3.病室

 翌日土曜日、ボクは、市立病院に向かった。梅雨の中休みが2日続き、この日も暑かった。

 目的の病院は、松田小学校から、市内に向かう坂道を1kmほど下った、なだらかな斜面に建てられている。小学校に行くときと同じバスをに乗って、途中で下りればいいらしい。昨日も、病院の前を通ったはずだが、緊張のためか、目には入らなかったようだ。

 バスを降りると、無機質な白い建物が、強くなってきた日差しに輝いていた。まるで、審美歯科で、異様なまでにホワイトニングされた歯のようだ。

 病室は、三階の南側にあった。入り口に、名札が3枚かけられている。空いているフックも一つあった。

 中を覗くと、外観と同様、室内も真っ白で、眩しいほど明るかった。ベッド脇のテレビを見ているおじいさんが一人と、本を読んでいる20代の女性がいた。ボクは二人に軽く会釈して、ひときわ明るい窓際のベッドに向かった。

 ベッド脇のサイドテーブルには、ガラス製の花瓶が置かれ、しおれかけた生花が生けられていた。

 よほど怠惰な人間でも目を覚ます時刻だったが、その人物は、横になったまま、顔を天井に向けて目を閉じている。だが、眠っていないことは、表情で分かった。それどころか、どことなく緊張感さえ漂っている。ボクは、窓側に回ると、すこし遠慮がちに声をかけた。

「三船先生。おはようございます」

 皺のあるまぶたを開けて、三船先生は、首だけをこちらに向けた。40台前半と聞いていたが、やつれた感じがするせいか、50台と言っても信じてしまいそうな顔つきだった。

「室田先生ですか」

「はい。お聞き及びですか?」

「ええ、教頭先生から。まだ体が動かせないので、こんな格好で失礼します」

「とんでもありません。重傷なのに、押しかけてしまって申し訳ありません」

「構いませんよ。子供達の様子を聞きたい気持ちは分かります。新任となれば尚更でしょうし」

 最後のフレーズに、何となく皮肉めいた響きを感じてしまった。

 後で食べて下さいと伝えて、持ってきた菓子折を花瓶の横に置いた。促されて、如何にも病院という感のあるビニールの上張りがかぶせられた丸椅子に腰をかける。

「3人の生徒の特徴と、これまでどんな風に接してこられたのか伺えないでしょうか。教頭先生から、プロフィールは見せて頂いたのですが、やはり先生の見解を聞いておきたくて」

 ボクは、当たり障りのない挨拶と、さしたる特徴もない自己紹介を済ますと、早速本題を切り出した。

 三船先生の話は、前日に野々村先生から聞いた話と、ほとんど同じだった。というより、野々村先生の話が、三船先生の受け売りなのだろう。

 違っていたのは、声と表情に含まれた感情だった。

 野々村先生は、清々としたと言っていい話ぶりだった。やっかい事から開放された開放感に浸っているように見えた。

 一方の三船先生の声と表情には、嫌悪の情が見えた。触れたくないものに触れさせらたとでも言いたげだった。そして、その感情は、赤羽玲奈について語る時、露骨とも言える語り口として現れた。

「赤羽さんは、自閉症という以外に、何か問題があるんでしょうか?」

 ボクは、思い切って聞いてみた。三船先生は、しばらく天井を見据えたまま無言だったが、ややあって、躊躇いがちに話始めた。

「あの子は、自閉症ではないと思います」

 三船先生も、ボクと同じように、アスペルガーか人格障害だと思っていたのかもしれない。

「でも、医師の診断では、自閉症なんですよね」

「騙されているんです」

「騙されて?」

「確かに、児童養護施設の方のお話では、医師が自閉症と診断したそうです。でも、あの子の知能は、低いどころか、平均よりも高いでしょう。それに、自閉症からくる緘黙(言葉を発しないこと)だと言うことですが、あの子は、私に対して、口をきいたこともあるんです」

