2.明日奈

 その日の夕方、ボクは、玲奈の家に向かっていた。

 彼女の家は、市の南西側にあり、学校からは、バスで一旦駅まで出て、乗り換えなければならない。ボクは、やや赤みを増してきた日差しを横顔に受けながら、赤とクリーム色で塗り分けられたバスに揺られた。

 20分ほどで、古くからある住宅街の一角でバスを降りた。各戸に生け垣があるような、サザエさん的住宅街だ。この街に、彼女は3月の事件まで、継父である赤羽雄一氏と、二人で住んでいたらしい。

 ボクは、学校で借りてきた市内の地図を片手に、歩き回った。松田小の学区からは外れているので、学校にも住宅地図はなく、ピンポイントで場所が分からなかった。

 だが、その家を見た時に、一目でそれと分かった。手入れされた庭が多い住宅街にあって、何年も放置されていることが明らかな生け垣が、異彩を放っていたからだ。中が全く見通せない鬱蒼とした生け垣の上には、雄一氏が彼の父親の代から住んでいるという古びた瓦屋根が覗いていた。

 ボクは、歩きながら表札を確認すると、狭い門柱を廻って、玄関口に踏み込んだ。

 だが、踏み出した脚が地面に着く直前、ボクの影の中で何かが揺らめいた。そして、視界の片隅には、ボクに向かって降ってくる黒い塊が見えた。

 金属を叩いたような音が響き、視界が真っ白になった。それと同時に、側頭部を激しい痛みが襲う。時間がよじれ、平衡感覚が失われる。

「ちくしょう。なんだってんだ」

 混濁した意識の中、幼い声が響いた。

 ボクは、ホワイトアウトから戻りつつある視界が、奇妙な向きになっていることが気が付いた。地面が右側にあり、家が土台から左に向かって生えていた。目の前には、土建屋さんが使うような大きなスコップがある。

 そして、右頬に、湿り気を感じて、自分が倒れている事を認識した。左の側頭部には、しびれるような鈍痛があった。

「おい、大丈夫か?」

 再び響いた幼い声に合せて、肩が揺すられた。ボクは、左手を頭に当て、上半身を起こした。何かが頭に当たったようだ。

 手を頭に当ててみた。変形もしていないし、戻した左手を見ても、血は付いていない。それほど大きな怪我はしていないようだ。

 それでも、まだ視界はゆらゆらと揺れていたし、ぼやけて焦点が合っていない感じだった。

 だが、視界の揺れは、頭と目の問題だけではなく、体全体が揺れていることも影響しているようだった。左肩に置かれた手が、未だに体を揺さぶっていた。

 その手を押えるため、左肩に右手を置くと、ボクの手は、小さな手に重なった。

「大丈夫。多分……」

 痛みに耐えながら、頭を振って答えた。そして、小さな手の持ち主を見やると、ボクは目を見開くことになった。

「玲奈?」

 そこにいたのは、赤羽玲奈本人だった。

 男の子のようなショートカットに、引き結ばれた唇は、もはや見間違うはずもない。

 だが、目だけは、ボクの記憶とは違っていた。玲奈の何かに脅えたような目ではない。炯々と意志の光に輝く双眸が、ボクを見下ろしていた。

 それに今日見た服とも違っていた。学校から帰った後で着替えでもしたのだろうか。コットン地の長袖ブラウスは、7月の日差しには少し暑すぎのように見えた。

「あたしは、玲奈じゃないよ」

 ボクは、混乱した。口をきかないはずの玲奈が、自分は玲奈ではないと喋っていた。

「あたしは、明日奈ってんだ」

 ボクは、その言葉を聞いても、まだ頭の中の整理が付かず、惚けた顔をさらしていたと思う。彼女は、ちょっと肩をすくめる大人びた仕草をして、自己紹介した。

「玲奈は、あたしの妹だよ。あたしたち双子なんだ」

 双子の姉がいるなんて、学校の記録には無かった。もっとも、母親のことだって失踪しているとしか書いてなかったくらいだから、姉妹がいても不自然ではないだろう。

「あんた、玲奈の先生だよね。ゴメン。間違えたんだ」

 間違えた?

