第8話 いざ、生活と労働

 朝。目の前のお寺の鐘の音で目を覚ます。

 耐震工事の際に防音も追加してもらって、初めて聞いたときは飛び上がるくらいに大きかった鐘の音は、ちょっと大きなテレビの音とか、選挙の街宣車くらいの音量になった。

 私はベッドから起き上がり、大きく伸びをする。パジャマがわりのスウェットの上下のまま、洗面台へ向かう。

 

 水回りは、もなか先生がリフォームの際、特にこだわった部分らしい。独立した洗面所は、真っ白な陶器で作られており、台は家のメインである焦茶の大黒柱に似た色で家との一体感を表している。お湯も水も出る蛇口は、真鍮のような色をしたレトロな形をしていて、毎日ちょっといいホテルに泊まった感じになって、朝からテンションが上がる。


 顔を洗って台所へ。私の朝食はホットサンドとスープとヨーグルトくらいなのだが、それだと取材の際にお昼まで持たないので、追加でバナナを一本食べている。今日のホットサンドはベーコンと目玉焼きと千切りキャベツを挟んだものだ。目玉焼きは普段は醤油派だが、ホットサンドのときはソースをかける。今日は取材の日である。しっかり食べなければ。

 朝のおつとめの読経を聞きながら、スマートフォンで今日のトップニュースを斜め読みする。今までなんとなくテレビをつけていたけど、朝はお寺からのBGMが賑やかなので、テレビを見ないで過ごすことが多くなった。


 食後のコーヒーを飲んでいると、母からメールが来た。見ると『庭の紅葉が綺麗に赤くなったけど、そっちはどう? 遊びに行ってもいい?』という内容だった。

 この人は気まぐれに連絡をし、気まぐれにウチに遊びに来ようとしている。観光目当てなのは明白だが、それともう一つ。私に男の影があるかどうかを確認しようとしているのだ。

『こっちは観光客でいっぱいで紅葉どころじゃないよ。もう少し早く言ってもらわなきゃ』

来ても無駄ですよー、と言う意味を含めて返信をする。すると「残念」の顔をしたキャラクターのスタンプが返ってきた。よしよし、今回も上手く回避できた。


 スーツに着替えて機材を入れたリュックを背負う。長時間歩いても疲れないという謳い文句のパンプスを履き(何にせよ疲れるのには変わりない)、ガスの元栓と戸締りを確認していざ出勤。

 取材先の和カフェは開店前に着くように言われている。最近できたカフェだが、器として出している和食器とパンケーキの映えっぷりから口コミでじわじわと人気が高まり、平日でも開店前から行列ができるほどの繁盛ぶりだ。

 古民家を改築した店舗にたどり着くと、私は格子戸を軽く叩いた。はぁい、と中から声がして、20代後半くらいだろうか、私より若そうな女性が紺のエプロン姿で現れた。

「おはようございます。ミニかま編集部の片野です。本日はよろしくお願いします」

「おはようございます。和カフェ『和のや』店主の茂木です。本日はよろしくお願いいたします」

 名刺交換がスムーズに行われる。茂木さんからは予想以上の礼儀正しい挨拶が返ってきた。いいとこのお嬢様なんだろうか。

「まずは、店先で茂木さんとお店の撮影よろしいでしょうか?」

「ええ、あ、暖簾を下げた方がいいですかね? 準備しますのでお待ちくださいね」

 茂木さんはぱたぱたと店内に戻り、藍染の暖簾を慣れた手つきで軒先に掛けた。私はその間にリュックの中からミラーレスカメラを取り出し、撮影の準備をした。

「いいですね、和の雰囲気がぐっと高まります。いい暖簾ですねー」

 じゃあ、撮りますね、と言いながらカメラのシャッターを数回押す。

「こんな感じでどうでしょう。今回の和カフェ特集のトップとして大きめに紙面に乗る予定です」

 撮影した画像を、茂木さんに見せる。藍染の暖簾に格子戸、飛び石の周りは苔むしていて、玄関先までの紅葉が綺麗なコントラストを描いていた。いいですねぇ、と茂木さんも笑顔で応えてくれた。うん、今日はいい取材ができそうだ。

