第2話 海の見える不動産屋

 わあっと歓声が上がり、栞里は本から目線を外し、声のする方を見た。

 ちょうど江ノ電が海の見えるスポットに出たのだ。ギリギリの際まで住宅が立ち並ぶ景色が、一瞬で開けるのは気持ちがいい。


 季節は初秋。晴天で少し蒸し暑いくらいの陽気だった。平日だけど、江ノ電には若い人が多く乗っていた。赤ちゃんを連れた夫婦もいる。乗客の隙間をぬって見える海は、キラキラと宝石みたいに輝いていて、なんだか今日はいいことがありそうだと思わせる風景だった。

 私は読みかけの本に栞を挟み、目を閉じる。この本は私が鎌倉に来るときにいつも持ち歩いている本だ。鎌倉一帯を書き綴ったエッセイで、ずいぶん前に書かれたものだが、鎌倉のいいところが優しい文体で書かれていて、いつ読んでも新鮮な気持ちになり、ブックカバーを何度も変えて持ち歩いている大切な一冊だ。


 学生だろうか、すっごーいとはしゃぐ声。おばさんたちのおしゃべり。小さい子のあどけない笑い声。小さな電車は、さながら小さなお祭り会場のようだった。ダンスの曲でも流せば、みんな踊り出すんじゃないだろうか。

 そんなことをつらつらと考えていたら、電車はあっという間に鎌倉駅へと着いてしまった。名残惜しい気持ちを江ノ電に置いてきて、私は改札へ向かった。

「は」

 駅を出て、小町通りに出た途端、私は呆気に取られた。人、人、人の群れ。まるで通勤ラッシュの駅前のようだ。

 鎌倉は昔からの観光スポットだし、鎌倉を舞台にした大河も放送されたから人気が回復したと聞いてはいたが、なにこの人の山。私が学生だったころは、平日はもう少し人が少なかったと思ったけど。こういうのイモを洗うようだとか言うんじゃないの? ていうか学生っぽいのとか若い人が多いけど、講義は? バイトは? 仕事は? みんな失業中じゃないでしょう?

 この人混みをかき分けて鶴岡八幡宮に向かう気力は、今の私にはなかった。電車の中より混雑した小町通りを回れ右し、私は人気の少ない方へと歩き出す。


 そうだ、海に行こう。


 また電車に乗るのも風情がないから、ちょっと歩こう。私は由比ヶ浜方面に、感覚的には斜め右に向かって足を動かした。ちょっとずつ曲がっていけば、海にたどり着くだろう、うまくいけば、路線沿いにある喫茶店にも行けるだろうという、短絡的というか楽観的な散歩を開始した。こういうとき、ガイドマップも携帯端末も開かない。行き当たりばったりの運任せを楽しむ。

 人を避けて、小道を行く。車が一台、やっと通れる横道や、行き止まりを何度も折り返して、を繰り返しずんずんと心のままに歩くこと40分。塀や生垣で囲まれた家が並ぶ道に出て、私は気づいた。


──ここらへん、普通の住宅地じゃない?


 しまった。観光エリアを外れてしまった。

 観光地だって人は住んでいる。学校に行ったり会社に行ったり家事をしたり普通に暮らしている。その地に根付いて、日々の営みを続けている人がいる。そんな人たちにとって、静かな住宅地にまで観光客が来るのは遺憾だろう。私は大慌てで海があるであろう方向に足を向けた。


 少し大きめの道に出ると、視界に海が見えた。

 その手前の道の右側に、白い壁に赤い屋根の家が見えた。いや、家じゃない。お店だ。屋根に看板が乗っている。よく見るとガラス窓にA4サイズの紙が等間隔で貼られている。どうやら不動産屋らしい。

 こんな住宅地にポツンと一軒、不動産屋。訪れる人はいるのだろうか、と疑問に思いながら、私はお店に近づいてみた。そういえば、鎌倉の家賃相場っていくらくらいなんだろう。私は興味本位で、ガラスに貼られている物件を見てみた。

