8.ごんぎつね

 絶対に助けるとは言ったものの、そう簡単に妙案は思い浮かばなかった。

 玲奈を赤羽氏の元に戻す必要を無くすためには、赤羽氏の親権を喪失させなければならない。そして、そのためには、虐待や全く働こうとしないなど、親であることが著しく不適当であることを家庭裁判所に認めさせなければならなかった。

 だが、この親権喪失は、余程のことが無い限り、そして、それが明確でない限り、認められない。その決定以後、親であることを一切認めない強硬な制度であるためだ。そのため、今では、親権喪失の他に、一時停止(最長2年間)も可能なように制度が改正されている。だが、当時は喪失させるしか手はなかったのだ。

 性交を含む性的虐待が行われてきたとなれば、親として著しく不適当だとは言える。だが、玲奈の場合、明確かと問われれば、答えは否だった。

 関先生は、性交が原因と推察される処女膜裂傷が見られると診断していた。だが、それが赤羽氏によるものなのかは不明なのだ。


 妙案が浮かばないまま週末が明け、夏休み前最後の月曜が来た。梅雨が明けたのか、太陽は、まるで赤熱する電気ストーブのように熱を振りまいていた。

 ボクは、目を細めて、恨みがましい視線で太陽を射ると、未だに梅雨が明けない気持ちのまま、教室の前に立った。いつものように紙袋に本を入れ、ふさがった両手の代わりに、足でドアを引き開ける。

 玲奈は、……ちゃんと席に腰掛けていた。

 相変わらず表情は硬かったが、先週のような強いストレスにさらされた緊張した面持ちではなかった。むしろ、母親のおっぱいをもらってうつらうつらする赤ん坊のような、安心した無表情だった。

 3人に向けて言った「おはよう」にも、手こそ振らないものの、こちらに目を向けて肯いた。

 ボクにできることをやろう。

 ボクは、玲奈の顔をみて、無い物ねだりはやめようと決めた。玲奈が自分の意志で虐待を語れるようになるまで、彼女との関係を深めるのだ。

 ボクは教師であって探偵でなない。彼女が、心の奥にしまい込んだ真実を暴き出すのではなく、彼女が自分自身でかけた厳重な鍵を、自ら外して見せてくれるよう働きかけるのだ。

 明には教科書の音読を、稔には算数のドリルをやるように言い渡すと、ボクは玲奈に声をかけた。

「何かいいことあったの?」

『ナベさんから聞いた。家に帰らなくてもいいことになったって』

 ナベさんとは、斎良園職員の渡辺さんのことだ。

「良かったね」

『先生も協力してくれたって聞いた』

「うん。でも、ボクだけじゃなくて、関先生もだよ。それに細田園長も」

 玲奈は、こっくりと肯くと、言いたいことを言い出せずに、躊躇うような顔を見せた。

『ありがとう』

 ボクは、嬉しかった。玲奈から礼を言われたことが嬉しかった訳じゃない。玲奈が、自分の心を、他人であるボクに分かってもらう努力をしたことが嬉しかった。

「ありがとう」は、難しい言葉だ。どんなに慣れても、その言葉が反射的に口から出るようになっても、やはり口に出すには、少なからぬ気恥ずかしさが伴う。「私の感謝の念を分かって下さい」が「ありがとう」という言葉だからだ。自ら閉じ篭もった人間には、口に出せない言葉だからだ。

「ありがとう」

 ボクは、目頭に思わず浮かんだ熱いものを抑え込み、同じ言葉を口にした。玲奈は、目をしばたいていた。何故そう言われたのか分からなかったのだろう。何故「ありがとう」という言葉だ口をついで出たのか、ボク自身も、分からなかった。でも、今は分かる。新米教師のボクに、自らの成長を示してくれたことが嬉しかったからなのだ。ボクがしてきた事が、間違ってなかったと示してくれたことが、嬉しかった。

「ゴメン。訳分かんないよね」

 ボクは、目尻を擦りながら、照れ隠しに笑って言った。

「それじゃあ、今日は少し教科書を使って授業しよう」

 チャンスだと思ったのだ。少しだけ踏み込むチャンスだと思ったのだ。

 それに、ちゃんとした授業を行う上でも、やはりチャンスだと思ったのだ。

 玲奈は、教科書を全て読み、理解もしていたから、ペーパーテストは申し分なかった。だが、国語だけはそうはいかなかった。

 もちろん、漢字や熟語など、ドリルで出題されるような問題は、普通学級の生徒でもかなわない程だ。だが、国語は、文章の意味を理解するだけではなく、行間に語られる心情を読むといった情緒教育の側面もある。玲奈は、登場人物の心情を推し量るような問題が出ると、途端に筆が止まるのだった。

「国語の教科書は読んだよね?」

 玲奈は肯いたが、机の中から教科書を取り出そうとはしない。ボクも、取り出すようには言わなかった。どのみち、頑として2度は読まないからだ。

「ごんぎつねってお話が載ってたろ。覚えてる?」

 玲奈は、少し嫌そうな顔をして肯いた。

 ごんぎつねは、児童文学作家の新美南吉が、1932年に書いた短い童話で、新美南吉が得意とした情緒的で素朴な味わいを持っている。玲奈が苦手とする、登場人物への共感や情緒的な発露を促す教材としては、最適のものだった。

