6.定職

 翌日の放課後、ボクは斎良園に向かった。

 関先生の診察結果を持って。

 関先生は、法的措置の根拠にするなら、正式な医師の診断書が必要だと断りを入れつつ、玲奈が非処女であることは間違いないと断言した。

 ただし、虐待があったとしても、時期の特定はできないとも言っていた。少なくとも、最近ではないそうだ。

 これだけでは、十分ではないかも知れない。だが、ボクが決心を固めるためには十分だった。玲奈は、父親の元には戻させない。


 今回も、園長室に通された。前回と同様に園長の隣には、田久保さんが座った。渡辺さんは不在だった。

「ありがとうございます。赤羽さんを父親の元に返すことを断ってくれたとお聞きしました」

「礼には及びません。むしろ先生のお陰かもしれませんよ」

 細田園長は、額の汗を拭いながら言った。

「私のお陰ですか?」

「ええ。前回、先生がいらっしゃった時、彼女は自閉症ではなく、人格障害なのではないかと仰っていたでしょう」

 ボクは、「はい」と答えながら、大きく肯いた。

「先生のお話を伺って、私たちも気になって、彼女の様子を観察していたんです。彼女がここに送られてくる前、児童相談所で医師が診察した際には、確かに自閉症と診断されてはいたのです。ですが、先生が言われるとおり、誤診の可能性もありますからね」

「やはり人格障害だと思われますか?」

「正直、そこまで断言はできません。ただ、確かに通常の自閉症とは思えない点がありますから、その可能性はあると思ってます。だからこそ、赤羽雄一氏が彼女を引き取りたいと言ってきた時、お断りしたんです。人格障害だとしたら、雄一氏が原因の可能性もありますからね。赤羽さんが脅えている以上、とりあえず帰すことはできないと判断しただけです」

 ボクは、ホッと胸をなで下ろしたい気分だった。

「良かった。恐らくその通りなんです」

「その通りと言いますと?」

「玲奈は、虐待、それも性的虐待を受けていた可能性が高いんです」

 細田園長は、真剣な面持ちでボクの目を見ていた。驚いてはいないようだった。

「実は、ある人から、彼女が性的虐待を受けていたと聞かされました。それに、学校の保健の先生に看てもらったところ、彼女が非処女であることは間違いないそうです。ですから、虐待を受けていた可能性が非常に高いと思っています」

「なるほど。それなら、本人からも証言が取れれば、彼女を雄一氏の元に返す訳にはいきませんね」

 胃が縮み上がった。ボクは、泡を食って言葉を継いだ。

「でも、内容が内容ですから、本人に問いただすような聞き方はしない方がいいと思います。10才にして非処女だというだけでも、十分に虐待と見ていいんじゃないでしょうか」

「そうは行きませんよ」

 それまで、口を開くことがなかった田久保さんだった。

「判断は、児童相談所が下しますが、10才の児童は、虐待被害を全く口に出せない年齢ではありません。証言もなく、明確な証拠もないまま、引き取りを拒否し続ければ、我々が糾弾を受けることになります」

「ですが、彼女は人格障害か自閉症です。被害を訴えることができるとは限りません」

 ボクは、必死で反論した。

「先生は、筆談で話すそうじゃないですか。それこそ聞けば分かるでしょう」

「それとなく聞いてはみました。ですが、要領を得ない答えで、良く分からなかったんです」

 嘘はついていない。会話が噛み合わなかっただけなのだ。

「つまりは、虐待が疑われるような証言は、得られなかったとういことでしょう。それでは、赤羽氏が強く引き取り求めてきたら、拒否できませんよ。何も証拠はないのですから」

「ですが」

 言いかけたボクの言葉を遮って、田久保さんが叫んだ。

「赤羽氏が裁判を起こす可能性だってあるんですよ。あなたに責任が取れるんですか」

 細田園長が、穏やかに田久保さんをたしなめると、会話を引き取った。

「室田先生。あなたの仰りたいことは分かります。ですが、田久保が言ったことも事実なんです。我々には、無闇矢鱈と親子を引き離すことはできないんです。ですから、我々としても、赤羽さんに問いただしてみたいとは思います。しかし、現在我々職員で彼女と十分なコミュニケーションを取れる者はいないのです。先生が彼女とお話できるのならば、何とか証言を引き出して下さいませんか。そうすれば、我々としても引き取りを拒否することができます」

「それは、拒否できない理由を作りだそうとしているだけじゃないんですか」

 ボクは、身を乗り出しながら、思わず声を荒げていた。

「落ち着いて下さい。先生」

 細田園長は、ボクが立ち上がることを制止するかのように手を挙げて言った。

「今の段階で、虐待を理由に引き取りを拒否することはできません。ですが、他の理由なら、拒否することも可能なんです」

 ボクは、細田園長を睨み付けたまま黙っていた。

「赤羽氏は、3月の事件まで勤めていた仕事がクビになっているため、現在は定職についていません。児童を経済的に監護することが困難だとして、引き取りを拒むことができない訳ではないんです。もちろん、私の判断で決定することはできませんが、児童相談所に進言することはできます。先生も、児童相談所に対して、先生の立場として、虐待が疑われるとして通告して下さい。恐らく、当面は引き取りを拒否することができるでしょう」

 ボクは、惚けたような顔をしていただろう。自分でも、この時どんな感情を抱いていたのか、はっきり思い出せないくらいだ。

「私のお話を理解して頂けましたか?」

 細田園長の言葉に、ボクは我に返って答えた。

「は、はい。ありがとうございます」

 細田園長は、汗を拭いながら破顔した。

「ですが、これはあくまで一時的な処置ですよ。赤羽氏が安定的な収入を得るようになってしまえば、この手は使えません。そこは覚えておいて下さい」

「分かりました。時間が稼げるだけでも助かります。後は……何とかします」

 少しだけだが、光が見えてきたように感じた。

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