7.木陰

 翌日の土曜日、学校は休みだったが、ボクは出勤して、一日を職員室で過ごした。もしかしたら、明日奈が尋ねてくるのではないかと思ったからだ。

 だが、それは空振りに終り、ほんの一欠片の期待を持って、日曜の今日もバスに揺られて松田小学校にやってきた。校門に人影はない。やはり今日も空振りだろうかと思いながら、門柱も巡ると、背後から駆け寄ってくる足音が聞えた。

「先生」

 明日奈だった。

 デニムのオーバーオールの下に、見覚えのあるパステルイエローのカジュアルシャツを着込んでいた。ボクが松田小に通い始めた頃に、玲奈も同じシャツを着ていたが、玲奈の方は、今はTシャツばかりになっている。おそろいだったのだったのかもしれない。

「良かった。やっと会えたな」

 ボクが声をかけると、明日奈は、息を切らせながら「先生が見えたから……走ってきたんだ」と言った。

「何も走ってこなくても、声をかけてくれたら良いじゃないか」

「大声で呼ぶのは、恥ずかしいよ」

 明日奈は、両手を膝について、肩で息をしていた。

 ボクは、「そうかな」と呟きながら思案した。普通の女の子は、そうなのかもしれない。でも、ちょっと違うような気がしたのだ。それが何故なのかは、良く分からない。でも、何故かこの時、明日奈は嘘を言っているような気がしていた。

「でも、本当に良かったよ。実は、話したいことがあったんだ」

「あたしもだよ」

 彼女もそう言って顔を上げた。額に浮いた汗が輝いている。その顔は、些細な悪戯の露見をごまかす時のような、ちょっとはにかんだような笑顔だった。

 校庭にベンチはないので、僕らは、半分埋められたタイヤでできた遊具の所に行って、二人で腰掛けた。そこは、良い具合に木陰になっていた。

「先生の話って何?」

 明日奈と二人だと、どうした訳か、会話のペースは、明日奈に持って行かれてしまった。

「玲奈をお父さんが引き取ろうとしていた事についてだよ」

 予想していたのか、明日奈は「うん」と言ったきり、少し不安げな顔で次の言葉を待っていた。

「最後に決めるのは、児童相談所の人だけど、しばらくの間は、引き取られずに済みそうだ」

 明日奈の表情は、雲間から朝日が差し込むように、明るく輝いた。

「ほんとに?」

「もちろん、本当だよ。昨日、保健の先生に玲奈を診てもらって、玲奈が変なことをされていたらしいって、ボクから児童相談所に話しんだ。それに、斎良園の園長先生からは、お父さんが毎日働いてないから、家に戻さない方がいいって話してもらったんだ。月曜には、はっきりした答えが出るって」

「良かった」

 呟いた明日奈の頬は、とびきり好きなお菓子を食べたときのように緩んでいた。それを見て、ボクの頬も緩みそうになるが、表情を引き締め直して言葉を継ぐ。

「でも、ずっと戻さずにいてくれるって訳じゃないそうなんだ」

「どういうこと?」

 明日奈は、途端に眉根を寄せた。

「表向きの理由、これを大人は建前って言うんだけど、それは、お父さんが玲奈に不自由をさせないだけのお金を働いて稼いでいないってことなんだ。だから、お父さんが毎日働き始めてしまえば、玲奈を戻さなくちゃならなくなるかもしれないってことなんだよ」

「そんな!」

「仕方ないんだよ。でも、直ぐにって訳じゃない。それに、その間に、別の理由がはっきりすれば、戻らなくても済むようにできる」

 ボクは、明日奈が話を飲み込むまで、理解するだけでなく、仕方ないのだということを飲み込むまで、彼女の目を見つめていた。

 蝉の鳴き声がやかましい。

 そして、彼女が諦めたように息を吐き出すのを見届けて、ボクは話を続けた。

「だから、その別の理由を探すために、君にも協力して欲しいんだ」

「何をすればいいの?」

「お母さんか、あるいは君自身が、お父さんに玲奈がされていたことを、児童相談所の人に話して欲しいんだ」

「ダメ」

 即答だった。

 前回の様子から、予想はしていた。それでも、ボクや細田園長が協力していることを聞けば、明日奈も、少しは考え直してくれるのではないかと、淡い期待を持っていたのだ。

「明日奈、考え直してくれないか。お母さんに聞いてみるだけでもいい。もしかすれば、お母さんは協力してくれるかもしれないよ」

「ダメ。無理。お母さんには聞けない」

 明日奈は、その意志に満ちた目で、きっぱりと言った。

 お母さんと玲奈の間、あるいは明日奈との間に、何が在ったのか、ボクには思い描くことはできなかった。それでも、明日奈がそこまで明確に答えるだけの何かが在ったのだろうと考えた。

「それなら、君自身は……」

 ボクの懇願は、「それもダメ」という拒絶で遮られた。

「保健の先生に診てもらった結果で、証拠にはならないの? あいつがやったんだよ」

 ボクは、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。たぶん、さぞ情けない顔をしていたに違いない。「どうしてボクんちは貧乏なの?」と、我が子に問われた親のような顔だ。

「他にも原因が考えられるから、それだけじゃダメなんだそうだよ」

 俯き、呟くように話すボクを、明日奈は、非難に満ちた目で見ていた。

「助けるって言ったじゃん。先生、玲奈を助けるって言ったじゃんか」

「助ける。必ず助けるよ。先生、嘘はつかない。でも、今はまだ、時間を作ることしかできないんだ。そして、本当に玲奈を助けるためには、君にも協力して欲しいんだ」

「できることならするよ。でも、どうしたってできないことはあるんだ」

 明日奈は、目に涙をいっぱいにため、それでも、涙をこぼさないよう、目を見開いていた。

「分かった。それなら、違う方法を考えてみる。必ず助ける。だから、君は無茶をしちゃだめだよ」

 明日奈は、奥歯を噛みしめるようにしながら肯いた。

「絶対だよ」

「ああ。絶対助ける」

 玲奈本人のためだけではない。明日奈のためにも、玲奈を助けなければならなかった。

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