がある思います。でも、嘘は良くありません。何であれ、嘘は間違っています」

 嘘は間違っている。

 それは、ボクにとって、絶対の真実だった。


 ボクが小さい頃、親は共働きで、学校から帰っても家には誰も居なかった。だから、いつも学校が終わると、家の近くにあった廃工場に潜り込み、親が帰る時間になるまで、一人で遊んでいた。

 普通に考えれば、寂しい子供時代を送ったことになるのだろうが、ボクは寂しいとは思っていなかった。学校では、それなりに付き合いのある友達は居たし、何より、その頃のボクには、心を許せる友達が居たからだ。ただし、それは、ボクの心の中だけの友達だった。

 だから、その日も、メグルといっしょに廃工場で、国際救助隊ごっこをして遊んでいた。

 そこに、けたたましい爆音を響かせ、1台のバイクが滑り込んで来たのだ。乗っていたのは、如何にもヤンキーという格好をした若い男で、工場に入って来るなり、エンジンを止めて物陰に身を寄せた。手には、どうにも似つかわしくない女物のバックを持っていた。その真っ赤なバックは、今でも、鮮明に記憶に残っている。

 ボクは、見てはいけないものを見てしまった気がして、放置されていた鋼管の中に隠れた。

 だが、メグルが言った。

〝見てみようよ〟

 ボクは、「危ないよ」と返したが、やはり誘惑に勝てなかった。ボクは、鋼管の中から、こっそりと様子を窺った。そして、ヘルメットを取った男の顔を見た。

〝あいつ、連続ひったくり犯だぜ〟

「やっぱり、そうかな」

 男は、しばらく身を潜めていたが、走り回っていたパトカーが居なくなると、再びバイクにまたがり出て行った。ボクが、恐る恐る顔を出すと、床には、赤いバックと、その中にあったものだろう、化粧道具や口の開いた財布が転がっていた。

〝交番に行けよ〟

「警察に話すの?」

〝そうさ。で、明日学校で自慢するんだ〟

 ボクは、メグルの声に従った。近くにあった交番に、息を切らせて駆け込んだ。

 翌日、ボクは犯人の目撃者として、学校でヒーローになった。ボクは、ほんの子供だったから、有頂天になっていた。

「メグルの言った通りだな」

〝だろ?〟

 だが、その日の夕方になって学校の友達が、母親に連れられてやってくると、ボクは非常な板挟みに陥った。

 友達と母親の後には、何故かひったくり犯が、神妙な顔をして立っていた。級友の母親によると、ボクの見た犯人は、級友の兄で、昨日は出来心でやってしまった、初めてだったということだった。そして、このままだと連続ひったくり犯に間違われてしまうと、彼女は、泣きながら訴えたのだ。

「どう思う?」

〝分かんないよ。好きなようにしなよ〟

 この時、家に両親が居れば、展開は違ったものになったかもしれない。しかし、この日は、二人とも帰りが遅かった。

 結果的に、級友の母親に押し切られるようにして、ボクは約束してしまった。級友の兄をひったくり犯として証言はしないと、約束してしまった。

 それから約2週間後に行われた面通しの時、5人の容疑者の中に、級友の兄もいた。ボクは、その時も悩んでいた。本当の事を警察に話すべきか、約束を守るべきか、悩んでいた。

「どうしよう」

〝約束したんだろ。それに警察だって、修治の言葉だけで決めたりしないよ〟

 そして、ボクは嘘の証言をした。真犯人の右側にいた人相の悪い男を、「この人だったような気がする」として、指差したのだ。

 その後、連続ひったくり犯が逮捕されたと聞いた。ニュースで見た顔は、ボクが指差した男だった。ボクは、慌てて交番に走った。そして「やっぱりあの人じゃなかったような気がする」と訴えた。しかし、署に連絡してくれたお巡りさんは、他にも証拠があって、あの男で間違いないと言った。

 ボクは、嘘をついたことで、その男を無実の罪に陥れてしまったのかも知れなかった。そして、少なくとも、ボクが見た犯人については、真犯人を捕まえる邪魔をしてしまった。

 真実は分からなかった。でも、この事実が、それ以降、ずっとボクを苛んできた。

 だから、それからボクは嘘をついていない。

 嘘は間違っている。


 ボクの心の底からの言葉を聞いても、尚も校長は問いかけてきた。

「相手が、小学生でも?」

「はい。子供でも、嘘を見抜く力はあります。むしろ子供の方が敏感かもしれません」

「障害児でもかね?」

 少し考えた。

「知的障害の場合は……、場合によるかもしれません。でも、それは真実を理解できないような極端な場合に限られると思います」

 なんだか、面接というより、指導を受けている気分になってきた。

「それは信念かね?」

「はい。ボクは、嘘はつくべきではないと思っています」

 その後は、ボクの田舎の話になり、なんだか雑談じみた面接になった。校長は、ボクの田舎の隣町出身ということだった。

 そんなことで色を付けてくれたかどうかは分からないが、校長は最後に、こう言った。

「では、月曜から出勤してください。細かい事は、樫山教頭から聞くように」

 ボクは、すかさず立ち上がると「ありがとうございます。宜しくお願いします」と声を張り上げ、深々と頭を下げた。

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