5.忘れもの
親権喪失の審判は、ボクの不安をよそに、あっさりと片付いた。
斎良園の細田園長や関先生が証言してくれた事も影響したし、何より、再現ビデオのインパクトが大きかった。玲奈の証言を求められた場合には、ビデオの通りだと答えさせるつもりだったが、それさえも必要なかった。ビデオを見た赤羽氏が、あっさりと虐待を認めたからだ。
「もう、家に戻される心配はしなくて良いよ。これからずっと、心配しなくていいよ」
そう伝えた時、玲奈は、まだぎこちない笑顔を浮かべていた。
これで良かった。
ボクは間違っていなかった。
嘘をつくという自分の選択が、良い方向で結実したことで、ボクは、奇妙な感覚を得ていた。
時には嘘も必要という、大人であれば当たり前に納得している処世術を認めてしまったことで、ボクは、自分が成長したとは考えられなかった。これで良かったのだと思い込むことで、強引に自分を納得させるさせるしかなかった。
ボク自身の問題は、そうやって強引に納得させた。だが、玲奈の親権問題とボク自身の良心に関わる問題は解決しても、未解決で残った問題があった。
玲奈の多重人格障害だ。
ボクは、赤羽氏の親権喪失審判が結審し、親権の喪失が、法的に、永久に確定した後も、玲奈の多重人格障害を、誰にも言い出せずにいた。細田園長や関先生にも、そして玲奈本人にもだ。
誰かにこの事を話し、玲奈が治療を受けることになれば、それは、二人が変わってしまう、あるいは明日奈が消えてしまうことになると思ったからだ。
だが、ボクのそんな思いを他所に、あのビデオを撮影した日以来、明日奈が現れることはなかった。
一方、玲奈は、赤羽氏に引き取られる可能性が無くなったからだろう、精神的に安定して来ていた。最近では、徐々にではあるが、ボク以外の人とも筆談でコミュニケーションが取れるようになった。
新学期が始まり、時折笑顔さえ見せるようになった玲奈を見ていると、明日奈と話したことが、まるで幻のように感じられた。
ボクには、それが悲しかった。明日奈の事を記憶している人間が、ボクしか存在しないことが、たまらなく悲しかった。誰かと、明日奈の事を話したかった。いや、明日奈本人と話したかった。もし、もう明日奈と会えないとしても、最後に別れを告げたかった。
だから、玲奈の顔を見ることが、辛くさえなって来ていた。特に、まだ少しだけだが、玲奈が怒ったり、喜んだり、感情を表に出した時には、どうしても明日奈の事を思い出してしまった。玲奈の成長を喜ぶべきなのに、心のどこかが辛かった。そして、秋が近づき、玲奈が袖の長い服を着ていると、尚のこと、明日奈であるかのように見えてしまい、辛さが募った。
だから、その日も、ボクは情けない顔をしていたかもしれない。
放課後、教室で翌日の指導準備をしていると、廊下を駆ける小さな足音が聞え、ドアが勢いよく開かれた。そこには、ホワイトボードを抱えた玲奈が、肩で息をしながら立っていた。彼女は、何を考えているのか読み取れない、仮面のような表情をしていた。
「何か忘れた?」
玲奈は、こくりと肯いた。そして、自分の机や物入れにではなく、ボクの方に駆け寄ってきた。
ボクが教卓から立ち上がると、玲奈は一歩手前で立ち止まり、ホワイトボードを掲げ、手早く書き始める。
『いいわすれた』
クルッと回して差し出されたホワイトボードには、それだけが書かれていた。
普段玲奈と筆談するときには、玲奈はボクの横に来て、書いたボードをちょっとだけ横に差し出して見せる。それに、普段の玲奈なら『言い忘れた』とちゃんと漢字で書くし、字ももっときれいだった。
ボクが、眉根を寄せて玲奈の目を見ると、玲奈は引ったくるようにしてボードを手に取った。
『たくぼのヤローになぐられた』
ボクは、驚いて玲奈の目を見つめた。玲奈は、絶対にこんな書き方はしない。
「明日奈?」
彼女は急に破顔すると、ちょっと悪戯っぽい、だが、これ以上はない笑顔を見せた。