「医師が騙されているってことですか?」

 三船先生は、天井を見据えたまま肯いた。

「あの子は、極端な嘘つきなんです。自閉症のように見える症状だって、自分の意志で周りを無視しているだけです」

 三船先生は、赤羽玲奈を憎悪しているように見えた。

「知能が高いとしたら、アスペルガー障害か人格障害の可能性もあるんじゃないでしょうか」

「そうは思いません」

 三船先生は、確信に満ちた声で言い放った。

「あの子は、私を殺そうとしたんです!」

「え?」

「私の怪我は、あの子にやられたんです。それも、計画的に。アスペルガーや人格障害だったとしたら、衝動的に攻撃行動にでることはあるかもしれません。でも、時間を空けて、目撃されないようにしながら、計画的に人を殺そうとするなんて、障害がある子供がやることではありません。あの子は、障害を装っているだけの嘘つきなんです」

 言葉に詰まったボクに対して、三船先生は、畳みかけるように衝撃的な話を語り始めた。

「あの日の前日、あの子は、読む本がなくなってパニックを起こしました。何とかなだめようと思いましたが、泣き叫ぶだけでした。それどころか、手近なものを投げ付け始めたんです。私は、仕方なく、あの子を椅子に縛り付けて、教室の隅につれて行きました。そして、二人の生徒のところに戻ろうとした時、聞いたんです。ハッキリと」

 ボクは、児童を椅子に縛り付けるなんて、なんて事をするんだと思った。だが、それを問うよりも、三船先生が何を聞いたのか早く聞きたかった。ボクは、生唾を飲み込んだ。

「あの子は、言ったんです。畜生、おぼえてろよ、って」

「でも……」

 ボクの言葉を遮って、三船先生は続けた。

「その日の夕方、私は歩道橋を渡っていました。階段を下りようとした時、後から、膝の裏を蹴られたんです。私は、蹴り落とされたんです」

「まさか!」

 蹴り落とされたと言う話が本当なのか、あるいは犯人が赤羽さんなのか、ボクは、自分の言葉が、どちらのことを言ったのか、自分でも分からなかった。それぐらい、信じられない話だったからだ。

「本当です。警察にも話しました」

「見たんですか?」

 ボクの声は震えていた。

「いいえ……。多分、反対側に下りる階段のところに隠れていたんでしょう。落ちた後は気を失ってしまいましたし。でも私を殺すほど憎んでいる人なんて、他にはいるはずありません。あの子の父親が刺された事件だって、あの子がやったに違いないんです。あの子は、人殺しなんです」


「あすなろ学級を、宜しくお願いします」

 三船先生は、最後にそう言っていた。傷が癒えても、もうあすなろ学級に戻るつもりはないのかもしれない。少なくとも、赤羽さんが生徒としているうちは、戻るつもりがないのだろうと思った。

 赤羽玲奈。

 無機質な雰囲気に、あの何物をも見ていない目、そして自傷の傷を覆った包帯。

 あんな子が、二人もの人間を殺そうとしたなんて、とても想像できなかった。あの何の感情も持っていないように見える子が、人の感情の内、最も強い感情とも言える殺意を持っているとは到底考えられなかった。それに、自傷は、彼女の攻撃性が内に向かった証拠だ。内攻性の強い人格が、他人を攻撃することは、考え難いようにも思われた。


 ボクは、病院からの帰り道、バスには乗らず、アパートまでショートカットできる路地を、歩いて帰った。

 考えを整理するというより、自分の覚悟を固めたかったのだ。

 あの小さな女の子には、注意深く接しなければならない。それは間違いない。

 しかし、もし例えあの子が、人を殺そうとしたのだとしても、ボクは、三船先生が見せたような嫌悪を、抱かないように努力しよう。少なくとも、表面上には出さないようにしよう。あの子が、もし矯正が必要な状態だったとしても、自分を嫌っている相手に、子供がなつくはずはない。あくまで、あの子の味方として、あの子を導いてやろう。そう思った。

 ボクは、安っぽい若さ故かもしれない決意を固めながら、額の汗を手の甲で拭った。まだ梅雨真っ最中だったが、暑い夏の足音が、すぐそこまで来ていた。

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