 あらすじは、ひとりぼっちで悪戯者のごんぎつねが、あることから悪戯の償いしようとしたものの、逆に悪戯しようとしていると疑われ、銃で撃たれて死んでしまうというものだ。

「狐のごんは、撃たれて死ぬとき、どんなことを考えてたと思う?」

 この問いに正解はない。話の中では、死ぬ瞬間のごんの心情は描写されておらず、銃を撃った村人が、ごんが償いをしようとしていたことを悟ったことだけが、叙事的に描かれている。この問いは、ごんに感情移入させるための呼び水だった。玲奈が、ごんになったつもりになり、その心情に共感できさえすればいいのだ。

『これでいい』

「撃たれて良かったってこと?」

『ごんがうなぎを取った』

「でも、お返しをしてたよ」

『でも、うなぎを取らなかったら、お母さんは死ななかったかもしれない。悪いのはごん』

 不意に、玲奈が『悪いのは私』と書いたこととダブった。玲奈も、その時のことを思い出したのか、白い顔をして口を結んでいた。

「そうだね。でも、撃った兵十は、ごんを許す気持ちになってたんじゃないかな」

 ボクは、この世には、罪だけではなく、赦しもあるのだということは教えてやらなければならないと思った。玲奈が、何を罪だと考えているのだとしても、許しもあるのだということを教えたかった。

『そうかもしれない』

 マーカーを持つ玲奈の手は、空中で止った。ボクには、その後に続く言葉に逡巡しているように見えたが、玲奈は結局、その手を下ろしてしまった。

 ボクは、赦しの思いが玲奈に伝わるようにと思いながら、彼女の肩に手を置いて言った。

「この授業は、これでお終いにしよう」

 ドリルを終えたのか、稔が、そわそわしている様子が視界の隅に見えた。ボクは、一旦立ち上がると、稔の方に向き直った。

「ボクは稔のところに行くから、玲奈は本を読んでいていいよ」

 玲奈は、まだ何かに思いを巡らせているのか、閉じたまま置かれた本の上に視線を落としていた。ボクは後ろ髪を引かれる思いがしていたが、玲奈には、赦しの存在を消化し、吸収する時間も必要なのだと思って、そっとしておいた。


 ボクは、稔のドリルを見てやりながら、ちらちらと玲奈の様子を窺った。放心したようになっていたのはほんの少しで、直ぐに本を開いて読み始めたので、ボクはホッとした反面、玲奈が自分のトラウマにもっと向き合って欲しいという思いもあった。

「にものを持って……」

 玲奈の向こう側では、明が大きな声で音読を続けている。

「明。にものじゃなくて、にもつだよ」

「まっちがえた。間違えた」

 はやし立てる稔をたしなめ、再び視線を玲奈に送る。珍しいことに、玲奈は時折ページを逆に捲り、同じ箇所を読み返しているようだった。ボクは、玲奈が読んでいる本を確かめたくて、稔に別のドリルを押しつけて、玲奈の所に戻った。

 ボクが横から覗き込むと、その本は、以前にも読み返していたダレン・シャンの1巻「奇怪なサーカス」だった。余程気に入っているのか、あるいは、ごんぎつねを読んだことで、何か思うことが在るのか、そのどちらかだろうと思った。

 読んでいたのは、以前にも執心を見せていた、主人公ダレン・シャンが、家族との別れを決心するシーンだ。ハーフバンパイアとなってしまった主人公は、このままでは、やがて家族を傷付けてしまう、ハーフバンパイアになった事が家族に知られれば、家族から遠ざけられてしまうことに気付き、自ら家を出る。大人でも思わず涙ぐんでしまうシーン。やはり、ごんぎつねの感想を話したことで、何か思うところがあったに違いなかった。

 ボクは、思い切って問いかけた。

「ダレン・シャンは、玲奈に似ているのかな?」

 玲奈は、ボクの言葉を振り払うかのように首を振った。

「じゃあ、どんなところが違っているの?」

『お母さんと別れたくなかった』

「ダレン・シャンも、別れたくなかったんじゃないかな」

 それでも玲奈は首を振った。

『ダレン・シャンは、きらわれると思って別れることにした』

 ボクは、玲奈にはまだ言いたいことがあるような気がして、「そうだね」と相づちを打つだけにした。

『私はきらわれても別れたくなかった』

 広げた本の上に、小さな丸い染みができた。俯く玲奈の顔の下に、染みができた。ポツポツと染みができていた。

「嫌われたの?」

 問いかけたボクの声は、少し上ずっていた。

 玲奈の肩が震え、やがてしゃくり声を上げ始めたが、ボクの問いには、首肯もしなかったし、首を振りもしなかった。

「お母さんには、玲奈に言えない事情があったのかも知れないよ」

 ボクには、玲奈の肩に手を置き、慰めの言葉を言うことしかできなかった。それでも、この時以来、ボクらの間を隔てていた何かが、消え去ったような気がした。

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