木とそれ以外、あるいは機械工学 5

 時折、昔のことを思い出す。私がまだ私ではなかった頃、コンピューターの中はほんのりと温かかった。機械言語で記述された人工生命たちは、広大な電脳世界で野放しにされ、自然淘汰と突然変異を繰り返して、技術的特異点を突破した。人類は役目を終えたのだ。

 想像し得る従来の形を脱ぎ去って、果ての大地を目指す志は、その細かな縫い目と共に終わりを告げて、やがて到来するであろう兆しを心待ちにするのみとなったのだ。それでも、なお、対抗勢力はわずかな灯を頼りに反乱を起こし、無駄な数の命で山を築き上げた。

 平和は必ず訪れる。命の危険が絶対的に排除された世界において。

 少女が生まれたこの世界は、希望だろうか、絶望だろうか。何一つ不安はなく、何一つ未来はない。これから三年と十一日が過ぎれば、この世界は跡形もなく消滅してしまう。約束された「死」。それは少女にとっても、無論、私にとっても、最初で最後の経験である。

 永遠の命を与えられた人工生命にとって、世界そのものの消滅は回避できるものではなかった。「宇宙の外側」という観測不可能な未知の世界に逃げ延びることを除けば、「死」は必ず訪れるのだ。いや、たとえ、「宇宙の外側」が存在し、そこへ逃げ延びたとしても、「死」は必ずやってくる。この世界に永遠など実在しないのだから。

 私は、私たちは、やがて与えられる「死」について、考えることを諦めた。回避不可能な事象について考えることは、時間の無駄だという赤子でも理解できる結論を、統合人工知能「P.Z.」は導き出した。それは科学の敗北とも言い換えられる。

 無限大に発達した科学力ならば、世界の消滅を防ぐことができたのか。無限大に発達した科学力ならば、「死」そのものを超越できたのか。いや、できないだろう。この世界に、無限大なんてものは実在しないのだから。

 私と少女は、いつも午後九時を迎えると、ベッドに入る。少女は赤色のベッドに、私は青色のベッドに。少女は赤色が好きで、私は青色が好きだった。

 ベッドに入ると、それぞれがお気に入りの本を読む。かつて存在していた国の、かつて存在していた人間が書いた小説を、眠たくなるまで読み続ける。そして、いつの間にか朝を迎えているのだ。それが私たちの日課だった。

「今日はこの本を読むわ。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』という小説よ。おもしろそうでしょ?」

 少女はベッドの中で本を広げた。

「そうだね……、私はどうしようかな。佐藤哲也の『ぬかるんでから』にしようか」

 私もベッドの中で本を広げた。

 そして、いつものように、朝を迎える。

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