 ではやはり、この子は、故意に殴りかかって来たというのだろうか。スコップで殴られたとすれば、それはちょっと間違ったという類の行いではない。

 誰と間違えたのかも問題だ。もちろん、それは玲奈の父親、赤羽雄一氏意外にはあり得なかった。

 ボクは、あまりに剣呑な疑問をぶつけることに躊躇した。本人の言う通り、明日奈が玲奈の双子の姉であれば、彼女は、自分の父親に凶器で殴りかかったことになる。スコップで殴るとなれば、少なくとも、殺しても構わない程度に考えていたことになる。不意に、尻に伝わる土の湿り気に気がついて、ボクは、ふらつきながら立ち上がった。

「ええと、ボクは室田修治。玲奈の先生をしてるよ」

 彼女は肯いた。

 声は発しなかった。それは同じ肯きでも、玲奈のそれとは全く違っていた。彼女は、まるで抉るかのように、ボクの目を真っ直ぐに見つめていた。

「アスナちゃんだっけ」

 ボクの問いに、彼女は同じように肯いた。ボクは、屈んで目線を合せると、非難がましい調子にならないように、抑揚を抑えて聞いた。

「お父さんを殴るつもりだったの?」

 彼女は、ゆっくりと目を背けたが、首を振った訳ではなかった。

 質問を続けると、問い詰めるような形になってしまう。ボクは、しばらく彼女の言葉を待つことにした。

 彼女の瞳は、躊躇いがちに揺れていたが、やがて真っ直ぐに下げた両の手のひらを握りしめて言った。

「そうだよ。でも、でも、聞いて欲しいんだ」

 彼女は、再びボクの目を真っ直ぐ見つめた。そして「玲奈は」と言いかけて、突如緊張に眉を顰めた。

 彼女は、周囲を見回してスコップを掴むと、反対の手で、ボクの袖の先を引いた。

「こっち。速く!」

 ボクは、怪訝に思いながらも、彼女の後を付いていった。そして、家の角を廻ったところで、彼女が慌てた理由を理解した。

 雄一氏が帰って来たのだ。

 後で考えてみると、本来は、彼に会いに来たのだから、ボクまで隠れる必要はなかったのだが、その時は、その子の剣幕に、飲まれてしまっていた。

「お父さん?」

 潜めた声で、問いかけると、ボクの顎の下で、小さなつむじが傾いた。

 雄一氏は、ボクらいることなど考えも付かない様子で、玄関を開け、家の中に消えていった。汚れた綿の作業ズボンに、Tシャツ、首にはタオルを巻いていた。表情はよく見えなかったが、玄関のドアをぴしゃりと閉じた音から、何かいらだちのようなものを感じた。

 明日奈の小さな肩が、ホッとしたように上下した。

 彼女は、生け垣の根本に、そっとスコップを置くと、再び無言でボクの袖を引っ張った。されるがままに門柱を廻り、少し大きな通りまで出ると、やっと彼女は手を離した。

「少し話せないかな?」

 通りを歩きながら、ボクは、明日奈に話しかけた。

 ボクは、玲奈の背景を知りたくて、雄一氏を訪ねていた。なりゆきで、明日奈と歩いていたが、情報は明日奈からも貰えそうだし、彼女が協力的なら、むしろ雄一氏からよりも、有用な情報が貰えるかもしれないと考えていた。

 それに、彼女がスコップで雄一氏を襲撃する理由も聞きたかったし、住所が分かっている雄一氏よりも、今は明日奈の連絡先を聞いておく方が、後々役に立つかも知れないと考えた。

