木とそれ以外、あるいは機械工学 15

 夏は、私が最も好きな季節である。春が終わり、夏がやってくると、私の気持ちは少しだけ上向きになった。空気中に熱が溢れて、充満して、そして、はじけ飛ぶ。私はどこまでもひとりで駆けていく夢を見ていた。それは決して夢物語ではなく、さりとて実在しているわけでもない。トートロジーの例を持ち出さずとも、答えは一意に定まるのであった。

 それから、しばらく夏が続いた。おそらく十年は続いたのではないかと思う。夏を観測することは非常に難しく、その範囲を限定することもできない。したがって、夏がいつ始まり、いつ終わったのかは、研究家の間でも意見が分かれた。十年続いたと唱える者もいれば、百年続いたと声高に叫ぶ者もいて、さらには「夏はわずか二分の出来事だった」と嘯く者さえもいたのだ。私たちには何が何だか分からなくなっていたことも事実である。

 夏が終わると、涼しい季節がやってきて、皆は平静を取り戻した。長い戦争は終わりを告げて、恋の季節がやってきた。この季節に、人類はみんな恋をして、子供を授かった。このとき、生まれたのが、黒髪の少女である。黒髪の少女は、とある男と、とある女の間に生まれた。男の名前はカルマンフィルター、女の名前はフーリエ変換だった。

 黒髪の少女に名前はなかった。名前を付けるには、まだ幼すぎたのだ。名前を持たない黒髪の少女は、名前を持たないからこそ貧弱であったが、それでも元気に育った。そして十二歳になった。十五歳で死ぬにしてはもったいないほど美しい顔をしていた。

 私は夕飯の支度をしながら尋ねた。

「そろそろ自分の名前は見つかりそうかい?」

 黒髪の少女は鍋一杯のトマトを抱えながら答えた。

「そうね、候補はいくつか考えてるけど、ピンとくるものはまだ見つかってないわ。急いだほうがいいのかしら?」

「いや、急がなくてもいいよ。時間はまだたっぷりあるから。だけど、行き詰まっているなら誰かに相談するという手もある。私でもいいし、友達でもいい、誰かに相談するだけでも意外と頭の中がスッキリするものだよ」

 私がそう言うと、黒髪の少女は少し考えてから言った。

「分かったわ。行き詰まったら相談してみるわ。だけど、今はまだ自分で考えたいの。いいでしょ?」

 私は頷いた。

「もちろん。君は考えたいだけ、考えていいんだよ。君は本質的に自由なんだから」

 私と少女は一緒に夕飯を食べた。鍋一杯のトマトの煮込みはあっという間に溶けて無くなって、その代わりに私たちの腹は膨れて満たされていた。

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