第32話
サメやエイが泳ぐ大水槽、ペンギンが集まる小さなプール、薄暗い深海の生き物コーナー、イルカとアシカのパフォーマンス、子ども達が「こわいこわい」と親に抱きつくワニブース、眠そうにゆったりしているカピバラのコーナー、愛らしいジンベイザメの抱き枕が出迎えるお土産店。
人工的な環境ながらも、伸び伸びと泳いだり歩いたり休んだりする動物達を見て、自分は人生という限られた時間の、でも大きな水槽を与えられていたのに、全く泳ごうとしなかったのだろうな、と思い知った。
水族館のエントランスから数分は、駿平と坂井を重ねなかったわけじゃない。体型やこそ全く違うが、館内の薄暗さも相まって、駿平の面影が見えてしまうような場面もあった。
だけどペンギンが集まる屋外プールにたどり着けば、当然だけど、坂井は坂井だった。今この瞬間、この世界で自分と共に時を刻んでいるのは坂井圭太なのだと、ちゃんと理解できた。そしてそれを、悲しいだなんて思わなかった。
口では鈍感だと言いつつも、いわゆる恋愛に関する悩み事をしていたことは、坂井にバレていたかもしれない。今日こうやって水族館に来て、「区切りをつける」なんて凛果に言われて、自分は元彼の存在を忘れるための駒だと思われたかもしれない。それでも「区切りをつける決心ができたなら、一緒に戦うよ」と言ってくれた坂井に、凛果は心から感謝していた。そうやって隣にいてくれる人がいることが、素直に嬉しい。
ずっと曖昧な形だった水族館が、はっきりとした輪郭を帯びていく。そしてそれは、『目黒駿平』ではなくて、『新しい始まり』のフォルダに無事に保存された。
……まだ、『目黒駿平』のフォルダに鍵をかけることは、できないけれど。
「楽しかったね、水族館」
「うん。坂井くん、本当にありがとう」
「その……区切りは、つけられた?」
「うん。ここじゃないんだけど、あと一つだけ。それが終われば、本当に終わり」
「あと一つって?」
坂井には、駿平の存在すら話していない。ここで最後の区切りについて突然話すことには、まだ軽い抵抗があった。
「あ、ううん……それはまた、近いうちに」
「そっか。……あのさ、凛果さん。もう少し時間あるかな」
「あ、うん。今日は一日フリーだから」
「実は、お腹空いちゃったんだ。ご飯食べない? 時間的には早めの夕飯だけど……」
「確かに。割と歩いたもんね。ご飯行こう」
食欲は完全には戻っていない。でも坂井に話を聞いてもらった翌日から、かなり回復していた。
坂井は事前にいくつかリサーチしていたようで、「どれがいい?」と聞いてきた。中華を選択すると、「あ、実は僕も一番食べたいやつだったんだ」と微笑む。凛々しい眉毛がたらんと下がって、柔和な表情に変わるのが愛らしい。
水族館でのことをお互いに話しながら食事をして、店を出る頃にはほぼ夜空が広がっていた。
「坂井くん。今日はありがとう。すごく、楽しかった」
「本当? 良かった。退屈だったり、区切りをつけられなかったりしたらどうしようって、実は不安で……」
「全然。一つ一つの水槽を丁寧に見て行く人は好感が持てるし、お陰で楽しい思い出としてきちんと昇華できた気がしてるの」
「あのさ、凛果さん。……もし良ければ、何があったのか、話してもらえないかな……?」
「あぁ、そうだよね。ごめんね、詳しいこと何も言わないまんまで。ちゃんと話すね」
二人は近くの公園のベンチに腰掛けた。
凛果は、駿平との出会いや亡くなった時のこと、その後の通話のこと、その通話が途切れたこと、この前の同窓会で駿平から聴いたこと、全てを話した。普通なら天国と現世の間の通話には驚くはずなのに、坂井は凛果が探していたイヤホンの重要性に感心しただけで、「そうだったんだ」と静かに聞いていた。
「驚かないの? 毎日死者と言葉を交わしてたってこと」
「うん。僕は声を聴いたことはないけど、『いるんだろうな』って体験は何度かしてるんだ。いわゆる怖い系じゃなくて、亡くなったおじいちゃんのお墓の前だけタンポポが咲いてたとか、そういうことなんだけど。だから亡くなった人がこっちの人とコミュニケーションを取ろうとすることは、あるんだろうなって思ってるよ」
「そっか。……なんか、ごめんね。全部聞いた後だと、元彼との幻の水族館デートの整理をつけるために呼び出したみたいになっちゃって。でも私、今日は驚くほど駿平のことが頭から離れてて、本当に純粋に坂井くんと——」
「分かってる。大丈夫。もし頭の中が彼のことばっかりだったら、多分凛果さんには何を話しかけても上の空だったと思うよ。でも僕とちゃんと会話をしてくれてた。目の前の僕を見てくれてるって分かってた。それが区切りのためだとしても、僕はそれがすごく嬉しくて……あっ」
坂井はまたあの夜のように、言い過ぎた、という顔をする。しかしそれは一瞬で、坂井は一つ深呼吸をした。
「ふぅ。……もうさ、バレてるよね。僕が凛果さんのこと好きだってこと」
「えっ?!」
「えっ?! 気づいてなかった?」
凛果は何度も瞬きをする。
小夏経由だったが、普段から色々気にかけてくれていると知って、すごく優しい人だとは思っていた。優しくて、一緒にいて楽しくて、心強い存在である坂井をいつの間にか意識していたのは、むしろ自分の方だ。だから彼を今日誘ったのだ。
まさか坂井が自分を想っているなんて、全くの予想外だった。
「あ、その……自分の、自分の気持ちの整理に、精一杯で」
「あぁ、そっか……。あの、凛果さん」
坂井は突然ベンチから立ち上がる。凛果も思わず立ち上がった。
そのつぶらな瞳に凛果を映し、ひといきに言い切る。
「僕は凛果さんが好きです。付き合ってくれませんか」
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