第3話
社会人一年生の5月。
地方都市の支社に配属され、凛果は慣れない場所で慣れない業務を日々頭に叩き込んでいた。先輩は幸いにして優しい人が多いものの、凛果の心を解きほぐしてくれるわけではない。
入社から一ヶ月が経ち、ゴールデンウィークの休暇も終えた今、再び出勤するのが予想以上に辛かった。駿平の幻影が離れない凛果にとって、休暇も楽しいものではなく、ただ消化するだけのもの。ただ仕事で気が紛れるかと言われると、まだ慣れずに疲れることばかりで、どうもうまく行かなかった。
重い体を引きずり、何とかオフィスに入り込む。しかし昼休み、「大学の友達とたまに電話している」と同期が話す声が聞こえてくると、あの時サークルを辞めなければ良かった、と後悔する。そんな同期の声を離れた場所で聞くしかない自分にも、無性に腹が立つ。
……いや、あの時は辞めることしかできなかった。あのまま在籍したって、自分も、きっと凛果の周囲も苦しいだけだった。
駿平が亡くなってからの大学生活では、決して凛果の心が強くなったわけじゃない。一人でいることと、心が強いことは同義ではない。
むしろ凛果の心は極めて脆くなっていた。いつまでも雨が止まない土地の上に、頼りなく建つ一軒家。何とか土砂災害や洪水を免れているものの、避難指示が発令され続けている一軒家。それが今の内田凛果だ。
会社の同期とも、話したくないわけではない。
しかし何年も人間関係を放棄してしまった今、凛果はコミュニケーションの取り方が分からなくなっていた。
何て声を掛ければいいのだろう。
おはよう? お疲れ?
挨拶の後、どんな言葉を続ければいいのだろう。
入社から1ヶ月も経って、今更って、思われるんだろうか。
もし仲良くなれたとして、その人が明日、死んでしまったら?
私はどんな関係を築いたらいいの?
駿平が亡くなった直後は、ユウが時々凛果に連絡を入れてくれていた。しかし、それも一ヶ月以上無視し続ければ、連絡は自然と途絶えた。今も連絡は取っていない。ユウがどこで何をしているのか、凛果には分からない。今更こちらから連絡を入れるのも、どこか失礼に当たるような気がして、ずっと避けている。
凛果や駿平、ユウの家や大学から遠く離れた地方都市。貸し与えられた社宅。
そのワンルームで目が覚めた時、凛果は誓う。
今日こそ、変わろう。
今日こそ、同期に話しかけてみよう。
今日こそ、誰かとお昼を食べよう。
今日こそ、誰かに笑顔を向けてみよう。
だけど、それが達成されたことは一度もない。「今日こそ」を何回も何回も繰り返し過ぎて、凛果の部屋には「今日こそ」の山ができているように感じられた。もうこのワンルームが埋まってしまいそうだ。
「今日こそ」の山をかきどけながら重い体を引きずり、オフィスの自席に座り、手作りの不格好なお弁当を一人で食べる。その後も無言でパソコンと向き合い、いつの間にかやってきた定時で帰宅を許され、帰る準備を始める。就活の時から変えていない黒いショルダーバッグと、「今日もできなかった」の新たな山を抱えて、エレベーターで一階まで降りる。
昨日スーパーでまとめ買いをしたので、今日の夕飯の献立は決まっている。買い出しの必要はないから、真っ直ぐ家に帰ろう。「一緒に帰ろう」とか「ご飯食べに行こう」とか、誰にも言われないから。そんな簡単な日本語を、自分も口にできないから。
会社のエントランスを出た瞬間、涙が出た。霊安室で駿平を見た時以来の涙だった。
凛果はびっくりして、辺りを見回した。……良かった、きっと誰も見ていない。
アイメイクが崩れない程度に拳で目を軽く擦ったものの、涙が止まらない。ハンカチを取り出すこともできないくらいの速さで、涙が頬を伝っていく。
私、どうしたんだろう。
何が悲しいの? 思った以上に疲れているの?
人目を避け、涙を手で拭いながら、凛果はもう片方の手でワイヤレスイヤホンを付け、スマホを取り出した。涙を止める方法すら、分からない。
何か……底抜けに明るい、この心に場違いな曲でも聴けば、涙が止まるんじゃないかと思った。よく分からない涙に、泣き笑いという名前をつければ楽になれると思った。
名前をつけられない現象が、一番怖いから。
音楽アプリを起動させ、プレイリストを再生しようとすると、「おすすめ」欄が目に入ってきた。
「あれ……『日陰の星』って……」
どこかで聞いたことのある言葉だった。前に聴いた曲だろうか。何かの本で読んだのだろうか。
聴けば思い出すだろうと、凛果は『日陰の星』の再生ボタンを押した。
(あれ……聴こえない。音量小さいのかな)
音量を上げようとした時だった。
『あ……リン?』
「え?」
『リンだよね? 久しぶり』
凛果は再び辺りを見回した。注意深く視線を動かすが、近くには誰もいない。別人のスマートフォンに繋がってしまった可能性は、考えられなかった。
おかしい。
音楽を再生しただけなのに。
なぜ会話が始まるの?
しかも、あの聴き慣れた声で。
「ど、どなたですか……」
『どなたって、もう。俺だよ。リンって呼べば、分かってくれると思ってた』
分かってる。凛果のことをリンと呼ぶ人間など、たった一人しかいない。いないからこそ、頭が追いつかないのだ。
「そんな……だって……嘘……」
『嘘じゃないよ。俺、目黒駿平……リンに、会いに来た』
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