第6話 報告

 翌日、私は職安に行って失業手当の手続きを行った。そこで、再就職手当という、早く就職できたらもらえるお祝い金みたいな制度があるのを知った。ほうほう。

 田所さんの職場には来週頭に行く予定だ。それまでにやれることはどんどんやっちゃおう。

 私はまず、朝イチで書店に行って、履歴書と封筒、あと鎌倉のガイドブックを数冊購入した。鎌倉へは何度も足を運んでいるけど、長谷とか途中の駅にはそう何度も降りていないので、そこら辺も今のうちに情報を仕入れておきたいと思ったからだ。良いと思ったお店に付箋を貼っていく。これで途中下車して様子を見に行き、田所さんに取材の候補として進言するつもりだ。まぁもう取材されているかもしれないけど。そっちの可能性の方が高いけど。


 次に持ち物の整理を行った。今のマンションの部屋の方が狭かったが、手に入れる家は、仙人じゃないけど、物が少ない方がキリッと引き締まって良い感じになると思ったからだ。先生も、持ち物は食器と冷蔵庫と洗濯機と食洗機と着物の入った桐の箪笥だけだったし。私もそんなふうに、ものを少なく、こざっぱりと暮らしたい。そんな思いがあったので、この1年使わなかったヘアアイロンや収納ケース、読まなかった本、アクセサリー、洋服など、鎌倉の家にふさわしいと思えないものを、引っ越しのときに残しておいた段ボールにどんどん入れて処分した。

 本当はひとつずつ写真を撮って、欲しい人に売っていくのが良いのだろうけど、今の私は、そんなことをやっている暇があったら鎌倉周辺の情報を仕入れに歩き回りたいし、家の様子も見ておきたいし、履歴書もいい感じに書いておきたいし、編集長に田所さんの人となりを聞くためにちょっと連絡も入れたいし(まぁ良い人っぽいけど)、やりたいことがいっぱいあるのだ。電話一本でこういった不用品を全部引き取ってくれるサービスがあるのはありがたい。


 買取サービスの業者さんが来て、一息ついたのは午後の8時。そういえばお昼ご飯も食べずにガンガンやってしまった。コンビニまで出かけるのも面倒くさくなったので、冷凍のご飯にインスタントのお味噌汁で軽く済ませた。

 さすがに朝から一気に部屋を片付けたので、私はぐったりしていた。でもなんだか心地いい。お風呂にお湯を張るまで、ベッドに寝転んで部屋を見渡した。なんだ、けっこう広かったのね。物が少なかったら、もうちょっと部屋を有効に使えたかもしれない。有効というか、ゆとりというか。帰って寝るだけの寂しい部屋じゃなくて、もっとこう、クリエイティブなことができた気がする。それこそ不用品の物撮りとか、説明文に入れる文章の推敲とか。

 鎌倉の家なら、そういうこともできそうな気がする。だって憧れの林先生のおうちだもん。住むだけで絶対文系度アップするわ。


 一息つけたので、井上編集長に連絡を入れてみた。まだ編集部かな、と思ったが、すぐに電話はつながった。

『どうした』

「ご無沙汰してます。あの、編集長、鎌倉のミニコミ誌の編集してる田所さんってご存知ですか?」

『田所? ああ、中高一緒だったな。奥さんが画家でアトリエを鎌倉に構えたから引っ越したって話は年賀状で知っているが。田所がどうした?』

「いえ、田所さんのところで働けそうなので、どんな人なのかなぁって思って」

 電話の向こうがざわざわしている。まだ編集部にいるんだ。まぁ8時くらいなら居るよね。

『どんなって言ってもなぁ。成人してから数回しか会ってないから、変わってるかもしれないが。作る物に対しての姿勢は見た目より厳しいぞ。大手の出版社に新卒で入ってさんざんこき使われてたはずだからな』

「そこでも情報誌を?」

『確か政治系の週刊誌だったはずだ。夜討ち朝駆け張り込みなんでもやったって言ってたな。政治家と組のヤバい話も扱ってたはずだから、根性と度胸とその手の抜け道の知識はかなりのもんだぞ』