「コンビニがある」

 明日奈が指指す先には、ファインマートの緑色の看板が見えていた。ボクが脈絡を捉えきれずに惚けていると、彼女は、ため息をつくようにして、もっと明確に言った。

「アイスを買ってくれたら、いいよ」

 ボクは、思わず漏れてしまった笑顔を浮かべながら肯いた。


「どうして、ボクが玲奈の先生だって分かったの?」

 ボクは、何から話し始めようかと迷った結果、地雷を踏みそうにない当たり障りの無い話から切り出した。

 明日奈は、公園の木陰に設えられた木製のベンチに座り、フルーツ入りのアイスバーを囓っていた。

「あたしは、玲奈のことなら、何でも分かるんだよ」

「でも……、君は斎良園で暮らしてはいないんだよね」

 彼女は、「うん」と答え、またアイスを囓った。

「あたしは、お母さんといる」

 失踪した母親は、一人で家を出た訳ではなかったらしい。

 ボクが、ちょっと驚いて言葉を返せないでいると、彼女は言葉を継いだ。

「でも、玲奈とあたしは特別なんだ。双子だから。先生も、ちょっと特別みたいだけど、あたしは、もっともっと、ずっとずっと特別なんだ」

 やはり、玲奈は場面緘黙症なのだろうと思った。きっと、彼女となら話せるのだろう。母親が姿をくらました後も、二人はこっそりと会っているのかも知れない。

 だとしたら、やはり玲奈が話してはくれない、父親に対する思いを聞いておいた方がいいだろう。ボクは、彼女に「教えて欲しい」と頼み、質問を発した。

「玲奈は、どうして家に戻ることを嫌がっているのかな?」

 それまで、ボクの問いに快活に答えていた彼女が、初めて言い淀んだ。

「あいつが、玲奈に……嫌なことをするからだよ」

 予想していなかった訳ではない。それでも、ボクの心臓は飛び上がった。

「嫌なことって、体を触ったりするのかな?」

 明日奈は、小さく、だがはっきりと肯いた。

 継父であることや、自傷癖があることからしても、もしやとは思っていた。だが、トラウマになっているかも知れないし、事実と違えば、それはそれで傷付ける事になるかも知れない。だから、玲奈本人に聞くことなど、できなかったのだ。

「それは、いつ頃から?」

「昔、お母さんが出て行く前。だから、小学校に入るより前かな」

 明日奈にも、それ以上は、聞けなかった。

 木陰を作っている欅には、アブラゼミが大群で止まっているに違いない。耳を押しつぶす程の音を響かせていた。

 ボクは、呆然としていたのかもしれないし、アブラゼミの鳴き声が、近づく足音を押し消していたのかもしれない。

 だから、頭の中で渦巻くやるせない思いで混乱している最中に、突然肩を叩かれ、飛び上がるほど驚いた。

「失礼。何か身分を証明するものをお持ちですか?」

 肩越しに声をかけてきた男は、空色の制服を着ていた。

「はい?」

 警察官だった。いわゆる職質というやつだ。ガタイは良くても、人相が悪い訳ではなかったので、今までボクには縁がなかった。だが、考えてみれば、ボクと明日奈は、親子にも恋人同士にも見えないだろう。怪しく見えても当然だった。

