4.ビデオ
明日奈は、なかなかやってこなかった。
あの後、玲奈には、話したのだ。2学期の準備やら、備品の整備などがあるから、先生は明日からも毎日学校にいる。教室か職員室のどちらかにいるからと。彼女の秘密を知っても、ボクが分裂した人格である明日奈を受け入れる姿勢を示せば、明日奈は、訪ねてくれると思っていた。
ボクは、彼女が直ぐにも訪ねてくれると考えていたから、月曜は落ち着かなかった。窓の外を眺めたり、廊下に首を出してみたりして、明日奈の姿を探した。
ところが、月曜どころか、火曜が過ぎ、水曜が過ぎても、明日奈は姿を現さなかった。
木曜日、今日も来なかったら、もう一回斎良園に玲奈を訪ねてみようと考えながら、ボクは、教室で飼っていた金魚の水槽を、教室の後にある水盤で掃除していた。
金魚をブリキのたらいに移し、水を捨て、砂利をザルの中で洗う。一通りの作業を終え、水槽に水を張ると、手の甲で額の汗を拭った。後はエアーを通してカルキが抜けるのを待つだけだ。
腰に手の甲を置いて振り返ると、何だかあきれたような目が、ボクを見つめていた。少し斜に構え、世の中を小馬鹿にしたような目は、明日奈の目だ。それに、彼女は、椅子の背もたれを抱え込むようにして、逆向きに座っていた。玲奈なら、こういう座り方はしない。椅子の向きを変えて座るか、せいぜい横座りだ。服は、腕の傷が見えるTシャツだった。
「わざわざ来てやったのに、何か言うことないの?」
ボクが、腰に手を置いたまま固まっていると、明日奈は少し拗ねたような声を上げた。
上ずり気味に「おはよう」と言うと、ボクは、慌てて手を洗い、明日奈の所に向かった。明の椅子を引き、腰をかける。明日奈は、黙ったまま、ボクを睨め付けていた。
「今日はTシャツなんだな」
「もう必要ないからね」
「ずっと待ってたんだ。なかなか来てくれないから、気をもんだよ」
「出てくるのに苦労したんだ。ここの所、なかなか出て来きにくいんだ」
斎良園を、という意味ではないだろう。
「どうしてだい?」
「必要ないからさ」
明日奈が肩を竦めながら口にした言葉は、自虐的に響き、ボクはなんだか悲しくなった。
「そんな顔しないでよ」
明日奈は、顔を横に向けたまま、視線だけでボクを見て言った。
「たぶん、良いことなんだからさ」
確かにそうだ。玲奈が、記憶を閉じ込めたいような危機的心理状態になっていないということは、喜ぶべき事だ。だが、目の前の少女が、自分が必要とされていないと話す事を聞き流せる程、ボクは明日奈とただの他人では無くなっていた。
「でもね……」
「でもも何もないよ。言ったじゃんか、あたしは玲奈のために居るんだ。何て言うの、守護霊みたいなもんなんだから」
ボクが、言葉を継げずに言い淀んでいると、明日奈は、ため息を付いて言った。
「それより、何か話したいことがあるんじゃないの? 玲奈のことなんでしょ」
明日奈の言う通りだった。ボクは、明日奈に頼みたいことがあったのだ。だから、明日奈を呼び出すつもりで、玲奈に呼び掛けたのだ。ボクは、ゆっくりと肯くと、声を低めて切り出した。
「証言して欲しいんだ」
「裁判とか言うやつ?」
「正確には、お父さん、赤羽雄一の親権喪失の審判だ」
「何言ってんの。先生だって、もう無理だって分かってるでしょ」
ボクは、頭を振って答えた。
「明日奈の証言が欲しいんじゃないんだ」
「お母さんの居場所なら、知らないよ」
「そうじゃない。玲奈として、証言して欲しいんだ」
「良いアイデアだけど、無理だよ。さっきも言ったじゃん。好きなときに出て来れる訳じゃないんだ」
「できれば、それが一番だったんだけど、無理なら、ビデオでも良いんだ。玲奈は審判で自分の意志を話すことができないと思う。だから、親しい人の前じゃないと話せないってことにすればいいから、ビデオでも良いと思うんだ」
明日奈は、しばらく頬を指先で掻きながら考えると、気の進まない様子で言った。
「それなら良いけど……それって、先生の嫌いな嘘じゃないの?」
確かに嘘だ。それどころか、法廷での嘘だから犯罪でさえあるかもしれなかった。
「うん。そうだね。先生は嘘をつくのは嫌いだ。嫌だよ」
ボクは、言葉を切って、大きく息を吸うと、一気に言葉を吐き出した。
「でも、玲奈を助けるためには必要な嘘なんだ。それに、この嘘は、誰も傷付けない。だから、先生の胸の中にだけしまっておけば良い。そう決めたんだ」
明日奈は、口を結んだままボクの目を見つめていたが、やがて「あたしは別に構わないけどね」と言うと、立ち上がった。
「それなら、今直ぐやろ」
明日奈は、小さな手でボクの手首を掴むと、ボクを立ち上がらせようとして引っ張った。
「今?」
「そうだよ。次にいつ出てこれるか分かんないんだから」
明日奈を説得する先を考えていなかったボクは、「そうだね」と呟きながら、重い腰を上げた
「で、どうするのさ?」
腰に手を当てて仁王立ちする小さな姿に、ボクは何だか頼もしい思いを感じた。
「まずは、視聴覚室に行って、ビデオカメラを取ってこよう」
