9.嫌悪

 実際、それからボクらは良く話した。もちろん、玲奈は声を出さず、ホワイトボードを使用した筆談だったが、以前と比べたら、格段に意志の疎通ができるようになっていた。

 本の感想はもちろん、次にどんな本が読みたいかも話したし、玲奈が積極性を見せれば、直接図書館にも連れて行って、玲奈に本を選ばせることもした。もっとも、学校の図書館には、玲奈が未読の本はほとんどなかった。

 それに本の話題だけでなく、給食についてきたプリンの味や、斎良園にある大きなお風呂の話もした。玲奈は、斎良園での生活で、一番好きなのがお風呂だと書いていた。

『ものすごく大きい』

「へえ。どのくらい大きいの」

『横になれるくらい』

「すごいな。でも、やるなよ」

『あお向けでうかぶのが好き』

「危ないなあ」

 ボクは、笑いながら言った。玲奈も少しだけ笑顔を見せる。夏休み前、最後の1週間になって、玲奈は急速に表情豊かに、口(筆?)数多くなっていった。

 だから、その話は、玲奈から伝えられたのだ。終業式が終わり、夏休みが始まろうとする瞬間に。

『お父さんが仕事を見つけたって』

「え?」

『ナベさんが言ってた』

「そうか」

 ボクは、玲奈の顔を見つめた。少し緊張した面持ちだったが、不安に苛まれているという顔はしていなかった。

「大丈夫?」

 玲奈は、ゆっくりと肯いた。

『仕事を続けられるか分からないから、しばらく様子を見るって』

「そうか。先生は、来週も学校にいるから。話がしたくなったら、いつでも来てね」

 ボクは、ただそれしか言えなかった。

 心がはやった。急いで何とかしなければ。


 渡辺さんに聞くと、赤羽氏の就職先は、市内の倉庫会社だという。職務内容は、荷物の仕分けや、積み荷の荷揚げ荷下ろしで、難しい仕事ではないが、その分日雇いの建設工事ほど実入りは良くないだろうと言っていた。だから、続くかどうかは不透明だとも。

 それでも、1ヶ月を過ぎれば、対応は難しくなってくるし、粘っても三ヶ月、それ以上続けば、玲奈は帰さざるを得なくなるという。しかも、それさえも確実とは言えず、赤羽氏が強硬に引き取りを主張すれば、本来の親権者が赤羽氏である以上、拒むことは困難だそうだ。

「話が違うじゃないですか」

 電話口で叫ぶボクの声に、周りの教師たちが振り向いた。

「我々も、出来る限りのことはしてるんです」

「でも、玲奈は嫌がっているじゃないですか」

「本人が、引き取りを嫌がっていることは承知してます。でも、虐待の事実は認めてないでしょう。これで、どうやって引き取りを拒むことができるって言うんですか」

 そう言われると、それ以上反論できなかった。激高してしまった事を詫びて、電話を切った。自分の席に戻って頭を抱える。

「くそっ」

 赤羽氏に対してなのか、社会に対してなのか、はたまた自分に対してなのか、ボクは、それさえも分からずに毒突いた。

「室田先生」

 ボクが、突っ伏していた傷だらけの机から顔を上げると、そこには樫山教頭が立っていた。

「教師は、万能でもなければ、超人でもありません。人事を尽くして天命を待つという言葉の通り、やれるだけのことはやった上で、諦めることも必要なんですよ」

 ボクは、立ち上がると樫山教頭を睨み付けるようにして言った。

「まだ人事は尽くしてません」

 樫山教頭は、じっとボクの目を見据えて言った。

「そうですか。では、やれるだけやってみて下さい」

 ボクは、去って行く樫山教頭を見送ると、鞄を掴み、職員室を出た。ボクを待っている人がいる。そう思ったからだ。


 その人影は、校庭の隅に置かれたタイヤの遊具に腰掛けていた。

「待っててくれたの?」

「うん。話があるかなと思ってさ」

 明日奈は、薄手とは言え、さすがに暑すぎるのではないかと思える長袖Tシャツに、ショートパンツというはなはだアンバランスな格好をしていた。その姿に、ボクは疑念を強めた。