 ボクは、パスケースから教員証を取り出しながら、とりあえず二人の関係をなんと説明しようか考えていた。

「どうぞ」

 写真と現物を見比べながら、警官は「先生ですか」とつぶやいた。

「ええ」

「こちらのお子さんは?」

 ボクは、話さなければならない経緯を考えてうんざりした。長くなるだろう。

 明日奈に殴られたことは、伏せなければならなかったが、他はどうという事はないのだ。ところが、明日奈が放った言葉に、ボクの心臓は、またもや跳ね上がった。

「生徒です。赤羽玲奈っていいます」

 聞き間違いようの無い、はっきりとした大きな声だった。

 ボクは、小学校2年の時を最後にして、嘘をついた記憶が無い。嘘免疫をすっかり無くしていたボクは、慌てて明日奈の顔を見た。

 彼女は、何の屈託もない笑顔を浮かべていた。

「松田小学校は、かなり遠いと思いますが?」

 ボクは、慌てて取り消そうと思ったが、それよりも速く、明日奈が嘘を上塗りしてしまった。

「私、斎良園っていう児童養護施設に入っているんですが、家はここの直ぐ近くなんです」

「なるほど。斎良園は、松田小の近くですね」

「うん。なんなら斎良園に電話してもらっても良いですよ。今日は一時帰宅で家に帰ってたんです。先生は、ちょっと心配して、見に来てくれたの」

 3重に上塗りされた嘘に肯き、警官が勝手に納得してしまうと、ボクも「実は」とは言い出せなかった。

 警官が「失礼しました」と言いながら差し出した教員証を、ボクは、激しい後ろめたさを感じながら受け取った。

 彼が警棒をぶらぶらさせながら立ち去ると、意図して険しい顔を作り明日奈に向き直った。

「嘘は良くないな。面倒な説明はせずに済んだけど」

 彼女は、また大人びた調子で肩をすくめると、「どうってことないよ」と言い放った。

「大体、あいつら嫌いだし」

「あいつらって、おまわりさんのことかい?」

「他にいないじゃん」

「おまわりさんは正義の味方だよ」

「前から思ってたけど、先生って、おめでたいね」

 明日奈は、落ちていた10円玉を交番に届けると言った友人を見つめるような目で、ボクを見ていた。

 ボクがちょっと憮然として黙っていると、明日奈が慌てたように言い添えた。

「あ、玲奈がそう言ってた訳じゃないよ。あたしが話を聞いて、そう思ってたんだ」

 明日奈自身は、おめでたいと思っているようだ。ボクは、少し方向を切り替え、明日奈が警官を嫌っている理由を聞いた。

「あいつらが正義なもんか。あいつらは雄一をやっつけない。玲奈を助けない!」

「でも、おまわりさんだって、何も知らなきゃ何もできないよ」

「知ってるよ。あたしが手紙を書いたんだ」

「え?」

「でも、あいつらは何もしなかった。何日かして、ケースワーカーってのが、玲奈の話を聞きに来たけど、玲奈は何にも話さなかったし、雄一がそんなことしてないって言ったら、そのまま帰ってそれっきりだ」

 警察は、児童相談所に通告したのだろう。

「それは、いつ頃の話?」

「去年のクリスマスの頃だよ」

 児童相談所は、証拠も証言もない中で、それ以上踏み込めなかったのだろう。それでも、3月の事件の時に、この時のことは考慮したのかもしれない。

「それに、あいつが怪我をした時だって、警察は何も調べなかった」

「何もしなかった訳じゃないと思うよ。家庭裁判所と児童相談所ってところが、調べた結果も考えて、玲奈を斎良園に入れることにしたんだし、今も家に戻ることにはなってないだろ」

「でも、戻されるんだよ。施設の人が、そう言ってたって」

 職員が話している様子を、玲奈が聞いていたのだろうか。

「だから、君が助けようとしたの?」

 殺そうとしたのかとは聞けなかった。もし聞いてしまったら、ボクは、警察に話さなければならない。

 それをやりたくは無かった。

 快活で、しっかりとした意志の光を宿した目をした妹思いの女の子を、児童自立支援施設(かつての感化院)に送りたくは無かった。

「そうだよ。あたしはそのためにいるんだ」

「ダメだよ。あんな事をしちゃダメだ」

「でも、今のままじゃ、玲奈は家に戻されちゃう」

「だからって、君があんな事をしたら、君が不幸になる」

「ならないよ。あたしはならない、不幸になんか。あたしは、玲奈を守るんだ!」

 彼女の目に宿る意志の光が、どこから来ているのか分かった気がした。その光には、一種の狂気のような輝きさえあった。それは、親子よりも強い血の繋がりが与えた本能なのかもしれなかった。だが、彼女が、二人の境遇の差からくる後ろめたさに苛まれているようにも思われた。明日奈は、母と共に逃げ出し、恐らくは、まずしいながらも平穏に暮らしている。一方で、玲奈は継父の性的虐待を受け続けていたのだ。

「玲奈を守ろうとすることはいいことだよ。でもダメだ。他の方法を考えるんだ」

「だったら、先生も玲奈を助けてよ!」

 もとより、放っておくつもりは無かった。だからこそ、雄一氏の家にも来たのだ。

 しかし、今や玲奈一人のためだけではなくなった。妹のために叫ぶ彼女を目にして、ボクは、この子のためにも玲奈を何とかしなくてはと考えていた。でなければ、この子は、いずれ児童自立支援施設に送られ、不自由な生活を送ることになる。