明日奈は、関先生に手伝ってもらうというボクの提案に反対だった。
「別に、先生と二人だけでもいいじゃん」
「それはちょっと無理がある。お父さん……」
明日奈は、ボクを遮ると「そんな呼び方しないで。あいつで十分だよ」と言い捨てた。ボクは、「分かった」と両手を上げた降参のポーズを取ると、雄一氏と言い換えた。
「雄一氏が、明日奈にどんなことをしたのか、家庭裁判所の裁判官に具体的に分かってもらう必要があるんだ。で、そのためには、再現ビデオを作ることが有効なんだって」
「再現ビデオ?」
「そう。明日奈は明日奈の役を、誰かが雄一氏の役を演じて、体を使って、その時の状況を再現するビデオを撮るんだ」
「そんなの、ビデオを置いといて、先生がやればいいじゃん」
「いや、関先生にやってもらった方がいいだろ」
だが、明日奈は、頑として首を縦に振らなかった。それでも、証人も必要だからという説得を、なんとか聞き入れさせ、雄一氏の役をボクがやる代わりに、撮影を関先生にお願いするということで妥協した。それが性的虐待の再現だとなると、明日奈と二人だけでビデオを撮るというのは、どうにも居心地が悪かったのだ。
しかし、これはこれで大変だった。
関先生にも多重人格のことは秘密だったから、明日奈は、カメラが回っていない時も、玲奈の振りをしなければならなかったからだ。結果、撮影の途中、ボクは何度も口を開きそうになる明日奈を、小声で押し留めなければならなかった。明日奈は、その度に眉間に皺を寄せて、不満を表明した。
それに、ボクの方も、明日奈に対して、玲奈と呼び掛けなければならなかったから、頭の中が混乱した。今では、ボクの中では、明日奈と玲奈は、完全な別人になっていたからだ。姿形は同じでも、顔に現れる表情で、一見して区別できた。それなのに、それを敢えて逆転させることは、精神的に疲れる作業だった。手を触れることができないので、体力的にもしんどかったが、そこは地力でカバーする。
撮影が長引いてくると、途中で、もし人格が入れ替わってしまったらどうなるのかと不安にもなった。今、ボクの目の前にいる明日奈は、実はもう玲奈に人格交代してしまっているのではないか、という、妄想とは言い切れない不安に、ボクはいやが上にも苛まれた。
結果、撮影は、大きな失敗をしでかすことなく終えることができたものの、関先生は、やはり何か感じ取ったらしい。後になって、関先生に言われた。
「あの時の先生と赤羽さんは、どこかおかしかったわ」
それでも「ちょっと嫉妬したのかもしれないわね」とあらぬ方向に誤解してくれたため、多重人格のことは気取られずに済んだ。
そんなこんなで、消耗の激しい撮影が終わると、ボクは、明日奈を斎良園まで送っていった。まだ空は明るかったが、時間は既に午後7時を回っていた。
「ありがとう」
山門を通り抜け、斎良園に向かって左に折れると、ボクは傍らを歩く小さな姿に、呟くように言った。何に感謝したいのか、明日奈に対して感謝したいのか、自分自身、良く分かっていなかったが、とにかく感謝の言葉を口にしたかったのだ。明日奈は、目を丸くして手を振った。
「あたしの方こそ、お礼を言わなきゃいけない」
ボクが微笑みかけると、明日奈は夕日に染まる頬を、さらに染めて言った。
「ホント、先生には感謝してるんだ。先生がいなかったら、あたしは人殺しをしなきゃならなかった。本当は、あたしだって人殺しなんて、嫌だったんだ」
ボクは、かけるべき言葉を見失って、ただ黙って明日奈の目を見つめていた。
「先生。信じてくれる?」
その目は、玲奈と人格が入れ替わったかのように不安に満ちていた。
「信じるよ」
ボクは、慰めではなく、確信を持って答えた。
「明日奈は……ただ玲奈を守りたかっただけなんだよな」
明日奈は、唇を噛みしめるようにして肯いた。
図書館で調べた資料には、副人格には、守護人格が現れることが多いと書いてあった。だが、そんな文献を読むことがなくても、ボクは明日奈の心を疑うことはなかっただろう。明日奈は、いつでも見誤るのこと無い、真っ直ぐな目をしていた。
「三船先生を突き落としたのも、君なのか?」
「うん」
明日奈は、ゆっくりと背を向けると、やっと聞き取れるような小声で答えた。
「でも、あの時は、殺そうなんて思ってなかった。怪我をすれば、当分学校に来なくなるだろうって思ったんだ。あの先生は、玲奈を椅子に縛り付けてぶったんだ。何度も何度も、ぶったんだ」
明日奈は、涙声で訴えた。ボクは、思わず抱きしめたくなる思いをなんとか押しとどめた。
そして、ボクの心が伝わるように願って、明日奈の肩に手を添えた。
「いいんだ。もういいんだよ」
明日奈が泣き止むまで、ボクらは、そのまま立ち尽くしていた。幸い、夕闇迫るどん突きの道には、人っ子一人通らなかった。
ボクらは、月に照らされた道を無言で歩いた。
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