3.友達

 翌朝、斎良園に電話をすると、運良く渡辺さんが居た。

「昨日は、申し訳ありませんでした。玲奈の様子は如何ですか?」

「昨日は、夜になっても、何かに脅えたような様子でしたが、今日は大分落ち着いてきたようです。恐らく、もう大丈夫ですよ」

「そうですか。良かった」

 ボクは、ホッと安堵の息を漏らした。

「あの後も、妙な質問をしにいらっしゃいましたが、何かあるんですか?」

「はい。その事で、一つお聞きしたい事があるんです。玲奈の双子の姉、いえ、空想の中の双子の姉について、何かご存じないですか?」

「空想の……ですか?」

 ボクが「はい」と答えても、渡辺さんはなかなか答えてくれなかった。

「幼児期には、そう言う空想の友達を作ることは、良くあることだと聞きますが、赤羽さんに関しては、そう言った話を聞いたことはないですね。なんなら他の職員にも聞いてみましょうか?」

「いえ、それには及びません」

 幼児期に良く見られる空想の友達(イマジナリーフレンド)が、多重人格障害の元になるという報告がされていた。明日奈が、双子の姉だと名乗っていたことから、ボクは、玲奈の場合も、そうだったのではないかと思ったのだ。

「その空想のお姉さんが、昨日の騒ぎの元なんですか?」

 ボクは、答えに迷った。この事は、まだ他の人に話すべきではないと思っていたからだ。

「ええと、確かにちょっと関わってはいます。でも、この事を玲奈には話さないで欲しいんです」

「もちろん、話しませんよ。また昨日みたいな騒ぎになって欲しくないですからね」

「ありがとうございます。それと、もう一つ、お願いがあるんです」

「何でしょう」と聞いた声は、少し警戒気味だった。

「玲奈に、ボクが謝っていたと、そして、もう一回話したいと伝えて欲しいんです」

「そうですか。分かりました。一応、伝えます。でも、期待しないで下さい。昨日は、かなりショックを受けたようでしたから」

 ボクは、極力丁寧に礼を言うと、受話器を置いた。夏休みに入っていたから、斎良園の職員に取り次いでもらわなければ、玲奈と会うことは難しかった。

 それに、明日奈にも会いたかった。だが、あんな形で別れてしまうと、明日奈の方から会いに来てくれるとは思えなかった。だから、玲奈を通じて、明日奈に呼び掛けたかったのだ。

 多重人格障害は、その言葉通り、一人の体の中に複数の人格が存在する人格障害の一種だと考えられている。

 そして、この障害が、誰にでもある多面性と大きく異なり、その本質される点は、人格が複数存在することよりも、記憶の断裂にあると言われている。副人格は、主人格のトラウマを肩代わりする存在だから、副人格の記憶を主人格が共有することはないのだ。だが、逆に副人格の方は、主人格や他の副人格の記憶を共有することがあるという。

 玲奈と明日奈の場合、トラウマを記憶する明日奈の記憶は明日奈だけのものだが、玲奈自身の記憶は、二人で共有しているのだと思われた。

 だからボクは、玲奈に呼び掛ければ、明日奈にも届くと思ったのだ。


 ボクは、期待をせずに待つことにした。昨日は、玲奈を傷付けてしまった。玲奈には虐待の記憶がないのだから、それを聞き出そうとしても、土台無理な話だったのだ。明日奈も無理だと言っていた。だが、ボクは玲奈を嘘つきだと詰ってしまった。彼女が、ボクに会いたくないと思っても、それは仕方のないことだった。

 だから、遅い昼食にそうめんをすすっていた時、電話の音に驚かされた。

 ボクが名乗ると、電話の相手は渡辺さんだった。玲奈がボクに会うという。ボクは、慌てて残りのそうめんを流し込むと、取るものもとりあえず、アパートを飛び出した。


「私も不思議に思うんですよ。昨日の今日で、良く先生と会う気になったものだって」

 ボクは、少し照れ笑いしながら言った。

「でも、良かったです。当分会えないかもと思ってましたから」

 斎良園に着くと、渡辺さんはそう言って、ボクを面接室に通してくれた。ボクは、落ち着きなくあちこち見回しながら、玲奈を待った。

 やがて小さな足音がしたかと思うと、ドアがゆっくりと開いた。

 玲奈は、一人でホワイトボードを抱え、不安そうな顔で立っていた。ボクはふと思った。随分と表情豊かになった。ボクが玲奈に初めて会った頃、玲奈はほとんど無表情だったのだ。

 ボクは、ゆっくり立ち上がると、年も背格好も遥かに小さな玲奈に向かって、思い切り頭を下げた。

「昨日はゴメン。先生が間違ってた。玲奈は嘘なんかついてなかった」

 ボクは、頭を下げていたから、玲奈がどんな表情をしているのか見えなかった。だけど、小さな足音が近づいて来たことは分かった。

『うん』

 目の前に差し出されたホワイトボードには、ただ一言だけ書かれていた。

 ボクは、恐る恐る、顔を上げた。玲奈は、目を合せてくれなかった。

「ホントにゴメン」

 今度は、玲奈を見つめながら言うと、玲奈は顔を横に逸らせたまま肯いた。

「良かった」

 ボクは、安堵の息を吐くと、玲奈に腰掛けるように言った。

 玲奈は、筆談で話しやすいように、ボクの隣に座った。まだわだかまりがあるのだろう。目は前方を見つめたままだった。

 ボクは、おずおずと切り出した。

「今日は、謝りたかっただけじゃないんだ。玲奈に、聞きたい事もあったんだ」

『なに?』

「玲奈は、それまでいた場所から、突然違う場所に行ってしまうことはない? 時間も、突然何時間も経ってしまうことってない?」

 玲奈は、目を丸くしていた。

『時々ある』

「その事を他の人に話したことはない?」

 玲奈は頭を振って、マーカーを走らせた。

『他の人はそうじゃないらしいって知っている』

「そうか。でも、その事は気にしなくていいよ。それより、もう一つ聞きたいことがあるんだ」

 玲奈は、肯いて、ボクの目を見つめていた。

「明日奈、玲奈の双子のお姉さんの事を聞きたいんだ」

 玲奈は、更に目を大きくしていた。今度は、目をしばたくだけで、マーカーを動かそうとはしない。

「先生は、何でも知ってるんだ」

 玲奈の頬が、桜色に染まった。

「明日奈は、本当にいる訳じゃないんだよね」

 玲奈の表情には戸惑いが浮かんでいたが、やがてゆっくりと肯いた。

「心の中のお姉さん?」

 今度は、直ぐに肯いた。

「いつ頃から、お姉さんと話すようになったの」

『覚えてない。ずっと昔』

「どんなお姉さんなの?」

『ちゃんと声が出せる。私よりずっと強い。こわいことがある時に助けに来てくれる』

 やっぱりか。ボクは、そう思った。

「優しいお姉さんなんだね」

 玲奈は、少しはにかんだような顔で肯くと、ボクが膝の上に置いていた手の上に、小さな手を重ねた。

『はずかしいから、だれにも言わないで』

 ボクは、なるべく優しげになるように、微笑みかけた。

「恥ずかしいことじゃないよ。先生にも昔はいたんだ。心の中の友達が」

『本当?』

「本当だよ。いっしょに話たり、遊んだりしてくれた」

 玲奈は、目を閉じ、ホワイトボードを抱きしめていた。

「先生も会いたいな。玲奈のお姉さんに」

 ボクは、明日奈に届くようにと念じながら、力を込めて言った。

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