第2章
1.引き取り
夏休みを2週間後に控えた月曜日、玲奈は、3人の児童の中で真っ先に登校してきた。彼女の様子は、前週とは明らかに違っていた。
顔は青白く、全体的に強ばった印象だった。目尻には緊張が浮かび、強いストレス状態にあるように見て取れた。
ボクが教鞭を執るようになって既に1カ月を過ぎており、彼女の進歩に、自分でもうぬぼれ始めていた。ところが、この日の彼女は、逆戻りどころか、すっかり自閉状態になってしまっていた。
「おはよう」
呼び掛けにも、肯くどころか視線さえ合わそうとはしない。机の上にランドセルを置くと、昨日渡した本とボクが机の上に置いた本を手に持って、教室の角に行ってしまった。
白い包帯も復活していた。
7月に入ってからは、絆創膏が貼ってあることはあっても、包帯が巻かれていることは少なくなっていた。だが、この日は、前腕を覆うように真っ白な包帯が巻かれいた。腕の内側には、うっすらと赤いものが滲んでいる。
ボクは、胸が締め付けられるよう痛みを感じた。
何が起ったのかは想像できなかった。何かしてやらなくてはという焦燥感がつのるが、何をすることがベストなのか、ボクの乏しい経験では、答えがでなかった。
考えがまとまらないまま、ボクは彼女が膝を抱える教室の後まで行き、壁に背をつけ、並んで座った。
かける言葉として「どうしたの?」が適切でないことは分かる。でも、それが一番聞きたい問いだった。それに、二番目に聞きたい問いなんてなかった。
細いうなじに日の光があたり、産毛が震えているように見えた。彼女の瞳は、頭の中の何かを振り払おうとしているのか、一心不乱に文字を追っている。それが、ボクを拒絶しているようにも見え、尚のことボクの勇気をへし折った。
大の大人が膝を抱えて座っている姿は、滑稽でさえあったかも知れない。だが、見えない障壁を挟み、並んで座るボクらを笑う人は居なかった。
教室に入ってきた明も、最初こそ目を丸くしていたが、ボクが誰かにかかり切りになることは珍しくなかったから、手で促すと、特に気にする様子もなく、自分の席についた。
ボクは、ただ座っていた。
始業のチャイムが鳴る直前になって稔が駆け込んで来た時も、まだ同じ姿勢で、ただ座っていただけだった。
ボクは、玲奈との筆談用に使っていた小ぶりののホワイトボードに「先生はいるよ」と意味不明な言葉を書き、彼女の脇に置いて立ち上がった。
「席について」の一言も言えないまま、その日が終わると、ボクは直ぐさま斎良園に電話をかけた。田久保さんを呼び出してもらうように頼んだが、今日は非番だとのことで、電話口には代わりに渡辺と名乗った女性の福祉司が出た。
聞えてきた声は、中年の疲れを感じさせる程ではないが、さりとて張りに満ちたものでもなく、30台かなと思えるものだった。
「赤羽さんのことなんですが」
そうと切り出すと、「学校でも変化がありましたか」と返された。
「学校でもと言いますと、やはりそちらでも様子がおかしかったんですか?」
「ええ。最近は、少し積極的な様子も見せていたんですが、昨日からまた自分の殻に閉じこもるようになってしまいまして……」
「何があったんですか?」
ボクは、たまらず質問していた。
「思い当たる事はあるのですが、本当にそれが原因かは分かりません。先生は、赤羽さんと筆談で会話されると聞いていますが、彼女が何か話していませんでしたか?」
ボクは、児童養護施設での養育に活かしてもらうため、玲奈が見せた変化については、田久保さんに連絡していた。彼のやる気のなさには、正直辟易していたが、同僚への情報伝達はしていてくれたようだった。
「いえ。と言うより、ほとんど何かを聞ける雰囲気でもなくて……」
我ながら情けない話だったが、これが真実だったから、正直に話すしかないと思っていた。
「昨日、何があったんですか?」
しばらく沈黙があり、ややあって、少し低めた声で渡辺さんは言った。
「先生と言えども、児童のプライベートに関わる話は、あまりおおっぴらにはお話出来ないのですが、赤羽さんは、先生に一番なついているようですから、お話しておいた方がいいでしょう」
