日陰の星
第29話
本当は凛果だって、心のどこかで分かっていた。
駿平との今の日々は非日常なんだって。死者と生者が毎日言葉を交わすことが日常だなんて、思ってはいない。もし自分の周りで毎日言葉を交わしている人がいたとしても、内心では(いつかきっと終わりが来る)と冷静に思っていたかもしれない。
でもまだ、この日々が始まって半年も経っていないのだ。駿平とは、5月に付き合って五年目を迎えたばかりで——
五年目? 二年間、空白だったのに?
「こんなことなら、きっと知らない方が良かった」
ワンルームの真ん中で、膝を抱えて独りごちる。
知らないままでいたなら、今頃きっと傷も癒えて……。
いや、そんなことはない。
駿平との日々があったからこそ、自分はまた、人と関わる世界に戻ることができた。小夏や杏香と仲良くなれたのは、紛れもなくあの日々のおかげだった。
それに、加藤に襲われそうになったのを回避できたのも、次元の間に挟まれなくて済んだのも、駿平達のような天国の人々の手助けがあったからだ。あの日々を、単に無意味な期間だったと結論づけることは到底できない。
だけど、だけど……。
あの日から一週間経つが、毎日涙が止まらない。
◇
「ねぇ凛果。前よりさらに元気ないよ。どうしたの」
会社では何とか平静を装っているつもりだったが、小夏にはお見通しの状態だった。
「同窓会で嫌なことがあったの? もし困ったことがあったら、私に——」
「ほっといて」
すると小夏の心配そうな表情が、厳しいものに変わった。
「またそれ? この前タクも一緒になって話聞いたのに、その結果すら教えてくれないんだ。あれから二人で心配してたのに。ほっといて、って何? それなら会社でそんな暗ったい顔しないでよ。目も赤く腫れててさ、メイクで隠しきれてないし。私情を挟まないでくれる?」
「それは、分かってる」
「分かってないよ。こうやって直接声かけてるのは私だけかもしれないけど、実際もっと多くの人が凛果のこと心配して、でも雰囲気的に声かけられないし、でも仕事では関わらないといけないし、で戸惑ってる。坂井くんだって『内田さん大丈夫なの?』って何回も聞いてくる。そういう人達にも『ほっといて』って言うの?」
「……坂井くんには、『心配しないで』って、言って」
「そんなの自分で言ってよ」
今の凛果とは付き合えない、と言い捨てて、小夏は去って行った。
頭では分かっている。
あれだけ人に相談したのだから、どうなったかは自分から説明する必要がある。同窓会に行くよう背中を押してくれたのは小夏の彼氏のタクだし、改めてお礼を言わなくちゃいけない。それにあの日以来、毎日小夏は声をかけてきてくれて、これで八回目だ。その度に「ほっといて」と言ってしまったのだから、彼女が怒るのは当然だった。
でも、今は
最も自分を心配して、不意に声をかけて欲しいのは駿平だけ。
駿平の前にも付き合っていた人はいた。でもその人と別れても、こんな未練はなかった。駿平とだって、生きているうちに付き合った期間はそれほど長いわけではない。でも何年経っても忘れられないし、彼が死んだ時点で全てが終わったはずなのに、現世と天国の遠距離で通話以上の何かができるわけでもないのに、自分は彼を求め続けている。
駿平との思い出を、何度思い出したか分からないくらいだけど、でもまた思い出す。
初デート、ドライブ、一緒に見た映画、海辺の夕日、大きなクリスマスツリー、採点機能をつけて対戦したカラオケ、まん丸な月が見えた温泉、花火大会、一日中楽しんだ遊園地、食べ歩き、グランピング……。
涙が出そうになるのを堪えながら、一人でコンビニのサラダとおにぎりを食べる。
これじゃあ、入社したての頃に逆戻りだ。
自分で人に壁を作って、突き放して、一人で生きていけるって虚勢を張って。
本当の自分は、この世に姿がない人間にも縋り続けなきゃいけないくらいに弱っちいのに。
「?」
目の前に、小さくて細長い、チョコレートの箱が置かれた。駿平と話せるようになってから、再び買い始めたお気に入りのお菓子。中に10粒くらい入っている、苺のチョコレート。
「あ、あの……甘いもの、摂った方がいいかな……? と思って」
顔を上げると、トレードマークの凛々しい眉毛が弱々しく下がっている。その下にあるつぶらな瞳には、小夏の言う通り、目の腫れを隠しきれていない凛果の顔が映っていた。
「弱ってる時こそ、体力が大事だから。ね」
「坂井くん……」
凛果が彼の名を呼ぶと、安心したような、くしゃっとした笑顔を見せた。だがその表情は一瞬で、また先ほどの弱々しい眉毛に戻る。
「あのさ、内田さん。あの……その」
「うん?」
「あの、今日の仕事終わったらさ、僕の話、聞いてもらえないかな」
「話?」
「うん。こういう言い方はあまりしたくないけど……その、チョコレートをあげた代わりにというか、何というか……」
「私で良ければ……でも、本当に私が聞き役でいいの?」
「うん。逆に、内田さんじゃないとダメというか……内田さん用の話というか……」
オフィスは冷房が効いているというのに、坂井の額には汗が滲んでいる。
「分かった。じゃあ、仕事の後に」
「あっ、うん。じゃあまた後で」
じゃ、と片手の手のひらをこちらに見せて、坂井は自席に戻ろうとした。
「あっ、坂井くん」
「えっ?」
「あの……これ、ありがとう。いただきます」
「あぁ、うん」
正直、今見たいパッケージではない。
だけど箱を開け、一粒口に入れてみれば、久方ぶりの糖分が凛果を包み込んだ。
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