4.ゲド戦記
「聞いてしまいましたか」
週明けの月曜日、初出勤したボクは、同僚となった先輩教師たちに一通りの挨拶を終えると、すかさず樫山教頭を捕まえた。三船先生の話を確認したかった。
「ニュースにもなっていませんし、目撃証言も証拠もない話ですから、室田先生には、話さない方がいいと言ってあったんですが……」
「事故の件はともかくとして、赤羽さんが喋ったという話は、事実なんでしょうか?」
「代理であすなろ教室を見てくれた先生が、佐橋君と鳥越君に聞いてみたそうなんですが、二人とも、赤羽さんが喋ったところは、聞いていないそうです」
「というと、これは三船先生だけが仰っている訳ですか」
「そうです」
ボクは、大きく息を吐き出すと、天井を見上げた。こうなると、三船先生の被害妄想のようにも思えてくる。階段から落ちたショックで、記憶が混乱している可能性だって考えられた。
「教頭先生が仰るとおり、聞かない方が良かったかもしれませんね」
樫山教頭は、ニッコリと笑って言った。
「ええ。お父さんの件も含めて、室田先生は、あまりお考えにならない方がいいでしょう」
「分かりました。そうします」
そうは言ったものの、この話を頭の中から追い出すことは、到底できそうになかった。
ボクは、右手に教科書や教材を入れたバックと、左に底が抜けるほどにふくらんだ紙袋を持って、職員室を出た。紙袋には、朝一番で図書館から借りてきた本が9冊も入っている。どれも、高学年向けの読み物だ。
もちろん玲奈、ボクは子供達をより親近感を持って話せる名前で呼ぶつもりだった、のために借りてきた本だ。でも、この本を与えて放置するつもりはなかった。本だけがコンタクトの手段なら、この本を足がかりに、彼女とコミュニケーションを取りたかった。
ボクは、玄関を通り過ぎ、ゆっくりと長い廊下を反対側の角まで歩いてきた。所々塗料の剥げたスチール製のドアは、これから当分の間、ボクの戦場となる教室への入り口だっだ。
心臓は、ハーレーのエンジンのように脈打ち、掌には、じっとりと汗が滲んでいた。ボクは、早鐘を慣らす心臓を落ち着けるため、大きく息を吸い込んだ。
軍艦鳥が真っ赤な胸を膨らませるようにして胸郭を広げ、肺いっぱいに空気を送り込むと、突然、ドアの向こうで何かが倒れる激しい音がした。
ボクは、落ち着く間もなく、決して軽くはないドアを、体重をかけて。思いきりスライドさせた。結果として、ドアは倒れた稔の机以上に、激しい音をたてた。
おまけに、「どうした?」とあげた大声は、走り回っていたらしい稔と、自分の席でおとなしく座っていたらしい明を凍り付かせた。
しまった!
ボクの体は、身長が高いだけでなく、ろくにトレーニングもしていないくせに、やたらと筋肉が付きまくっている。街で肩がぶつかって因縁を付けてくる不良が、ボクのガタイを見た途端に、急に大人しくなってしまうような成りなのだ。
そんな大男が、大声を上げて教室に突入してきたら、普通学級の子供たちだって、恐怖に固まってもおかしくない。ボクの登場は、拳銃を持って「フリーズ」と叫ぶほどの迫力があったのだ。
案の定、稔は、立ち止まったまま、大声を上げて泣き始めた。明も、まっ青な顔をしていた。
ボクは、慌てて、自己紹介しながら、稔の机を引き起こした。そして、片膝をついて、彼を席に誘導する。明にも、引きつった笑いを浮かべながら、「よろしくね」と声をかけた。
その間、唯一玲奈だけは、まるで何も無かったように辞書のページを捲っていた。
しょっぱなから大失敗してしまった。面接が終わった金曜の夜から、第一印象を良くしようと、登場の方法を思案していたのにもかかわらずだ。
だが、結果として、これはその後のクラス運営を楽にしてくれた。手のかかるはずだった稔が、そわそわした様子を見せるものの、自分の席を離れることはなかったからだ。
ただし、ボクの脚にはきつかった。立ち上がるタイミングを見つけることができず、ボクは、教室で過ごす大半の時間を、片膝をついたポーズで過ごすことになったからだ。後日、親しくなった養護教諭(保健室の先生)の関先生に、片膝用の座布団なるものを頂いたおかげで、少しはマシになったが。
そんな訳で、登場の方法こそ失敗したものの、ボクの教員生活初日は、比較的、平穏無事に過ぎていった。
明は、最初こそ脅えた様子だったものの、ボクが、象のように大きいだけで、実際には大人しい動物だということを理解してくれたのか、授業が終わる頃には笑顔を見せるようになってくれた。
それに、稔や玲奈への接し方に、助言をくれさえした。片膝をついたまま教室内を動くボクを見て、「足が悪いの?」と聞いて来たりと、確かに知的障害を思わせる言動はあったものの、周囲に対する心配りを見せ、情緒的発達は、全く問題ない様子だった。
問題は、玲奈だった。
お昼までに、彼女がとった反応は、たったの2つだった。かけられた言葉に対して首を振ることと、渡した本を選別し、9冊中7冊をボクの方に押し戻したことだけだったのだ。
「見ちゃった本だよ」
教えてくれたのは明だった。
話しかけても、笑いかけても、ただただ首を振るだけ。暴れたりしない分、自閉症としては、手のかからない範疇とも言えたが、取付く島もなく、まともな関係構築には時間がかかりそうだった。
もっとも、それさえも、昼休みにはピンチを迎えた。彼女は、早くも2冊の本を、読み終わりそうになったのだ。ボクは、慌てて図書館に駆け込み、十冊ほどの本を持ってきて、この日の午後を持ちこたえた。
彼女のページをめくる速さは異様だった。とても読んでいるとは思えない。しかし、少し背中を丸めて、彼女の瞳を覗き込むと、その目は、確かに字を追っているように見えた。