そう前置きして切り出された話は、玲奈の父親に関する事だった。
渡辺さんの話によると、昨日、斎良園に彼女の父親が訪れたそうだ。3月の事件以降入院していたが、現在は退院し、傷はほとんど完治したらしい。そして、玲奈を引き取ると言ってきた。
応対は、連絡を受けて出勤した細田園長がしたという。先日訪問した際、彼には事なかれ主義な印象を受けた。だから、ボクは、彼が引き取りに応じようとしたのではないかと思った。だが、園長は、父親の主張を聞き、のらりくらりと対応していたものの、最終的には引き取りには応じられない、面会もさせられないと、はっきり断ったらしい。
父親が定職についておらず、経済的な安定が得られていないことが理由だと言う。
しかし、それは表向きの理由で、実際には、父親の来訪を告げられた玲奈が、激しく脅え、父親から逃げるように隠れてしまったからだと言う。
それからだそうだ。玲奈の様子がおかしくなったのは。父親が帰ったと伝えた後も、不安感からなのか、自分の殻に閉じこもったようになってしまったという。
殺人未遂事件の事、母親の失踪、それに父親が継父であるという事実、それらから、ボクは、玲奈が父親と良好な関係にないのではないかとは思っていた。もし、今日の彼女の様子が、父親に引き取られるかもしれないと思ったが故の事なのであれば、やはり関係は相当に良くないと考えるべきだろう。
ボクのまぶたに、まるで逃げ込むように本に没頭する玲奈の痛々しい姿が浮かんだ。
実際、彼女は逃げていたのだろう。引き取られるかも知れないという恐怖感から。
「状況に変化があれば、ボクにも教えて下さい」
そう頼むと、渡辺さんは、「極力連絡します」と約束してくれた。田久保さんの様子から、渡辺さんにも期待は抱いていなかったが、彼女が玲奈を気遣っていることが分かってホッとした。それに、細田園長の事も誤解していたのかもしれない。
ボク以外にも、玲奈を助けようと思っている人はいる。ボクは、その思いに救われる思いがしたが、実際には、そう簡単にはいかないはずだった。
ボクは、歯噛みしながら、明日から何をすべきだろうかと考えた。
翌日、まだ玲奈は教室の隅にいたし、目も合わせようとはしなかった。Tシャツに描かれた象のプリントを隠すように、膝を抱え込んで本を読んでいた。
ボクは、少し余裕を持って話したかったので、明と稔には少し時間のかかる課題を与えた。二人には悪いが、今現在、困難を抱えているのは玲奈なのだ。「ここに座るよ」と声をかけ、玲奈の横にこしかけた。
「お父さんが施設に来たんだってね」
彼女の肩が、わずかに震えた。それでもやはり応答はない。ボクは、少し間を置いて、言葉を継いだ。
「でも、細田園長は、玲奈ちゃんを帰さないって、お父さんに言ったって」
ボクが、「聞いた?」と問うと、彼女は、ゆっくりと肯いた。
「お父さんと暮らすのは、嫌なの?」
再び、小さく肯く。
「そっか。嫌なのか」
ボクが、ちょっと間の抜けた調子で繰り返すと、今度は、さっきよりもしっかりと肯いた。ボクは、少しだけ踏み込んでみた。
「どうして嫌なの?」
ホワイトボードを差し出したが、彼女は、首を振るだけで、ボードを手にはしなかった。
それでも、意思疎通は再開できた。ボクは、それだけでも嬉しかった。彼女は、落ち着いた環境が続けば、きっともっと心を開いてくれるに違いない。この話題が、彼女にとって触れたくない話題というだけなのだ。
「じゃあ、先生も玲奈のために頑張ってみるよ」
玲奈は、視線を本の上にから上げて、ボクを見た。ボクも、出来る限りの笑顔を浮かべて彼女を見た。彼女が小さく肯く。
彼女の目は、何かに脅えたように、そして何かに懇願するように、弱々しく震えていた。それは、保健所で殺処分を待つ犬の目だった。
この目のおかげで、ボクは、彼女の問題に深く関わることになった。
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