3.ノート

 事実の確認、つまり虐待の真偽を確かめる調査は、出だしからつまずいた。玲奈本人に聞くことはできないし、知っているのではないかと考えた斎良園の田久保さんも渡辺さんも、知らなかったからだ。

 それでも、渡辺さんは「可能性としては、十分にありうる事だと思ってます」と言っていた。

 虐待、それも性的虐待を、就学前から受けていたとなれば、その虐待が原因となって、現在玲奈がかかえる症状、自閉症的な症状や自傷癖などが発生したと考えることは、むしろ自然な事に思えた。

 没入とさえ言える本への集中も、暗澹たる現実から、本の世界への逃避に違いなかった。

 本来、子供を守るべき親からの虐待は、子供にとって、この世界に存在する他者の全てを、害意を持った存在に見せてしまう。だから、全ての他者からの関わりをシャットアウトしてしまうため、玲奈は、自閉症的な症状を示しているのかもしれない。

 ボクは、自分に何ができるのか自問しながら、渡辺さんに紹介してもらった児童相談所にも電話をかけた。3月の事件の後、玲奈を一時保護していた相談所だ。

 夏休みを目前に控えた校庭は、眩しくなった日差しに輝いていた。白く輝く消石灰のラインに目を細める。

 しかし、案の定、ここもはずれだった。

「家庭内の虐待、特に性的虐待を明確にすることは、容易なことではないんです。赤羽さんのような障害を持っていなくても、子供は、親による虐待を認めたがらないことが多いのです。それ以前に、虐待だと考えていないケースでさえ多いんです」

 説明してくれたケースワーカーは、家庭内虐待問題の難しさを説明してくれた。

 無力感と悔しさで、受話器を掴む掌が、汗で滲んだ。受話器を置くと、蝉の声が、ボクの悩みをあざ笑うかのように響いている。ボクは、職員室に1台しかない電話機を離れ、足取り重く、自分の席に向かった。

 玲奈が、家に戻ることを嫌がっていることは間違いなかった。だが、その理由を話していないことも事実だ。

 話すことが躊躇われるのか、あるいは思い出すことさえ嫌なのかもしれない。もしかすれば、まだ幼いが故、不快なことだとは思っていても、その事が虐待に当たるのだとは認識していないのかもしれなかった。

 虐待が事実なら、赤羽氏による引き取りを拒むことができる。

 当然、彼は虐待を認めないだろう。彼から情報を得ることは期待できない。むしろ、言い逃れようのない事実を突きつけることが出来るようになるまでは、彼には伏せておかなければならない。

 机の上には、松田小学校で教え始めてから付け始めた経過ノートが載っていた。教頭や三船先生から聞いたショッキングな情報のため、3人の教え子の内、当初から、玲奈に関する記述が多かった。だが、ボクの苦悩の度合いに比例するように、ここのところ、急速に玲奈に関する記述が増えている。他人に見せるつもりの資料ではなかったから、明日奈について記述しているせいでもある。

 一卵性双生児だからなのだろう、顔は驚く程似ている。同じだと言ってもいいくらいだ。だが、全く同じ顔に浮かぶ表情は、ほとんど真逆だった。

 玲奈は、まるで自発的な意志がないかのように無表情で、その目は、あたかも何も映してはいないようにさえ見える。

 対する明日奈は、真夏の日差しのような意志の光を宿した目をしている。実際、彼女は、人間の意志として、恐らく最も強い意志である殺意を、その心の内に宿しているのだ。

 だが、そこまで考えて、3月に起きた赤羽氏が刺された事件と、三船先生の事故を思い出した。あの事件と事故が、玲奈が起こしたものだったのだとしたら、表情には出ないものの、二人の内には同じような意志が宿っているのかも知れない。あるいは、この2件の事件にも明日奈が関係しているのだろうか。

 ボクの頭は混乱した。直感と信念で動くボクの頭には、こういう話は苦手だった。それでも、何かおかしいとも感じていた。

 ボクは、自分よりも遥かに身長が低いにも関わらず、まるで見下ろすかのような明日奈の視線を思い出していた。現状で、彼女以外に証言をしてくれそうな人物はいない。

 しかし、彼女には、次にいつ会えるかもはっきりしない。彼女を当てにする訳にはいかない以上、玲奈本人から、何か端緒でもいいから聞き出す以外には、できることはなさそうだった。

 ただし、明日奈との約束もあるし、下手をすれば玲奈を傷付けてしまう。赤羽氏から、嫌なことをされたのかとは聞けない。

 彼女とは、まだ大したコミュニケーションも取れていない。新米教師のボクにとっては、大変な難題だった。

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