第5話 鎌倉とらばーゆ
私の宣言に、3人は驚いていた。
「片野さん、そんな、今すぐに決めなくてもいいんですよ?」
「そうそう、おうちを買うのは慎重にね?」
「まぁでも家って縁ですからね、いいんじゃないですか」
池田さん、先生、三好さんが口々に言う。でももう決めたんだもん。
「お寺さんのことは聞いた? 鐘の音と読経の声はけっこう聞こえるわよ?」
先生が心配そうに私を見た。築50年超、昭和な建物で、なんせ目の前が寺である。怖がりの人は絶対選ばない物件だろう。
「大丈夫です。鐘の音はアラームだと思えばいいし、毎日読経聞いてたら私も徳が積めそうじゃないですか」
「あはははは。前向きすぎる発言だね」
私の言葉に三好さんが爆笑した。
「これからすぐに仕事を探します。だから他の人に売ったりしないでください」
「いやいや、家も仕事も慎重にね? 選ばないと後が大変ですよ?」
さすがに池田さんも大汗をかいて私を止めにかかる。売るのか売らないのかどっちなんだ。こうなったら私は信念を曲げない。なんとしてもこの家を買うのだ。編集長が、お前は変な所で融通が効かないからな、とぼやいていたっけ。
「仕事といえば、池田さん。田所さんがスタッフ探していたじゃないですか。あれってまだ決まってないんですよね?」
「田所さん? ああ、そういえば、今季号はほとんど1人でやったからすごく大変だったとか愚痴ってましたね」
三好さんと池田さんが何やら話し出した。なんだろう、と私が視線を向けると、三好さんが答えてくれた。
「地元のミニコミ誌というか、ほら、無料で配る情報誌ってあるじゃないですか。年4回、春夏秋冬にこまめに鎌倉周辺の土産物屋や飲食店の情報誌を大手出版社からの依頼で出してる小さな編集プロダクションがあるんですよ。そこのスタッフさんが1人妊娠して退職しちゃって、後釜が見つからないってぼやいていたのを思い出しましてね」
「それって広告とかタイアップで利益出してる類のものですか?」
雑誌はほとんどが紙面に載せる広告費で利益を出している。メーカーや商社に「ウチに広告出しませんか?」と営業をかけ、その紙面広告の反響を見込んでお金を出してもらっているのだ。タイアップは広告と本誌の中間みたいなもので、こちらは相手が希望した内容を一定レベルクリアすれば、編集部員がわりと自由にラフを切って紙面を作れる準広告だ。鎌倉ならお店もいっぱいあるし、少額でもタイアップを多く入れれば、利益になるだろう。
「さぁ。細かいことまでわからないですが、興味あるなら連絡とりますよ?」
「ぜひ、お願いします!」
「ええと、今?」
「なるはやでお願いします!」
私の勢いに圧されて、三好さんは一瞬天を仰ぎ、はぁとため息をついてスマホを取り出した。
「言っておきますけど、都心の編プロとは年収が全く違うってのを覚えていてくださいね。以前と同じレベルの生活ができると思わないことです」
給料の交渉はご自身でやってくださいよ、と念を押された。憧れの鎌倉に住むのだ、ちょっと年収が下がったってきっと大丈夫。私は根拠のない自信に満ちていた。
「ええと、とりあえず購入の意思がある、という形で進めていいのかな?」
池田さんが再度確認する。私ははい、と返事をした。
「じゃあちょっと事務所に戻って、今日できるだけの手続きをしましょうか。銀行さんは仕事が決まってから行くことにして」
「よろしくお願いします」
私は池田さんと先生に頭を下げた。先生も、困ったような呆れたような顔をして、そのうちくすくすと笑い出した。
「あなた、私の若い頃にそっくりだわ。このおうちもいい主を見つけたわね」
大事にしてくださいね、と先生は握手を求めた。わわ、林先生と握手しちゃった。
その後、池田さんに細かな部分の質問をして、先生に熱海に行く日にちも聞いた。とりあえず、一旦家から人を出して、耐震強化工事とクリーニングをしてから引き渡したいとのことだったので、その期間内に、私は就職活動と、今住んでいるマンションの引き払いの手続きをすることになった。屋根は瓦だったので、スレートにしたかったが、そこまでお金が回りそうにもない。ここは少し我慢して、しばらく瓦屋根で生活しよう。地震とか台風とか起きませんように。
先生の家を出て、お寺の駐車場に向かう途中で、ヒョロリと背の高い男の人と出会った。身長は180センチをゆうに超えるだろう。そして手足も長い。例えるならお盆に精霊馬として作られるキュウリみたいな人だった。
「やあ、田所さん」
「どうも、池田さん、三好さん。彼女が先生の家の次の家主ですか」
「そうなる予定です」
田所さん。となるとこのキュウリみたいな人が、ミニコミ誌の編集長なのか。私はしげしげと彼を見た。年齢は編集長くらいだろうか。でもちょっとハゲかかってるので、もっと年上なのかもしれない。
田所さんは電話を受けたとき、ちょうど近くにいたからと、こちらに寄ってくれたそうだ。すごい優しい人じゃないか。
「田所さん、さっき電話した件なんですけど」
「ああ、スタッフとしてどうかって話ですよね。ええと、貴女、どこの編プロで雑誌を作っていたんですか?」
私は勤めていたプロダクションの名と雑誌名を告げた。そうすると田所さんは、ああ、と声をあげ、笑顔になった。
「ということは、貴女は井上君の部下だったんだね」
「編集長をご存知なんですか?」
井上は編集長の名だ。雑誌の裏表紙の隅に編集長の名は載るが、そこに注目する読者は少ない。となると編集長の既知なのだろうか。
「井上君とは中学から高校まで一緒だったんだよ。彼は建築系の大学に行っちゃったけど、私は文系の大学に行ってそのまま大手出版社に就職して働いてね。妻になる人が鎌倉でアトリエを持っちゃったんで、退職して私もこっちに越してきたんだ」
田所さんの奥さんは画家なんですよ、個展も開くほど凄い人なんですよ、と池田さんは自分の奥さんのように自慢した。
「そうか、井上君の部下かぁ。取材とかテレアポとか商材の貸し借りとか、カメラの扱いは大丈夫?」
「はい、バッチリガッツリ仕込まれました!」
大手メーカーに取材の申し込みをしたり、商材を貸してもらって撮影したり、そのメーカーで家を建てた人に許可をもらって家の外観や室内を撮影して取材したりと、最初はアシスタントだったが、この数年で場数は踏んだつもりだ。
「このあたりのお店のオーナーや責任者はまだ男性が多いけど、実際店を回しているのは女性の店員さんが多くてね。私のこのヒョロ長い姿を怖がる人もいるから、貴女みたいな人が動いてくれると助かるなぁ」
「ということは」
「まぁ、一応履歴書と職務経歴書をもらって、ウチの職場を実際見てもらって、前職との違いを確認して、それでよかったら、って感じかなぁ」
履歴書とかはここに送ってね、と田所さんは名刺を差し出した。白地に三分の一、藍色の麻の葉の柄が印刷された、鎌倉っぽさが出てる名刺だ。私もこういうの作りたいな。前は会社のロゴが右上に印刷された地味な名刺だったから。
この名刺を持って鎌倉を渡り歩きたい。
私は、よろしくお願いします、と田所さんに頭を下げた。
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