本当に読んでいるのか、聞いてみたくなったが、子供でも自尊心はある。ましてや、彼女とは信頼関係も結べるような段階ではなかったから、めまぐるしく上下する瞳を、静かに見つめるだけにしておいた。野々村先生は、学力は高いと言っていたが、その瞳には、確かに知性の輝きがあった。
結局この日、ボクは、彼女に本を与える以外のことは何もできなかった。これでは、今までの先生と変らない。無力感に、早くも打ちのめされそうになった。しかし、最初からなんでもうまく行くはずはない、そう自分に言い聞かせて、ボクは、小さな背中を見送った。
その日以降、大量の本を抱えて図書館まで往復することが、ボクの日課になった。
読みたい本を尋ねても、図書館の蔵書目録を見せても、玲奈は、相変わらず首を振るだけだった。だから、面白そうな本を、手当たり次第に持って来るしかなかったのだ。
結果は、と言えば、あまり芳しくなかった。
10冊手渡して、押し戻される本が7冊ならましな方で、9冊どころか10冊全てが押し戻されることもあった。そんな時は、仕方なくペーパーテストを押しつけて、慌てて図書館に走った。
しかも、戦績は次第に悪化し始めた。
ボクは、面白そうな本というだけでなく、情緒的な発展が望めそうな本を選択するように心がけていたから、当然、ジャンルは小説やドキュメンタリーなどの読み物に限られていた。
そんな制限が課された中では、端的に言って、松田小学校図書館の蔵書では、要求に応え切れなくなってきたのだった。
ボクが考えた事は、三船先生だって、過去に試みてはいたのだろう。低学年向けの本は、まず間違いなく突き返された。三船先生は、疲れてしまったのかもしれない。
しかし、経験も乏しく、取り柄と言えば体力しかないボクにできる事と言えば、ただひたすらに頑張ることだった。小学校の図書館蔵書で足りなければ、他から持ってくるしかない。
ボクは、樫山教頭から許可をもらい、毎日市立図書館まで往復することになった。
それでも、どんな本を与えても、玲奈が、何か反応を示すことは無かった。
その彼女が、初めて反応らしい反応を見せたのは、ボクが彼女を試した時だった。
彼女が本を読む速度は、異様と言えるほど速い。瞳は確かに文字を追っているようには見える。しかし、とても読んでいるとは思えない速さだった。だから、本当に読んでいるのか試してみようと思ったのだ。
正直に言えば、彼女のあまりの無反応ぶりに意地悪をしてみたかった、という理由も、ほんのちょっとはある。
ボクは、まず玲奈にアーシュラ・K.ル=グウィンのファンタジー、ゲド戦記シリーズ全6巻を読ませた。幸い、突き返されることはなかった。かなりの量だが、彼女は、3日もかからずに読了した。
そして、翌週になってから、彼女にゲド戦記外伝を手渡した。外伝とは言っても、版も装丁も違い、タイトルを見なければ、シリーズであることが分からないほど、外見は異なっている。そして、予想したとおり、本を手渡した段階で、彼女は、この本を突き返さなかった。
だが、この外伝は、その後「ドラゴンフライ」と改題され、第5巻として、前週に読ませた全6巻の中に収められていた。つまり、タイトルも装丁も違うが、彼女は既に読んでいる本だったのだ。
ボクは、彼女に本を手渡すと、隣の明の勉強を見ながら、横目で彼女の様子を窺った。
読み始めて直ぐ、彼女の表情に、困惑らしきものが浮かんだ。彼女が初めて見せた表情らしい表情だった。彼女は、本を閉じ、表紙とタイトルを確認し、もう一度読み始めた。そして、数ページをめくると、両手で本をパタンと閉じ、ボクの方を見た。
彼女の視線に、偶然気付いた振りをしながら、瞳を見つめ返し、「どうしたの?」と問いかけた。
ボク達は、結構長く見つめ合っていた。
彼女の瞳には、何かを言いたげな光が浮かんでいたが、結局、唇が動くことはなく、いつもの通り、首を振っただけだった。
それでも、ボクは嬉しかった。
玲奈の内面に、コミュニケーションを取りたいという意欲が芽生えたように見えたからだ。ほんの少しかもしれないが、前進できたのかもしれなかった。それは、ボクに対する苦情だったと思うが、無反応より百倍ましだった。
それに、彼女が、本当に本を読んでいることははっきりした。児童向けの読み物を持ってくることは、決して無駄ではなかった。だから、図書館を往復するボクの足取りは、大分と軽くなった。
ボクは、朝のホームルームの時間を、少し長めに行うようにしていた。3人の児童の関係の内、稔が玲奈を見る目に、どこか緊迫したものを感じていたからだ。
稔に尋ねると、「怖い」と言う。何でも、走り回ってぶつかってしまった時に、怖い顔で睨まれたそうだ。
その時はともかく、その後も怖がるほどの事だろうかとは思ったが、精神の抑制が効かない場合、怒りの爆発は、大人でも驚くほどのエネルギーを持っている。ボクはまだ、玲奈の爆発は目にしていなかったが、そうなった時には相当なレベルなのかもしれなかった。
そんな訳で、ボクは、玲奈と稔を対角において車座に座らせ、グループセラピーのまねごとをした。ボクの指導力では、わずか3人でも、もてあます程だったが、明が積極的に参加してくれたので、何とかやっていけた。
玲奈は、相変わらず首を振る以外の反応を見せなかったが、目を向け、耳を傾けている様子は見せるようになった。そんな玲奈を見て、稔も次第に警戒を解いてきたようだった。
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