「翠炎城」より 9

使い込んだ灰青色のマントの青年は、遠い記憶を揺らす戦の気配を纏っていた。老人の前半生、花陸シャイデの各国がいたずらに戦塵を立てていた頃だ。他花陸との往来(訪問)が『双異翼の柱』の解放によって著しくなると、各国は異国への対応とそれに伴う自国の在り方立て直しに注力せざるを得ず、老人の治世の終わりごろからシャイデは、だれが音頭を取ったわけでもなく、凪の状態に入った。実際の凪が必ず終わるように、いままた風が吹き荒れ、つかの間の平穏は破られたようだが…。

 青年は、不思議な立礼を向けてきた。

 四家の当主は跪礼を免れているが、それともまた少し異なる作法だった。既視感に、もどかしく思い巡らしていると、傍らにあった侍従が囁いてきた。

「----あなた様と同じでございます。」

「わたしはなので、」

 許しを請わず、青年は顔を上げて、姿勢を正した。

旧例あなたに倣うこれなら、文句はつかない、と叩き込まれました。」

国王を降りて臣籍に戻るにあたり、やはり同列には扱えぬということで礼法も特殊になった。

「そなたらが影彷か、まるでただの人のようではないか?」

「わたしもまさか自分が影彷になるとはおもいもよりませんでした。」

 敬意は感じるが、畏れはない。影彷になるだけあって?ただの綺族ではないのは確かだ。

 …それに、これは感覚でしかないが、懐かしい。

「…見たことのない印章であった。」

 正確には、その組み合わせが。

「わたしの印章しるしですから。」

「なるほど、それも儂に倣って、か。」

 混乱の怒号は圧を増している。語る時間は少ないようだ。

「界落人と影彷には出来得る限りの庇護を―わざわざ来たということは、この場に希みがあるのであろう?」

 いつ。昔だ。ずっと遠い。どこかで会っていた誰かとだれか…。そう、一人ではない。

 さらりと首を振る。呼び出しておいて、語るものではない、と勿体つける、

 普段なら、下がれと一喝するところだが、その首の角度に釘付けになった。

「『凪原』が攻めてきています。」

「避難せよ、か。」

「はい、大公おおきみ。」

と機密で応じてくる。

 表向きは大公(国王の兄弟が臣下に下るときの一代称号)位だが、公文書は「古聖語」の発音をあてて大公おおきみだ。

「できぬ。」

 何かを受け止めて一瞬瞠った瞳が、ゆっくり細まった。

「用向きはそれだけか。」

見据えてくる瞳が、老人の古い記憶を揺さぶるが、拒絶を綴る。

「なれば去ると良い。そなたらが間諜ではなく、影彷であれば、早々に己が時間の内に----そなたは戦場いくさばに戻るがよい。」

 彼ら----彼は避難を勧めてきたが、肯ずることはできぬ。鏡湖と一番近い砦へ早馬は発った。----が、物見の告げた攻め手の人数を前に、しかも城壁を破られており、落城は避けられまい。退けば、周辺一帯を無防備に敵勢に晒す。小さな柵しかならぬとしても、国王を名乗った者として、最後まで国土を守る責を負うのはやぶさかではない。

----我の人生ではないか。」

 誇らしげな響きとなった呟きに青年は黙って一礼し、おもむろにフードを下ろした。同行者(付き人だろう)にも身振りで下ろさせた。なぜこのタイミングなのだろう。影彷の術が展開する前触れかと身構えたが、その時は何も起こらなかった。

「お父様!!」

 乗馬服に厚めのマントを羽織った娘と、娘の乳母で、いまは筆頭の側仕えであるカルララ・フォガサ夫人は孫姫を腕に抱え、四人の護衛がその場に合流した。

「城下に向かえ。ひとまずは青瓦の屋敷に。万が一の場合、南門が近い。カルララ、任せたぞ。」

「かしこまりまして。」

 影彷の青年らはまだ留まっている。老人の面前でフードを降ろした姿に、娘と乳母は当たり前だが不審そうにそちらをうかがった。

「----のなら、護衛でもどうだ?」

 影彷が現れた理由を後から推測するなら、幾らでも論を述べられるが、いまこのときには、燕が低く飛ぶのに、明日の天気を思う程度の役立ちだ。 

 ―書き遺す時間はなさそうだが。

 、また慇懃な礼だろうと思っての皮肉で

。」

 老人にだけ見える角度のフードの下の双眸は、その瞬間、星のように煌めいていた。

 


 


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