「お父さんの仕事のことは、知ってるんだね?」

「何をしてるのかは知らないけどね。でも、一応ちゃんとした仕事だってことは、知ってるよ」

「そっか。それなら話が早いや」

 ボクは、抑揚を抑えた声で言った。

「やっぱり、お母さんか明日奈が、お父さんが玲奈にしていた事を話してくれないかな?」

「前にも言ったじゃんか。それは無理だよ」

 予想していた通りの答えだったから、驚かなかった。

「うん。聞いた。一応、聞いてみただけだよ」

「じゃあ、何?」

「一つ、教えて欲しいんだ」

 明日奈は、黙ったままボクの目を見ていた。

「お母さんは、玲奈を嫌っていたのかな」

「多分、そうだと思う。少なくとも家を出るときは、嫌ってた」

「どうしてそう思うの?」

「家を出る前、お母さんは玲奈に言ったんだ。「何てケガラワシイ子なの」って」

「意味は知ってる?」

「その時は知らなかった。玲奈もね。でも、今は知ってる。それに、意味なんか知らなくても、お母さんが玲奈をどう思ってるのかは、分かったよ」

 ボクは、目を固く閉じた。

 何てことだ。

 玲奈の母親は、現場を見たか、あるいは何かで気づいたのだ。玲奈が性的虐待を受けていることを。そして、母として玲奈を救うよりも、一人の女として玲奈に嫉妬したのだ。だから玲奈は自己嫌悪に陥っている。母親の失踪の原因も、自分が悪いからだと考えてしまっているのだ。

「それで、供述してくれないってことなのか」

「キョウジュツ?」

「起こったことを話すってことだよ」

 明日奈は「そう」と言って押し黙った。ボクも、続ける言葉が無かった。でも、これで母親が供述を拒む理由も、玲奈が嫌われても別れたくなかったと書いた理由も分かった。ただし、別の可能性もある。

「明日奈。君も、やっぱり供述はしてくれないのか」

「ダメだよ」

 明日奈は、俯いたまま、ぼそりと言った。

「お父さんを襲うほど、玲奈の事を想っているのに?」

 明日奈は、即座に答えはしなかった。

 ボクが「お母さんに」と言いかけると、明日奈は遮るように頭を振った。

「そうじゃない。でもダメなの。どうしてもダメなの」

「そうか」

 ボクは、平板に呟いた。でも、諦めた訳じゃない。作戦を変更する腹を決めただけだった。

 ボクは、大きく息を吸って、心を落ち着けた。約束を破る訳じゃない、約束を反故にするだけだ。無かったことにするだけだ。約束することを断るだけだ。

「明日奈。聞いて欲しいんだ」

 改まって言った言葉に、彼女も目を上げてボクを見た。

「最近、ボクは良く玲奈と話すんだ。もちろん君たち二人ほどじゃないだろうし、玲奈は口で話す訳じゃなくて、ボードに書くんだけどね」

 明日奈は、それが何なのとでも言いたげな、胡乱な瞳でボクを見ていた。ボクは、改めて深呼吸をすると言葉を継いだ。

「だから、玲奈に直接聞きたいんだ。お父さんが玲奈に何をしたのか、話してくれないかって」

 明日奈は、まなじりを釣り上げ、初めて会った時のように、攻撃的な目をした。

「玲奈には言わないって、約束したじゃない」

「分かってる。でも、もう他に方法がないんだ」

「それしか方法がないって言うなら」

 ボクは、頭を振ると、明日奈の両肩を掴んで言葉を遮った。

「それはダメだよ。それをしちゃダメだ。それに、何よりこれは玲奈本人の事なんだ。君やボクだけでなく、玲奈本人だって戦うつもりにならなけりゃダメなんだ。玲奈には辛い事かも知れないけど、お母さんも君も供述してくれないなら、玲奈本人が話してくれなければ、玲奈が家に戻されることを止められないんだ」

「約束したじゃないか!」

「したよ。でも、その話は、約束してから聞いた訳じゃないだろ」

 明日奈は、「そんなの卑怯だ」と言ったが、語尾には力がなかった。

「ゴメン。卑怯だよな。でも、他に方法はないし、ボクは玲奈とは大分親しくなった。今なら、玲奈も話してくれる気になるかも知れない。玲奈を傷付ける事になっちゃうかも知れないけど、なるべく傷付けないように気をつけるから」

「でも、無理だよ。玲奈は覚えてないかも知れないじゃないか」

「玲奈にとって、思い出したくないことなのかは分かるけど、覚えてないはずはないよ。だって、家に戻されたら、また始まるかもしれないんだ。玲奈もそれを嫌がっているんだろ」

「なんで分かってくんないのさ」

 明日奈は、涙ぐんでいた。ボクは、多分情けない顔をしていたと思う。でも、今更決心を変えることはできない。ボクは、一語一語を切るようにして、言い含めた。

「玲奈は以前と比べたら強くなったと思う。でも、大丈夫とは言えない。それは分かってる。でも、玲奈本人が戦う勇気を持ってくれなければ、お父さんを止められないんだ。だから、明日奈にも分かって欲しいんだ」

「分からずや。無理だって言ってるのに」

 それは、ぶっきらぼうな、あきらめの混じった言い方だった。

「玲奈を傷付けないように気をつけるから」

「どうなったって知らないよ。どうせ無理なんだ。早く無理だって気が付いて、他の方法を探すしかないんだ」

 明日奈は、両の眼から、透明なしずくを滴らせていた。

 ボクは、彼女の両肩に置いた手に力を込めた。

「明日奈。ボクを信じて。まだ新米だけど、玲奈が戦う勇気を持てるように、全力で支えてあげるから」

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