4.タロとジロ

 ボクは、玲奈と話すには、やはり本から入った方がいいだろうと考えた。問題は、どんな本にするかだ。

 児童虐待に関する本では、あまりに直接すぎる。シンデレラなど、今で言えば児童虐待となる童話も数多くあるものの、やはりかえって警戒されてしまうような気がした。親子の絆を描いた本や再会の喜びを描いた本では、方向が違いすぎて話を進めにくそうだ。

 考えた結果、ボクは敢えて人間であることを外した。選んだ本は「南極越冬隊 タロジロの真実」。南極に置き去りにされた樺太犬、タロとジロについてのドキュメンタリーだ。

 これなら、玲奈に、帰るというキーワードを、あまり意識させることなく話すことができるだろうと思ったからだ。予習する程のことではなかったかもしれないが、一応、昨夜1時までかけて読了してある。

 突き返されるのではという不安もあったが、幸いそうはならなかった。この本を読ませるために、今日は敢えて渡す本を少なくしたが、彼女が一冊目に手にしたのは別の本だった。それでも、その本が読みやすい本だったこともあって、選んだ本は本日2冊目の本となり、彼女は、お昼過ぎには読み終わった。

 ボクは、はやる気持ちを抑えて、何気ない様子で机の横に膝を突いた。

「何にもない南極で、生きてたってスゴイよね」

 玲奈は、ボクの目は見ずに、こくりと肯いた。最初は肯くだけで良い質問にして、何とか取付くというボクの作戦は、成功した。

「やっぱりタロとジロも嬉しかったのかな」

 彼女は、しばらく考えると、手渡したホワイトボードに『ちがうみたい』と書いた。

 映画となった南極物語のシーンと異なり、実際のタロ・ジロと越冬隊の人々との再会は、人間を警戒して、少し険悪なものになったからだろう。

「突然別れて、長い時間が経っちゃったからかな」

『そうかも』と書いた後、マーカーは宙で止まった。ボクが肯くだけで言葉を口にせずにいると、マーカーは再び動き出した。

『人間を信じられなくなったのかも』

 ボクは、ここが勝負所だと思って、踏み込んでみることにした。

「玲奈も、お父さんが信じられなくなったの?」

 彼女は、すかさず首を振ると、『前からきらい』と書いた。表情には不快だけではなく、不安の色も浮かんでいた。

「いつ頃から嫌いなの?」

『お母さんがいなくなった時』

 明日奈は、その頃から虐待が始まったと言っていた。やはり、虐待が原因なのだろう。

「もっと前は、嫌いじゃなかったんだ」

『好きでもなかった』

「お父さん、何か嫌なことを始めたの?」

 玲奈は、静かに首を振った。ボクは、踏み込みすぎたのかと、焦りを感じながら、質問を少し変えた。

「でも、やっぱり嫌いだってことは、お父さんが悪いんだよね」

 ボクは、彼女が肯くことを期待していた。

 だが、彼女はやはり首を振ると『悪いのは私』と書いた。

 親から虐待を受けると、無条件に親を信頼する感情が働くためか、虐待を受けた自分自身が悪く、罰を受けたと考える子供が多いと、児童相談所のケースワーカーは話していた。玲奈もやはり同じように考えているのかも知れなかった。

「だから叱られたの?」

 彼女は、それでも首を振った。

「じゃあ、お父さんは怒ってた?」

 やはり彼女は首を振る。彼女の答えが予想と異なっていたことから、ボクは混乱してしまった。

 何を間違えたんだろう。それとも、彼女が幼かったが故に、認識や記憶の齟齬があるのだろうかと考えた。

「じゃあ。玲奈は、何か悪いことをしたの?」

『わかんない』

 ボクは、更に混乱した。

「それなら、やっぱり玲奈は悪くないのかもしれないよ」

 彼女は、やはり首を振るだけだった。これ以上、頭が整理できないまま会話を続けることは難しかった。ボクは、彼女との関係がぎくしゃくしたままにならないよう、会話を収めることにした。

「そっか。でも、先生は玲奈が悪かったとは思わないよ」

 この言葉にも、彼女は首を振っただけだった。

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