第4話 この家買います

 池田さんの運転する車は、法定速度きっかりに走っていた。まぁ道路はけっこう混んでいたし、クラクションを鳴らす無粋な運転手もいなかったので、私たちは束の間のドライブを楽しんでいた。

「今回の物件のために、お寺がご厚意で内覧や工事の間、駐車場を貸してくださいましてね。そのご挨拶にお寺の事務所に立ち寄ってもいいですか?」

 もちろん、異議はない。池田さんの説明に、私は後部座席で大きく頷いた。三好さんは私の隣でノートパソコンを開いて何やら叩き込んでいる。池田さんの話、聞いてます?


 しばらくすると、緑の多く見える場所に出た。池田さんはゆっくりとそこへ車を向ける。ここがお寺か。駐車場は10台近く停まれる。私の思っていたよりも、お寺の敷地が広いらしい。駐車場からちらりとお墓が見えた。ということは、ここからは目的の家は見ないということか。

 車から降りて、事務所へと向かう。池田さんは慣れた様子で、鼻歌を歌いながら進んでいく。私と三好さんはそのあとをついていく。

「車で待っててもよかったんじゃないですか?」

 三好さんがちらりとこちらを見た。

「だってご近所さんになるかもしれないお宅……じゃなくてお寺にご挨拶しないわけにはいかないじゃないですか」

「若いのに警戒心薄いですね」

「そうですか?」

「今マンションのお隣さんにすら挨拶しない人が増えてるんですよ。片野さんお人好しでしょ。騙されないように気をつけてくださいね」

 騙されているのはあの一軒家の売買価格だと思うんだけど。私はそれを口には出さなかったが、三好さんは、いやぁお買い得ですよあの家は、とのんきに感想だか独り言だかを呟いた。


 事務所に着くと、池田さんはごめんください、と引き戸を開けた。はい、と奥から野太い声が聞こえたかと思うと、のしのしと作務衣に身を包んだ坊主頭の中年男性が玄関前に現れた。小脇には和綴の本を抱えている。ちょっとそれなんですかいつの時代の本ですか中身見せてくれませんかね漢文ですか和文ですかと、文系の私の思考は別方向に飛んでいったが、「ああ、この方が」と坊主頭だからお坊さんなんだろう人に声をかけられ我に帰り、お世話になります、と頭を下げた。

「このお嬢さん、こちらの宗派にもご縁があるんですよ」

「ほうほう?」

 池田さんが促すので、私は父方の話と大学の話を手短に説明した。お坊さん─昭英しょうえいさん─はなるほどと頷き、

「これも御仏のお導きでしょう。ありがたいことです」

と、目を閉じて軽く合掌した。いやまだ本決まりではなくて見学だけなんですけど。

「あなたのような縁のある方なら、先生も安心して養生できましょう」

「先生?」

 昭英さんの言葉に私が首を傾げると、池田さんと三好さんは揃ってしーっ! と人差し指を口に当てて、昭英さんを軽く睨んだ。昭英さんも、おっと、片手で口を塞ぎ、

「個人情報ですので、拙僧からは迂闊なことは言えません」

「そうですそうです」

 昭英さんが真面目な顔で言うと、池田さんは満足そうに頷いた。なに隠してるんだこの人たち。私は一抹の不安を抱いた。


 事務所を出て、また駐車場に戻る。その出入り口からぐるりとお寺の正面に回り込み、反対側へと向かう。敷地が広いので予想より歩いた。今日の歩数は確実に1万歩は軽く超えているはずだ。帰ったらシャワーを浴びてビールでも飲もうかな。

 お寺の脇道が見えた。少し歩いて民家の門が見える。昔のタイプの家にある、玄関前のアプローチの門だ。池田さんがインターホンを鳴らす。はい、と年配の女性の声がした。

「どうも、池田です。内覧希望の方をお連れしました」

 池田さんは御用聞きの酒屋さんのようにフランクに話しかけた。どうぞ、と声が続く。

 観音開きの門を開けて、敷地内へと入る。緩やかな石の階段が5メートルほど続き、目の前に玄関が見えた。こちらも引き戸の古い造りだ。からりと戸が開き、中から白髪頭の女性が出てきた。銘仙の着物に織の黒っぽい帯を締めている。

