第31話
坂井は人生を懸けてやってきた柔道に対し、区切りをつけた。最後と決めていた大会が、目の前で無くなってしまったというのに。
人が死ぬというのは、予測ができない。その意味では坂井のように、「これが最後」という意識を持って向かったものはない。だけど思いも寄らないタイミングでチャンスが奪われたというのは、凛果も坂井も同じだ。
しかも坂井はトロフィーも柔道着も全て視界から消している。そこまでして区切りをつけている。そしてしっかり就職して、もう立派に一人で人生を歩んでいる。
それに比べて自分は、未だに彼が大好きだった苺のチョコレートが手放せなくて、彼の声を聴くという非日常に没入してしまって。家族ですらないのに、死者の残り香がなくなった、そんな自然なことにも動揺して、人に迷惑をかけている。
「全然、気に障ってなんかないよ。坂井くんがそんな大変なことを乗り越えてきたんだって、知らなくて。……そうしたら、私の悩みなんて、なんてことないのかなって」
「そんなことないよ! 悩みに大きいも小さいもないよ。それで苦しんでるのはみんな一緒なんだから。内田さんは今すっごく悩んで、でもその分、すっごく頑張ってる。それは認めていいんだよ」
「坂井くん?」
「仕事に影響が出るくらいだから、相当苦しいことなんだと思う。だからこそ、一人で戦って欲しくないんだ。……その、できれば……一緒に、戦えたらって」
「一緒に?」
「あ、あぁっ! 余計なことを言ったね、ごめん。そ、その、もし力仕事が必要な場面があったらいつでも頼って、っていうか……悩みを解決する時に、力仕事なんていらないか」
もう、僕の方が何だか空回りしてごめんね、と、坂井は残り数口のナポリタンと、三分の一ほどのグラタンを一気にかきこむ。ただ、グラタンはまだ一気に食べるには熱かったようで、「あぐっ、ほふっ」とワタワタし始めた。凛果は思わず吹き出して、彼のコップに水を注ぐ。
「もう。大丈夫?」
「……ふーっ。大丈夫。もうダメだな、僕が内田さんに『大丈夫?』って言われるなんて」
「いいんだよ。ありがとう」
◇
程なくして二人は食事を終え、カフェを出た。「僕が強引に誘ったから」と、それこそ強引に、彼は二人分のお会計をした。
「なんかごめん、奢ってもらっちゃって」
「気にしないで。凛果さんが笑った顔見れただけで良かったっていうか……」
「凛果さん?」
坂井はつぶらな瞳を極限まで大きくして、「あっ」と自らの口を塞いだ。
「ごめん、つい……」
「謝ることじゃないよ。それと、凛果でいい」
「あ……うーん、まだ呼び捨ては慣れないから、凛果さん、で……」
「そっか。分かった。とにかく、今日はありがとう。ちょっと……ううん、かなり心が軽くなった気がする。坂井くんに言い当てられた感じで、びっくりしたんだ」
「本当? 僕、つい話しすぎちゃって話がまとまらないことがあるから……なんかすっごい遠回りした言い方になっちゃったけど、伝わったなら良かったよ」
「最初に『終わりと始まりが大事』って結論言ってくれたでしょ? だから分かりやすかったよ」
「あぁ、話がぐちゃぐちゃにならないように、最初に結論話したんだった。就活の面接対策で、キャリアセンターの人にすっごい鍛えられたから」
「こんな所でも就活が役立つなんてね」
夜風にあたりながら二人で歩いていく。右隣の坂井くんは思ったより筋肉質で、つい見入ってしまった。文字通り、戦ってきた肉体だった。
「凛果さん?」
「あぁ……何でもない。……あっ、一つ私からも話があるんだけど、いいかな?」
「話?」
自分の過去と、一緒に戦って欲しい。区切りをつけるために、力になって欲しい。
気づけば、そんなことを思っていた。
「今度の週末、空いてるかな……?」
◇
「凛果さん! お待たせ!」
「今日はありがとう、坂井くん」
「むしろこっちが……あ、いや。で、今日は……?」
「あそこに行きたいの」
凛果が指差した先には、多くの家族連れや若者がいる。
エントランスには顔をはめるタイプのペンギンのパネルがあって、小さな子ども達が踏み台を使って顔をはめていた。
「すっ、水族館って、その……で、デー……」
「あそこに行けば、私は区切りをつけられると思うから」
あの時、水族館に行くことは決めていた。それは近場だったかもしれないし、ドライブで遠出して行く場所だったかもしれない。そこまで決め切る前に、彼は逝ってしまった。
凛果がいつもいつも脳に映し出す駿平との思い出は、最後は必ず水色のあやふやな輪郭で終わっていた。
幻になってしまった水族館でのデート。それが形になってないから、いつまでも駿平を追いかけてしまうのだと察したのが、カフェで坂井の話を聞いている途中だった。
水族館で、新しく楽しい思い出を作ろう。
あのあやふやな輪郭を、駿平じゃない人と一緒に、はっきりさせよう。
駿平との思い出は、あの日の電話——駿平が亡くなる前日の電話——で終わりにしよう。
そして最後の最後に、『日陰の星』の意味を探る。これで全てを終わりにして、新たな始まりを作っていこう。
それが、凛果が区切りをつけるために決めたことだった。
「坂井くん。一緒に行ってくれますか」
坂井のつぶらな瞳を真っ直ぐに見つめる。凛果の真剣な眼差しの意味に気づいたのか、坂井は神妙な面持ちで頷いた。
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