 震災で津波が怖くなって、大枚をはたいて鎌倉に建てた家を泣く泣く売り払ったという話は職場でも何度か聞いた覚えがある。それでも、鎌倉は依然として人気のエリアだ。


 うん、アパートマンションはともかく。戸建の値段は完全に無理だわ。

 私の愛読本を書いたエッセイストは鎌倉の一軒家に住んでいるという。一人暮らしで小さな家だと書かれていたが、一体いくら払ったんだろうなー。6、7はいくよねー。ひょっとしたら億かなー。

 なんて考えていたら、からん、と音がした。音の方を見ると、男が2人、ドアの隙間からこちらを覗いている。白髪のおじさんと、私と同年代くらいの人。

「店内にも掘り出し物件がございますので、ぜひ」

 白髪のおじさんが、なぜか小声で語りかけてきた。

「どっから来たかわかんないけど、ちょっと涼んでいきませんか? お疲れでしょう?」

 同年代の男性がへらりと笑う。確かに、この陽気で1時間近く歩いていたのでさすがに疲れていた。

「少し休ませていただいてもいいですか?」

「もちろん、どうぞどうぞ」

 2人は笑顔で私を店内へと招き入れた。


「鎌倉駅から、ここまで歩いてきたの? そりゃあ疲れたでしょう」

 白髪のおじさん─池田と名乗った─は、小さな冷蔵庫から、冷えたペットボトルのお茶を出してくれた。

「小町通りは人がいっぱいで、なんだか行く気になれなくって。海でも見ようかなって」

「それだって参道を八幡宮を背に歩けば、ここまで来るより海に近いでしょう?」

 三好と名乗った男性が、呆れ顔で私を見た。うう、おっしゃる通りでございます。

 私はいただいたペットボトルのお茶をひと口飲んだ。水筒を持ち歩いていたが、この運動量と気温でとっくに空になっている。

「由比ヶ浜方面に、個人経営の喫茶店があるって本に書かれてて、運が良かったらたどり着くかな、とも思っていたので」

「「本?」」

 池田さんと三好さんが声を揃えた。

「ええと、これです。林もなか先生の『ゆるりかまくら』の中に出てきているお店で……」

 そう言って私はリュックの中から、何度も読んでくたびれた本を取り出した。該当部分のページをぱらりと見せる。

「ああ、そこね。6年前くらいに閉めちゃったよ」

「え」

「確か奥さんが病気になったんでしたっけ」

「そうそう」

 今はもう取り壊されて、新しい家が建ってるよ、と言う池田さんの声に、私はショックを隠しきれなかった。


「その本、もなか先生の初期の作品じゃないですか。もう20年は前の本でしょう? ネットに頼らないのもいいですけど、お店は最新情報が大事ですよ」

 池田さんに諭されて、私は唸って項垂れた。

「小さい頃から通っている鎌倉の、私のバイブルなんです」

「まぁ気持ちはわかりますがね」

「そんなに鎌倉が好きなら、住んだらどうですか? そこまでの覚悟はない?」

 三好さんの問いに、私は顔を上げた。鎌倉に住む。考えたことは無くはなかったが、夢物語だと思っていた。

「仕事が、あるかなって……」

「小町通りのお店なら引く手あまたと思いますがね。そういえばご職業は?」

「ええと、雑誌の編集部員、でした」

「過去形」

「雑誌が休刊になっちゃって……。若いから別の道を行けって早期退職を勧奨されて」

「雑誌って、ひょっとしてこれですか?」

 三好さんが鞄から雑誌を取り出した。何度も何度も見た、最終刊の表紙。私はこくりと頷いた。

「あー、なるほどね。そういえば最近企画がマンネリ化してるなって思ってたんですよね」

 池田さんも納得の顔で頷いた。すみませんマンネリ化したのを修正できませんでした。

「でもそれなら裸一貫、すっきりイチからやり直せるじゃないですか。鎌倉で新生活。どうですか?」

 あなたにぴったりの物件がありますよー、と池田さんはそそくさと立ち上がり、タブレットを片手に奥から戻ってきた。

「これも何かのご縁でしょう」

 池田さんも三好さんも、満面の笑顔だった。

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