 俺もその筋の連中に絡まれたとき、田所に相談して事を丸く納めたからな、といろいろな意味でさらりと怖いことを言った。

 キュウリなんて言ってスミマセン。あと編集長も怖い。何があったの。

『まぁ若い頃から修羅場をくぐってるから、大抵のことには動じないし、冷静に判断できる奴だ。俺は奴が鎌倉でのんびり情報誌なんて出してるのを聞いて、何かヘマをしてほとぼりが冷めるまでこっちに出て来ないのかと思ったくらいだからな。奥さんのために辞めたって聞いて驚いたもんだ』

 仕事には厳しいけど、愛妻家なんだな。

「なんだかちょっともったいないですね。そんな現場を知ってる人なら、今の世の中とか政治とかすごい興味あるだろうし」

『それはお前にも言えることだぞ片野。なんだって鎌倉なんだ。実家が何か言ってきたのか?』

 編集長は私の実家が藤沢だということを知っている。近くに住めとか言われたのかと聞いているようだ。


「えへへ、実は家を買いまして」

 私は嬉しそうに編集長に報告した。

『は? 家? 鎌倉に? お前が?』

 編集長が素っ頓狂な声を出した。おお、こんな声聞いたことないぞ。

「もちろん、中古ですよ? すっごくいいご縁がありまして」

 個人情報なのでそれ以上は言えません、と澄まして答えると、編集長は、はぁ、と感嘆の息を吐いた。

『まぁ、お前の人生、どこに住もうと自由だけどな。家を買うってことは、その土地から離れるのが難しくなるのはわかっているな?』

「はい」

 家を買うということは、その地を拠点に生きていくということだ。せっかく大枚をはたいて新築を買ったのに、隣の家族が最悪だった、目の前がゴミ屋敷になった、ご近所トラブルに巻き込まれた、という話も何度も聞いた。それでも、ローンが残っているから、理想の間取りの家だから、そう簡単に引っ越せない。目や景色は閉じられるが、罵声や怒号はなかなか遮れない。だんだん家族との仲も不安定になり、離婚したケースもある。

 新築を買った人にアンケートを取ると、そんなことがつらつらと書かれていることがたびたびあった。


 家を買うときは、慎重に慎重を重ねて、周囲を調べた方がいい。家は選べるが、隣人は選べない。


 家を買う特集をするとき、編集長が必ず入れたフレーズだ。不動産屋もその手の情報は仕入れるが、漏れることも多々ある。人同士の相性なんてそれこそ人それぞれだから、不動産屋の営業さんが平気な人でも、買主には地雷な人かもしれないことがある。そうなるともうお手上げである。耐えるか、引っ越すか。

 まぁ鎌倉の家の周りはお寺と竹林と古い住宅ばかりなので、静かに暮らせば文句は言われないと思う。

 そういえばご近所さんってどうなんだろう。向こう三軒両隣、とは聞くけれど、家の雰囲気からして高齢者が住んでそうな気配だったな。家が古ければ人も古い可能性が高い。ずっと住んでいる人たちの中に、うまく入れるだろうか。そこはまぁお寺さんに協力してもらおう。ご縁もあるし。なんせ憧れの林先生のおうちである。私としてはそこだけでもう百点満点をあげたいぐらいなのだ。ご近所とも何とかなるだろう。

 その辺り、私はなぜか楽観的であった。


「私は私の好きな街で生きていきたいと思います」

 それが年収が減ろうと、友人と会いにくくなる場所であろうと。私が私らしくあって、のびのびと生きていけそうなら、さっさとそういう場所で生きていきたい。すし詰めの電車で周囲とトラブルを起こさないようにピリピリしながら会社に行くのはもう充分だ。

『そうか。まぁ、お前はまだ若いからな。何度でもやり直せるさ』

 体だけは大事にしろよ、と父親みたいなことを言って編集長は電話を切った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る