「最近は、こんな事でもないと、出てこれなくてさ」
「明日奈!」
ボクは、膝を突くと、思わず彼女の両肩を掴んだ。ホワイトボードが床に落ち、乾いた音を響かせた。
「先生、痛いよ」
明日奈は、ちょっとだけ笑顔を歪めて言った。ボクは、慌てて「ゴメン」というと、明日奈の肩を手放した。
「お礼は前にも言ったから、今日は先生にお別れを言いに来たんだ」
「お別れ?」
ボクは、自分で望んでいた機会が訪れたにも関わらず、呆然としながら言った。
「そう」
「どうする、いや、どうなるんだ?」
「あたしは、もう出て来ないよ。もうあたしは必要ないから」
ボクは、思い切り頭を振ると、口を開きかけた。だが、返す言葉を見つけられず、そのまま言い淀んだ。明日奈は、玲奈の副人格だ。だから、副人格が出てこないなら、それは玲奈にとって、多重人格障害が治癒したということだ。それは望ましいことだった。だがボクにとって、納得し難い事態だった。
”必要ないなんて言うな”
そう言いたかった。でも、それを口に出すことはできなかった。だから、震える声で「明日奈」と名を呼ぶことしかできなかった。
「情けない声出さないでよ」
そう言う明日奈の声も、少し涙声だった。それに、笑顔もいつの間にか泣き笑いに変わっていた。
「最後だからさ、お別れだけじゃなくて、一つだけ……言い残したことを言いに来たんだよ」
「言い残したこと?」
「そう。これを言わないまま消えたら、後悔しちゃうこと」
ボクは、やっとのことで「何だい?」と問いかけると、明日奈の瞳を見つめた。
「あたしは先生のことが好きだったよ」
明日奈は、ボクのことを真っ直ぐに見つめたまま言った。
「ボクもだ」
ボクは、自然と明日奈を抱きしめていた。
「先生も、明日奈のことが好きだったよ」
ボクは、泣いていた。どうしようもなくて、ただ泣いていた。
「先生。今までありがとう。もう行くよ」
涙が明日奈のTシャツに染み込んで、水玉を描いていた。
「でも覚えていて欲しいんだ。あたしのことを。それに、あたしが消える訳じゃないってことを。あたしはいつでも玲奈の中にいる。先生が玲奈に話しかける時、いつでもあたしも聞いている。それを覚えておいて欲しいんだ」
ボクは、もう言葉を繰ることは出来なかった。ただしゃくり上げながら、肯いた。
「さよなら。先生」
ボクは、「さよなら」は言えなかった。言いたくなかった。明日奈は居るのだ。これからも玲奈の中にいるのだ。だから「さよなら」は言えなかった。
その代わりに、自然と明日奈の名があふれ出た。何度も何度もあふれ出た。
やがて訪れた静けさの中、それはか細い、そしてたどたどしい声だった。
「ワタシ レナ」
ボクは、慌てて抱きしめていた腕を引き離した。
ボクの目の前には、涙を流しながら、惚けたように立ちすくむ女の子がいた。
「ワタシ レナ」
それはもうか細くはなかった。まだたどたどしかったが、はっきりした声だった。そこに居たのは玲奈だった。
「声が……出せるの?」
玲奈は、こくりと肯いた。
「ボード なかった」
まだ声は少し裏返りぎみだった。
「先生 どうして 泣いてる の? どうして 明日奈の 名前を 呼んで いたの?」
「ちょっと思い出してたんだよ。玲奈の話を思い出していたんだ」
ボクは、手の甲で涙を拭いながら、言った。
「もう 心の お姉さんは 卒業 する」
それは残酷な言葉だった。でも、明日奈も玲奈の気持ちは分かっているのだ。だから別れを言いに来たのだ。だから、ボクも明日奈の気持ちに答えなければならなかった。玲奈の守護者に答えなければならなかった。
「そうだね。玲奈は強くなるんだものね」
ボクは、玲奈の瞳を見つめた。そして、心の中で一人の少女に別れを告げた。
了
ビブリオフィリア-本とあの子と人殺し 霞ヶ浦巡 @meguru-kasumigaura
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