新しい世界
第6話
ここ最近で一番深い眠りに落ちて、目覚まし時計より前に目が覚めた。右腕を伸ばして、備え付けのクリーム色のカーテンを開ければ、皐月の朝日が凛果の頬を照らす。
思わずスマホに手を伸ばして、シュンの声が聴けるまであと17時間もあることに、軽く絶望した。
だけど17時間経てば、また逢える。
思考を素早く良い方向に変えられたことにひどく驚いて、その反動で凛果の体も勢い良く起き上がった。漫画みたいに全身で伸びをして、腕を下ろすと同時に大きく息を吐く。気持ちが良いのも束の間、ワンルームの床には、「今日こそ」の虚しい誓いが散乱したままだ。
今日こそ、変わろう。
今日こそ、同期に話しかけてみよう。
今日こそ、誰かとお昼を食べよう。
今日こそ、誰かに笑顔を向けてみよう。
大丈夫。何か一つでも達成して、今日できたことをシュンに伝えようじゃないか。
きっと喜んでくれるに違いない。「よくできたね」って、「偉いよ」って、柔らかくて、ちょっと色気のある声で言ってくれるだろう。
無意識のうちに鼻歌なんて歌いながら、六枚切りの食パンを一枚トーストしていた。時間も心も余裕があって、目玉焼きよりも少しだけ手間をかけたスクランブルエッグを隣に乗せる。ヨーグルトには冷凍してあるミックスベリーを入れた。
お昼用のお弁当は、あえて作らなかった。同期の多くがオフィスの入ったビル内のレストランやカフェで食べていることを、知っていたから。声をかけて、一緒に混ぜてもらおう。ぎこちなくても、何か話に参加してみよう。大学とは別の、新しい世界を開くために。
いつもより五分早く社宅を出て、オフィスのあるビルに着いた。エレベーターの前にはあまり話したことのない先輩と、一人の同期がいて、何やら話しながら、箱が来るのを待っている。
「お、おはよう、ございます……」
「あ、内田さん? おはよう」
「おっ、おはよう内田さん」
呆気なかった。栗色の髪を低いシニヨンでまとめた先輩も、ボブヘアの同期も、今まで凛果から挨拶されなかったことなど全く意に介さない様子で挨拶を返してきた。程なくしてポーンと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。無機質な箱の中に、三人の女。
「あれ内田さん、今日はお弁当持ってないの?」
シニヨンの先輩が、早速声をかけてきた。
「え?」
「だって、いつも可愛いスヌーピーのミニバッグ持ってるから」
「あぁ……その、今日は……」
煮え切らない返事をしていると、ボブヘアの同期が凛果を覗き込んできた。
「あ、もしかして今日のお昼、誰かと予定ある?」
「い、いや、ない……けど……」
「じゃあ私と一緒に食べない? カフェの日替わりランチ狙ってて」
「え? あ、うん」
「じゃあ確定で! 内田さんとは初めてだから、楽しみだなぁ」
「新人さんは楽しそうでいいわねぇ」
「またまたぁ。ひよっこは、社会で生き抜く術を学んでるだけですよ」
あっという間に十階に着き、エレベーターが凛果達を吐き出した。「じゃあ、後で」とボブヘアの同期が去って行く。シニヨンの先輩は上司に呼ばれ、早々に姿を消した。
いつも人目を避けて乗り込み、妙な長さの沈黙と共にあったあの箱が、あんなにも賑やかになったのは久しぶりのことだった。
一分くらいの会話の中で、発見もあった。
シニヨンの先輩は、凛果の持ち物をよく見ているということ。ボブヘアの同期は、カフェのメニューをよくチェックしていて、先輩にも物怖じしない強さが垣間見えるということ。
挨拶をして、無視されたらどうしようと考えていた。反応してくれても、その後無言だったらどうしようとか、挨拶を返される時の声音が良くなかったらどうしようとか、色々不安だった。
挨拶をするだけでも高いハードルだったのに、今日だけで「誰かとお昼を食べる」ハードルまでクリアできそうだ。入社してからの1ヶ月、何を躊躇していたんだろう。
遠足が間近に迫った小学生みたいに、凛果の心は軽く跳ねている。
あぁ、早くシュンに伝えたい。シュンがそばにいてくれるって思うと、こんなにも気持ちが楽になったよって。できることが増えたよって。親に得意げに話す幼稚園児みたいな思考に、凛果は思わず笑みが溢れた。
始業まであと十分あるし、ダメ元でも、もしかしたら……なんて。
自販機が二台置かれた休憩スペースにスマホとワイヤレスイヤホンを持ち込んで、こっそり音楽アプリを起動させる。「お気に入り」に登録済みの『日陰の星』の再生ボタンをタップしてみた。
《この楽曲は再生できません》
「……まぁ、そうだよね」
やはり、天国のルールは簡単には変えられないようだ。
◇
お昼になった。スマホと財布を手に立ち上がろうとすると、ボブヘアの同期が凛果のデスクに駆け寄ってきた。
「内田さん、行こう。日替わりランチ、数量限定だし」
「うん」
何人かの視線を感じつつも、凛果は彼女について行く。下りのエレベーターを待つ間に、密かに聞いてみた。
「あの……他に誰か、誘ってる……?」
「ううん。内田さんだけだよ。あ、他に誰かいた方が良かった?」
「あ、ううん……」
「多分、二人きりの方が仲良くなれそうな気がして」
凛果は彼女の顔を思わず覗き込んでしまう。そうか、気を遣ってくれたんだ。
二階のカフェに着くと、少々混み始めていたものの、並ぶことなく中に入ることができた。彼女が強く求めていた日替わりランチの中身は、チキン南蛮だ。
「内田さん、何にする?」
「あっ、私も同じの……」
「りょうかーい」
彼女は素早く店員を呼び止め、日替わりランチを二つ頼んでくれた。駿平が死ぬ直前まで当たり前のように経験していた、友達との日常。確かに、こんな感じだった気がする。
しかし凛果はまだ、居心地の悪さを感じていた。向かいの彼女はそんな様子を敏感に察したようで、小首を傾げて尋ねてくる。
「どうしたの?」
凛果はおずおずと切り出した。
「あの……お名前、何だったっけ……?」
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