「冥府の渡し守」亭にて 5

「・・・おい、」

 絞り出すような声だった。

 カツ、と木盃を卓に置いた音が、ウアンウアンと耳鳴りのようにリフレインする。

 カウンターの内にいた店主と、高椅子にいた客。食べかけの料理と飲みかけの杯。

「おや? ふたりはどこへお行きだね?」

 鳥のから揚げを手にアジェリが厨房から出てきて、怪訝そうに瞬く。

「----外で風にあたりながら話してくるようです。」

 男はにこり、と笑う。

「せっかくの再会を我らがしゃしゃり出て邪魔してしまいましたから、二人で話したいことがあるのでしょう。お仕事中のことですが、少しだけ大目に見ていただけませんか、マダム?」 

 そんな気色悪い呼び方するんじゃないよ、と言いながら、まんざらでもまさそうなアジェリは、

「冷めちまうと台無しだからね。」

と、給仕の娘を手招いて、から揚げの皿をふたりのテーブル運ばせた。

「アジェリさんのタレは絶品だから!」

と、太鼓判を押す娘に、それは楽しみです、とにこやかに。

 まるで、何も起きていないかのような、店内だ。いや、自分たち以外にとって、まさしく何も起きてはいない。

 亭内は和やかなまま、笑いさざめきが満たしている。

「本当に・・・方だ。」

 ----悲鳴が上がらなかったのが奇跡的な隙間に、

「いらンだろ、そンな。」

 気を落ち着けたくて流し込んだワインは先までは、芳醇な香りが感じられたが、もう何も覚えなかった。

追っかけてきたのは正解だったな。」

 眉間をぐっと押した男は、もう諦めがついたのか、妙にさばさばした口調である。

「私は戻る。こちらは任せていいか? 」

「ああ、そっちは任せた。」

 東ラジェの下町なら傭兵が、将軍より動けるし、『夏野』の総督おえらいさんを相手にするなら、逆が然りだ。

「…なにごともなく戻って・・・こないよなあ・・・」

 消えたみたいに、帰還かえってくれたらいいのに、と絶対叶わないと分かりつつ、呟いている年下の同僚を、もはや、報告と対応に心を飛ばして、椅子を立っていた男は、斜め上から不思議そうに見下ろした。

「現実逃避してもなにもならん。」

「分かってるって。」

 ひらっと左手を振って、

「何事もなく、総督宮に向かってくれてたらさ----今日の随行は大使どのだろ? オレらはお役ごめンだ。」

「商業都市の視察という訪問の名目上、護衛も、大使公邸の隊にお任せすると、納得したのでなかったのか? 」

 【暁】の武官が侍るのは武威をひけらかしているようだから、と諭されて。

「いや、そこに文句はない。公邸の連中も、気合入ってたし?」

「…もしかして総督宮に行けなかったのが残念なのか? 」

 彼は東ラジェに籍を置いていた傭兵だったが、もちろんその時代には縁がなかった煌びやかな宮殿を、話のタネに覗いてみたい気持ちは分かる。望めば許される出世になったのだから。

「ちげぇし。」

 嫌な顔をした。

「成り上がりの王道ぽすぎるだろ、それ。」

「物見高いのは悪いことではまったくない。地位を昇れば、見る範囲は当然広がる。、その景色を見ているものより、気付けるものが、と義父うえが申しておられた。」

 うむ、と男は大きく破顔した。

「他国の宮殿での護衛も、今後あるだろう。うん、いい機会だ。お前、ぜひ連れていってもらえ。護衛は他の者が負ってくれて、じっくり観察てくるといい。ポイントは教授レクチャーしてやる。」

「だから、ちげぇって! いや、そういう知識はありがたいし、あいつの為にもなるし、オレもちゃンとしていきたいし・・・なンだけど、いまオレが言いたいのは、」

 ぷい、と視線をそらした。

「お役御免の時間になったら・・・・・・・と思ってた。」

「・・・なんだって?」

 一部、突然音量が下がった。

「だからっ」

「うむ」

「あンたは、上街とか港は来たことあっても、下町こっちは知らないだろ!?」

「その通りだ。」

「オレには庭みたいなもンで----まあ、大戦前だから変わっちまったものも多いけど!」

「確かに的確な道案内だった。」

「だから、あンたを案内してやりたいと思ってたンだよっ。」

 頬に赤みを昇らせた彼と、じわじわ顔が赤みが上る男と。

「く、口に合うかわかンねぇけど、たまにはいいだろ!?」

思わず、目を見開いた男はくつくつと、満足そうに笑いだした。

「・・・有難いお誘いだ。」

 ----時間は容赦なく、多くのものを変えて流れていく。だが、嫌な変化ばかりではない。

「ふん、」

 また彼はぷいと横を向いてしまったが、男は自分の唇がゆっくりと緩むのを感じていた。鬼門のように感じていた街、そして因縁の償わねばならぬ相手を前に何を言えばいいのか逡巡する状況下、ぴりついていた神経が凪いでいくのを感じていた。

 ----まずは無事にお戻りになったときに、

 自分のことは、。----彼が伝えてくれたのは、そういうことだ。

「あるじのお迎えにも、張りが出るというものだ。」

「いや、張りよりゆったりと迎えたい。」

 


 さて、未来はどちらだろう。

 


 

 

 

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