「暖簾を片付けますから、先に中に入っていてください」

 うっかり出しっぱなしにしておくと、もう開店しているのかと客が勘違いしそうだ。開店までまだ2時間はあるとはいえ、ポツポツ観光客の姿が見え始めているのは、さすが紅葉の季節か。

「お邪魔しまぁす」

「どうぞー」

 茂木さんの声を背中に聞きながら中に入ると、店内にもう1人、若い女性がいた。ぺこりと頭を下げて、挨拶をする。

「おはようございます、今日はよろしくお願いします」

「あっ、おはようございます。ミニかま編集部の片野です」

「従業員の高崎です。茂木の同級生なんです」

 わぁ、同級生と2人で和カフェ経営かぁ。今どきの若い子はチャレンジ精神旺盛だなぁ。


 私が彼女たちの年齢だった頃は、「長く、手堅く、安定した」会社へ勤めるのがいいという風潮がまだ残っていた時代だった。出版社というちょっと斜陽な業界に入ったとはいえ、毎月一定のお給料は出るし、土日休みだし、福利厚生だってきちんとあった。

 だが、彼女たちはそんな安定を投げ捨て、自分たちが楽しいと思うこと、やりたいという気持ちを優先した。古民家を借りたお金だって、改装したお金だって、彼女たちの年齢なら借金だろう。そんな不安定な生活の中、客をもてなし、喜ばせ、美味しいスイーツを季節ごとに発案し続ける。きっと私が思っているより厳しい生活だろう。でも、彼女たちはそこへ飛び込んだ。『好き』という気持ちを1番にして。

そしてそれは成功しつつある。きっとミニコミ誌以外にも取材がくるだろう。ひょっとしたらテレビ出演もあるかもしれない。

 和カフェ『和のや』には、そんな勢いと活気が満ちていた。

 気の合う友人と、2人で好きなことをして生きていく。


なんだか羨ましいな。


 取材を続けながら、私の胸がちくりと痛んだ。


「あれ、データの確認は明日でもいいって言ったのに」

 編集部に寄ったら、田所さんが不思議そうな顔をして迎えてくれた。

「いい画が撮れたので、編集長にすぐに見せたくて」

 私はぎこちない笑顔を向けて言った。田所さんはふぅん、と私の様子を見て、コーヒー淹れるね、とデスクから立ち上がった。

「うん、悪くない。さすが井上君の鍛えた子だなぁ。押さえるべきポイントをしっかり押さえてる」

 取材をした数店のデータを確認しながら、田所さんはニコニコして私に向かってこう言った。

「で、何があったの?」

 私は思わず、まだ熱いコーヒーを思い切り飲み込んでむせてしまった。

「大丈夫かい?」

「だ、大丈夫です」

 キュウリみたいな顔だとか、のんびりすぎる性格だとか、なんだかんだ言っても、人を扱う週刊誌の編集部員だった田所さんの、人を見る目には敵わないなぁ。

「取材先で、ちょっと、カフェ経営してる人たちが羨ましく思えちゃって……」

「なんで?」

「なんかこー、自分の『好き』がわかっていて、そこに全力で進んで行っているところとか、利益とか採算とかほぼ度外視でそんな世界に飛び込む勇気とか、私にはできないなぁって」

 私も今、彼女たちの年齢だったら。『好き』を見つけて、後先考えずにその世界に飛び込んでいたかもしれない。でも結局、安定志向の会社勤めだ。

「できなくていいんじゃない?」

「え?」

 田所さんの言葉に、私は思わず素っ頓狂な声を上げていた。

「『好き』という物事を若いうちから知っている人は稀だし、それを行動に移す人はもっと稀だよ。ここはそんな稀な人がたくさん集まっている場所なんだ。稀人同士、引き合うのか、この場所が引き寄せているのかは分からないけどね。別に『好き』を仕事にして生きていかなくちゃいけないわけじゃないんだから、片野さんが負い目を感じることはないと思うよ。それぞれの生き方の違い。それだけ」

 淹れてもらったコーヒーは、私の淹れるコーヒーよりほんのり苦かった。

 


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