第3章

1.嘘

 夏休み初日の土曜日、ボクは朝早く目を覚ますと、そそくさと朝食を取り、家を出た。児童に夏休みはあっても、教師には夏休みはない。研修やら、2学期の準備やらで忙しい。だから、この土日の内に、動けるだけ動いておきたかった。バスに乗ると、いつもより一つ手前のバス停で下車した。斎良園には、昨日の内に電話してある。学校で話し切れなかった話があるので、玲奈と話をさせて欲しいと。

 斎良園に着き、職員室に向かうと、そこには渡辺さんがいた。

「おはようございます」

 渡辺さんは、にこやかだった。

「ここ最近、玲奈ちゃんの変化に驚いているんですよ。私たちの方では、これと言ったことが出来ていないので、先生の影響らしいことは分かってます。これからも宜しくお願いします」

「いえ。ボクも大した事はしてないです。多分、家に帰らずに済むという安心感が、彼女の心の安定に、良い影響を与えたんだと思います。だから、赤羽氏が就職したことで、彼女がまた不安になってないか、心配でもあるんです。実は、今日も、その件で訪問させて頂きました」

「そうでしたか。分かりました。面接室を開けてありますから、お使い下さい」

 ボクは、面接室に案内され、そこで待つように言われた。玲奈を連れてきてくれると言う。中央に小さな机が設えられ、その両側に、すり切れの目立つソファーが2脚置かれていた。施設は、どこでもそうだが、ここも予算的には厳しいのだろう。

 ボクは、ソファーに腰掛けると、膝に両手を突いて目を閉じた。昨日考えた切り出し方を反芻する。慎重に、だが明確に、玲奈が勇気を持つように説得するつもりだった。その過程で、玲奈がボクに反感を抱いてしまっても構わない。彼女が勇気を持てさえすればいいのだ、そう考えていた。

 ややあって、入り口のドアがガラリと音を立てた。そこには、渡辺さんに付き添われた玲奈が、ホワイトボードを手にして立っていた。珍しく、玲奈がスカートを穿いていた。上は、何度か目にしたピンクのTシャツだ。

「おはよう」

 ボクは、立ち上がると、なるべく明るく呼び掛けた。玲奈の顔には、少し緊張の色が浮かんでいる。ボクが、わざわざ施設にまで来たことに驚いているようだった。

「終わったら、職員室に声をかけて下さい」

 渡辺さんは、そう言い置くと、ドアを閉めて出て行った。玲奈は、まだ入り口で立ったままだった。

「話したいことがあって来たんだ。昨日までは、まだ話せる話じゃなかったから、学校では話さなかったんだよ」

 ボクは、ソファーに腰を下ろすと、玲奈も隣に座るように促した。筆談で話すためには、向き合うより並んだ方が話しやすかった。玲奈は、心の内にある不安を隠すかのように、ホワイトボードを胸の前で握りしめていた。

 ボクは、まず玲奈の状況を言い含めるようにして話した。このままでは、いずれ斎良園を出て、お父さんの下に帰らなくてはならなくなることを。玲奈は、ホワイトボードを抱えていたが、最後にコクリと肯いた。玲奈も、理解しているのだ。

「でも、玲奈が勇気を持って話をしてくれたら、家に帰らなくても済むようにできるんだ」

『本当に?』

「うん。本当だよ」

『何を話せばいいの?』

 玲奈の顔には、まだ不安が貼り付いている。つるりとした眉根にも、少しだけ皺が浮かんでいた。

 正直に言えば、この「会話」をビデオで録画しておきたかった。だが、そんな事をすれば、玲奈が尚のこと緊張するのは目に見えている。まずはボクに話してもらい、その事を他の人にも説明するように、玲奈を説得するつもりだった。

 ボクは、一度大きく深呼吸をすると、核心に踏み込んだ。

「玲奈が小学校に入る前、お母さんが家を出て行ってしまう前から、お父さんが玲奈の体を触ったりしただろ。多分、玲奈が寝る前とかに」

 玲奈は、怯えと困惑がない交ぜになった、今にも泣きそうな顔をしていた。ボクは、玲奈がマーカーを動かすのを待った。長いこと待った。

 そして、玲奈は頭を振った。

『ねる前に、お父さんが来たことはある。でも、すぐねちゃったから、さわってないと思う』

「本当かい?」

『うん。ねた後は知らないけど』

「他の時には、触ったりしないかな。例えば、お風呂に入る時とか」

 それでもやはり玲奈は首を振った。

『おフロは、一人で入ってた。家のおフロは、小さいよ。お母さんとは、いっしょに入ったことあるけど』

 ボクは、困惑した。玲奈は、随分躊躇していたが、それでも嘘を付いているようには見えなかった。だが、身体的には関先生が非処女だと確認している。まだボクに話すことに躊躇いがあるのかもしれないと思った。

「玲奈、君が何を話したとしても、それを他の人に話しても良いと言われない限り、ボクは、絶対に秘密を守るよ。だから、本当の事を話して欲しいんだ」

 玲奈は、やはり眉根を寄せて、ボクを不信の目で見ていた。

『本当だよ』

 ボクは、次の句に迷った。と同時に、僅かながら苛ついた。ボクの思いが、玲奈に伝わらない事に。玲奈がその思いに答えようとしてくれないことに。

「家に帰るのは嫌じゃないの?」

『いやだよ。帰りたくない』

「それはお父さんが嫌いだからだろ?」

 玲奈は、素直に肯いた。だが、顔には不審の色が浮かんだままだった。

「お父さんが、何か嫌なことをするからじゃないの?」

『分からない。でもいやなの』

「それじゃあ。お父さんを嫌う理由は何?」

『よく分からない』

 玲奈は、何故かは分からないが、嘘を付いている。ボクは、そう思った。思ったから、思わず口走ってしまった。

「玲奈、嘘はダメだよ。嘘をついたらダメだ。正直に言えば、玲奈は家に帰らなくて済むようになるんだよ」

『家には帰りたくない。でも、うそはついてない』

 玲奈の顔は、不安に覆われていた。性的虐待を受けていたことを他人に話すのは、苦痛だろう。それも、男であるボクに話すことは、尚のこと苦痛だろうと思った。だけど、ボクは玲奈との間に、多少なりとも信頼関係が築けていたと思っていたのだ。それほどまでに、隠さなければならない理由が、何かあるのだろうか。他にあるのだろうか。

「お父さんのために嘘を付いているの? それとも、他の誰かのため? お母さん?」

 玲奈は、激しく頭を振って、書き殴った。

『うそなんてついてない』

「玲奈。本当の事を話してくれれば、もう、お父さんの所に帰らなくても良くなるんだよ。怖がらなくても大丈夫なんだよ」

 玲奈は、溢れんばかりの涙を貯めていた。それは、首を振る度に、こぼれ落ちた。マーカーを握る細い指は、真っ白だった。細い喉から嗚咽が漏れた。

 そして、涙をぽたぽたと垂らしながら、震える手で書いた。

『お父さんはきらい。でもうそはついてない』

 書き終わると、玲奈はホワイトボードをボクに押しつけて、駆け出した。

「玲奈!」

 玲奈は、振り返らなかった。ドアを勢いよく引き開けると、廊下に飛び出してしまった。ボクは、呆然と立ち尽くした。

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