「白き雌狼」亭から 1
――寒い。
暗がりにぽっかりと言葉が浮かんで、意識は急速に覚醒に向かう。無意識に手が動き掛け布を探すが柔らかな感触にはいきあたらず、かさかさと、まるで草のような手触りが返ってきた。瞼がふうっと上がり、数回の緩慢な瞬きの後、焦点は結ばれた。
まるで草? ・・・いや、草でしかない。左頬を地面に押し当てる形で自分が倒れていることを認識する。
野営。古い記憶が囁いた。傭兵時代は遠くなっても、こんな夢をみるのかと思う。けれど、ほぼ同時に身じろぎ、額を押えながら身を起こした青年が、あからさまにぎょっとしてこちらを見つめているのに、思考は停止した。
夢に見る、大人ぶってみせて空回りしていた少年でも、いっぱしの顔を作って独り立ちの寂しさを隠した若者でもなく。
数年ぶりに自分の店を訪ねてきた彼だ。
ゆっくり半身を起こした。ひんやりとした地面と白い息。視界には、ただ木、木。見上げれば、落葉した枝が作る幾何学的な隙間には濃い鉛色の空。
ひと時前の記憶と何もつながらない風景が主人を取り囲んでいた。
――いや、彼は在る。
よく知っていた、けれどまだよく分からない、そう、まだ馴染めない
彼は無言のまま立ち上がり、周囲の様子をぐるりと見渡した。その様は、己のように周囲を眺めているしかないというのではなく、冷静に状況を計っているように見えた。
それは、いま、酒場の
――否。
「具合が悪いところはないか? ひどく打ったところとか、吐き気とか、目眩とか。」
困惑は、ある。だが、ここにいること、ではない。ひとを
「・・・どういうことだ?」
それは確信。けれど、青年の表情は動かない。穏やかに自分を見、立てるかと掌を差延べてくる。僅かに目を逸らし、いつものように右足に難儀しながらガイツは体を立たせた。青年が挙げたような個別の症状は無かったが、全身が激しい運動をした後のような倦怠感を訴えている。青年はマントを外し、差し出した。
「それでは冷える。」
店内、しかも厨房に近い位置だから、上は綿の開襟シャツ一枚に前掛けをつけただけだ。寒いのは確かだが、それは青年も同じだろう。ためらっていると、
「オレは旅支度のままだから、結構重ねてる。あと――若いから?」
にやっと笑うのに、ぬかせ、とひったくるように受け取った。気遣わせぬ心遣いと分かってはいたが。
「前掛けはおかしいだろう?」
確かに、前掛けと戦士仕様のマントの取り合わせは奇妙だろう。だが、スタイル云々でないことは明白なのに、それを説明する言葉は続かない。
「あとは、これを。」
前掛けを外して畳みベルトに挟みこんだガイツに、
「杖代わりにして構わない。」
と、今度は己の長剣を渡そうとするのには、さすがに強く首を振った。周囲を見渡し、茂みの中に刺さるように落ちていた枯れ枝を拾い上げる。試しに地面を突いてみたが、しっかりとした手ごたえがかえってきて、ガイツは大きく頷いた。
「・・・じゃ、移動しようか。」
重ねたい言葉は飲み込んだようだった。
「日が落ちきる前に人里へ着きたい。」
陽が落ちて後、己の店を訪ねてきた青年は言い、瞳を廻らした。まさに一瞥。それで躊躇いも無く行く手を示した青年に、ガイツは戸惑いの声を上げた。
「おいって!? 本当にそっちなのか?」
四方を取り囲む鬱蒼たる木々の陰に、枝の間から重い灰色が落ちて、視界を塗りつぶそうとしている。見知った所でも惑わされそうだ。
「ああ、」
応えは短く揺るぎもなく。ならば、
「分かっている
「いや? でも、・・・分かるだろう?」
思い切り疑問符を貼り付けた表情に青年は困ったように首を傾け、
「ここはひと知れぬ山奥ではなく、明らかにひとの手が入った里山の一角だろう? とすれば、下草の具合や枝ぶりに、風の吹き抜け具合で・・・分か、らないか。」
ため息混じりな語尾。実際ガイツにはまったく
「オレの勘は、いろいろたくさんお墨付きだから。」
自分の後を必死に付いてまわっていたこどもが何をと思ったが、青年の判断を否定する材料を持つわけでもない。胡散臭そうに眉は顰めて、けれど、大きな吐息がやもうえないと行動を了承する。
こちらの足に合わせた速度で四半刻ばかり歩いた。何が目印なのかガイツには最後まで検討がつかないままだった。足場の良い所を探すために足を止めはしても、進む
緩やかな斜面を登りきると、木立は途切れ、視界が開けた。
刈入れを終え休耕期の雰囲気を漂わせる農地の端だった。
「・・・ここは、」
かすれた呟きに隣りを見た。睨みつけるように周囲を見渡し、
「先に、行く。あんたはゆっくりでいい。畑に沿って左に向かってくれ。道に出るから。そこで待ってる。」
耐えられない、とばかりに駆け出していった。
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