ビブリオフィリア-本とあの子と人殺し

霞ヶ浦巡

プロローグ

プロローグ

 1999年春、三船敏子は、夕日に照らされた歩道を歩いていた。勤務先の松田小学校からの帰り道、毎日使っている通勤経路だった。

 彼女が担任しているクラスは特殊学級。人数こそ少ないものの、普通学級とは次元の違う苦労が多い。それでも、今日は大きな問題がなかったため、早めに帰路に就くことができた。

 40を越えると、気力はあっても子供の体力について行くことが難しい。つらい時が増えてきた。昨日は特に大変だった。それを思い出してため息を吐く。


 彼女が受け持っている児童の一人に、自閉症との診断があり、本に異様な執着を見せる女児がいる。誰とも交流しようとはせず、ただひたすら本を読んでいる。本さえあれば良いのだが、本を読み終え、次に読む本がないと暴れ出す。それも、とても手が付けられないほどに。

 しかし、そうした自閉症らしい症状を見せていても、三船はその子を自閉症だとは思っていなかった。

”あの子は絶対に嘘を吐いている”

 自閉症にともなう緘黙症かんもくしょうという診断が下されていたのに、昨日は確かに悪態を吐く声を聞いた。知能も決して低くはない。自閉症を装っているだけだ。


 太陽が山影に沈もうとしていた。彼女は歩道橋に登る階段に足を掛ける。道を渡ればバス停だ。重い足取りで歩道橋を登った。

 渡りきった先には、下に降りる階段が左右両方向に設けられていた。一日の疲れのおかげで、用のない右側を見る気にはならない。左側のバス停に向け、階段を降り始めようとして足を踏み出す。

 その時、体を支えていた右足の膝裏に衝撃を感じた。慌てて左足を降ろそうとしたものの滑って踏み外す。体を支えようと左手を伸しても、バッグを持ったままだったせいか、空を切る。

 眼前にコンクリート製の階段が迫った。そして、闇が訪れる。

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