木とそれ以外、あるいは機械工学 8

 古びた喧騒は私の行く手を阻み、闇の底へと誘う。白樺の根は、やがてゆっくりと地を蝕み、瞬間冷凍を相手に、孤軍奮闘する。重力補償システムが当然の世の中では、無重力環境は毛嫌いされるだろう。十全に予測され得る結果を無視しては、煌めく恒星に手が届かない。

 辞書を片手に持ち、とある文字列を詠唱する。それは、ある意味においては魔法であり、呼吸を忘れて、自縛の極みに達するかもしれない。成功と失敗は相反するものではなく、地続きであり、似た事象なのだ。旅人はそれでも振り返らない。振り返ることを恐れたのではない。旅人は窮屈な箱庭を恐れたのだ。

 ありがちな嘘を、本当で塗り固めて、騙せる距離を測る。その領域を「物理学」と名付けよう。私の物理学は宇宙全土に及ぶだろう。それだけの価値が存在する。そして、音楽と音楽の境目すら、邪魔にはならない。気にせずとも、他人からすれば、馬鹿げた話であるのだから。

 もう少しだけ、もう少しだけ、そう呟きながら、時間を薄く長く伸ばし続ける老婆は、宇宙法則の理から外れ、空間を捻じ曲げる力を手に入れた。やがて、その老婆は「神」と恐れられ、宇宙を支配することになったが、それも長くは続かなかった。そもそも宇宙など存在しないのだから。いや、存在しないというのは厳密ではない。存在してはいけないと言うのが正しいだろう。

 少女は、近所の「アルゴリズム」さんの家から帰る途中、転んで膝を擦りむいた。少女は痛い素振りを決して見せなかったが、擦りむいた膝からは、甘い血液が滲み出していた。

「足の制御がうまく利かなかったの。なぜかしら?」

 少女は膝の心配よりも、足全体の機能の心配をしていた。

「この世界に完璧なんてものは存在しないんだ。制御だって失敗することもある。しかも、最近は重力も磁場も狂い出しているからね」

 私は少女の膝に修正機を当てて、傷を修復した。

 世界の終わりが近づいている。もうすでに、全盛期における宇宙の九割ほどが、その姿を消していた。そして、私たちの住む星が消滅するまで、あと三年と二日だ。残された時間はあまりにも短く、だからこそ、何をすることもできない。

 少女が言った。

「家に帰ったら、本を読みましょう。今までに読んだことのない本を探して」

 私が言った。

「いい案だ。ぜひ、そうしよう」

「どんなジャンルがいいかしら?」

「ファンタジーとかどうだろう。最近はあまり読んでいなかった気がする」

 少女は修復した傷跡を眺めていた。

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