 ボクは、ベンチから立ち上がった。片膝をつき、目線を合せると、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

「うん。助けるよ。約束する。だから君も約束して。もうあんな事はしないって」

 ボクは、両の肩に手のひらを置いて、彼女の言葉を待った。やがて彼女は、ゆっくりと肯いた。

「ちゃんと言葉で言って」

 ボクは、肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。

「分かったよ。もうしない」

 そう言うと、彼女はプイッと横を向いてしまった。少し拗ねたような顔をしていた。

 ボクは、両手で肩を軽く叩いて言った。

「ありがとう。二人の約束だ」

「うん」

 ボクが微笑みかけると、彼女は、顔は背けたまま、横目でちらりと視線を送ってきた。

「もう一つ、聞かせてくれないかな。玲奈のことだ。もし知ってたら聞かせて欲しい」

「なに?」

 明日奈は、少し不安そうな表情を浮かべていた。

「玲奈は、もとからしゃべれなかったの?」

「違うよ。小さい頃は喋ってた」

「どうしてしゃべれなくなったのかな? 何があったのか知ってる?」

「うん。知ってる」

 俯きながらそう言ったものの、それまでのように歯切れは良くなかった。

「お母さんが出て行ったからだよ」

 明日奈は、呟くように言った。

「やっぱりショックだったんだね」

「うん。だけど、お母さんが出て行った後に、あいつに、出て行ったのはお前のせいだって言われたことがショックだったんだ」

「玲奈のせいって、どう言うこと?」

「そこまで分かんない。でも、玲奈はそれから話さなくなったんだ」

 そう言うと、彼女は、長い影を引き連れて、立ち上がった。

「もう行かなきゃ」

 ボクは、慌てて彼女を引き留めた。

「待って。君の連絡先を教えてくれないか? 住所でも、電話番号でもいいから」

「ダメ」

 彼女は、ボクの目を見据えて言った。

「秘密にするよ。誰にも、お父さんはもちろん、玲奈にも、施設の人にも言わない」

「ダメ。あたし、お母さんといるんだよ」

 彼女は、きっぱりと言い切った。ボクは、彼女も、そして母親も、雄一氏を恐れているのかもしれないと思った。

「でも、玲奈のことで、協力するなら、また話をした方がいいと思うんだ」

「あたしが会いに行く」

 ボクは、しばらく逡巡したが、最終的に諦めた。ため息を付くようにして言った。

「分かった。松田小学校は知ってるかい?」

「大丈夫。知ってるよ」

 彼女は、腰に手を当てて胸を張ると、急に目を細めて言った。

「先生。今日二人で話したことは、玲奈には言わないで」

「どうしてだい?」

「玲奈が傷つくから」

 彼女は、目を伏せて言った。

「分かったよ。言わない」

 意味が良く分からなかったが、大きく肯いてみせる。

「それに、あたしに会ったことも、誰にも話さないで」

「もちろん。秘密にするよ」

「約束だよ」

 ボクは、出来る限りの笑顔を浮かべて、力一杯肯いた。

「ちゃんと言葉で言って」

「約束する。誰にも言わない」

 ボクは声を上げて笑い、胸に手を当てて答えると、彼女はこんな顔も出来たのかと思えるような笑顔を見せて駆け出した。

 ボクは、オレンジ色に染まった小さな後ろ姿を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。力強い仲間を得たように思える反面、大きな爆弾を抱え込んだような気がしていたからだ。

 明日奈は、恐らく誰よりも玲奈の事を理解している。そして、彼女を守る誰よりも強い決意を持っている。だが、その強い決意は、父親である雄一氏を殺し、自分が殺人者になっても構わないという恐ろしい決意でもあるのだ。

 彼女は、僅か10才にして、そんな恐ろしい決意を抱えている。それでいて、屈託無く笑えるのだ。それは、ボクの理解の範囲を超えていた。

 ボクは、言いようのない不安を感じながら、これからすべきことを考えた。

 とにかく、玲奈に対する虐待の事実を確認しなければならなかった。ただし、明日奈と約束した以上、玲奈本人に、直接聞くことはできない。

 難しい作業になりそうだった。

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