 私はその姿に見覚えがあった。つい最近も、文芸誌に写真が載っていたし、何より今リュックの中にある文庫本の著者近影の写真を20年ほど経た姿がそこにあった。


「こちら内覧1番乗りの片野さんです。片野さん、こちら売主の林さん」

「よろしくお願いします」

 林さんは綺麗なお辞儀をした。私は頭が混乱していた。目の前に。文芸誌に写真が載るような人が立っている。

「林……もなか先生?」

「そうです。あら、私を知ってますの」

「なんと片野さん、もなか先生の大ファンなんですよ。今日も『ゆるかま』を片手に閉まった喫茶店に行こうとしてて」

「あらあら、あれは随分昔に書いた本だから、閉まっちゃってるお店もいっぱいありますよ。観光ならガイドブックの方が正確ですよ」

 私は感動と動揺のあまり声が出ない。三好さんは隣でその様子をニヤニヤと眺めている。


 2人は売主がエッセイストの林もなか先生だと知っていた。業務規定だし個人情報だから言えないということもあったのだろうが、内覧者の私がその先生のファンだというのは内心さぞかし面白かっただろう。このシチュエーションを予想して楽しんだだろう。お坊さんにも口止めする訳だ。コンニャロめ。

「じゃあお邪魔しましょうか。片野さん、動いて動いて」

 池田さんに促され、私は油の切れたロボットみたいにギクシャクしながら玄関を跨いだ。家の中は昼下がりの光がほのかに満ちていた。窓からの光は、直射日光ではなく、軒の影で柔らかに受け止められていた。縁側には、先生の執筆場所である籐の椅子と、ガラステーブルが、インテリア雑誌の中の写真のように配置されている。

「まず気になるのは水回りかしら? 5年くらい前にリフォームしたから大丈夫だと思うのだけど」

 先生が率先して風呂場に案内してくれた。深緑の、森を思わせるタイルに囲まれた白い風呂桶は、なんだか森の中に現れた泉のようだった。


 憧れの先生と会話をしている。夢見心地だったが、現実を見なければ。私は気になることを質問していった。

「シャワーヘッドも交換されました?」

「ええ、節水できるものに換えてもらいました。三好さんは水量を何段か調節できるものでも、結局めんどくさがって調節しなくなるからって、調節のない1番シンプルなものにしてもらったのよ」

 あ、三好さんもちゃんと仕事してるんだ。私は変なところで感心した。今まで金魚のフンみたいについてきてるだけだっだので。

「御不浄……お手洗いも洋式にしてもらって、こっちもシンプルにしてくれて。なんでしたっけ、お水がいらないタイプの」

「タンクレスです」

 すかさず三好さんが答えた。

「そうそう、それにしてもらったの。こっちは部屋の壁や床と色を合わせてもらって、ちょっとホコリが目立っちゃうけど、毎日お掃除するからいいかなって」

 先生は少女のようにはしゃぎながら説明をしてくれた。私も毎日掃除するのか。まぁ一人暮らしだし、用を足すついでに掃除すればいいか。

 そしてキッチン。こちらも白と焦茶を基調としたモダンな造りになっている。しかも。

「三口コンロに食洗機……」

 料理好きの憧れをぎゅっと詰めたキッチンだった。なにこれ最高じゃないですか。

「グリルはね、あんまり使ってないのよ。お魚はフライパンで焼いてるから、パンを焼くくらいしか使ってないわ。食洗機は備え付けじゃないけど、邪魔にならないでしょう?」

「え、置いていくんですか?」

 私は思わず声を上げた。食洗機と言っても1〜2人分用の小さなサイズだが、多分5年前の最新型である。それを置いていくなんてちょっともったいなくない? と疑問に思ってしまったのだ。先生はちょっと驚いた様子だったが、向こうには家電が全部揃っているんですって、と静かに笑った。

「向こう? 新しいお住まいですか?」

「あら、池田さん言ってないの?」

「そこは先生の口からお伝えすべきところだと思いまして」

 先生と池田さんがコソコソと話し合った。

「これね、内緒なんだけど、私、隠居するの。もう本は書かないつもりなの」

「え」

「白内障の症状が出始めててね、この歳だと手術する方が危険だって言われて。腕も肩も上がらなくなってきたの。そうしたら熱海に住んでいる娘夫婦が、近くの老人ホームで暮らしてくれって言ってきて。そろそろ潮時かなって」

 だから大事なこのおうちを大事にしてくれる人に託したくて。80歳が間近の先生は寂しそうに笑った。


「池田さん。私、この家買います」

 思わずといった勢いで、口からそんな言葉が飛び出していた。

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