「冥府の渡し守」亭にて 6
連れを見送って、リトラッドはカウンターに移動した。ぼちぼちと客も増えてきているから、テーブルを占有するのも悪いと思ったのだ。
主人がそこそこ高名な傭兵だったから、客はみんな傭兵かと思ったが、家族連れとか若いカップル、老夫婦と、なかなか幅広い。
「----いい店ってことだよな。ちょっと悩ましい、んじゃないかな。」
どこに行っているかは、きっぱり謎だが、ちゃんと説明説得ができているといい。非常時でもボトルはもったいないから、酒杯を傾けつつ思う。
リトラッドは、生粋の東ラジェっ子で、港湾作業員の子だ。傭兵に憧れて、団の見習いに入った。幸い、そこそこ剣術に適性があったのと、人なっこい雰囲気が(渉外担当として)見込まれて、そのまま正規採用を勝ち取った。
天気は急変するし、鳥に啄まれるかもしれないし、急な大波に攫われた挙句、魚に丸のみされるかも知れない。
でも、カニには目の前の砂しか見えていないのだ・・・。
『
左翼の軍に居て、敵の遊軍に側面から崩された。寄せ集めの複数の小規模傭兵団を、『凪原』の若い指揮官が与えられて、軍ごっこみたいな士気だった。あっという間に総崩れになっていた。各団の団旗が次々に土埃の中に見えなくなった。「進め」という怒号と「退け」という悲鳴と。どちらもすぐ傍から上がっていた。傭兵といえど、誰も戦など
「大いなる頂」団は数か月前から、ダユウの警備隊として雇われていたが『凪原』の侵攻で街はあっさりと軍門に下り、契約か処刑と問われた団長が前者と決めた。騎乗していた団長が、数合の打ち合いののち、落馬するのを遠くから見た。
敵も混成部隊なのは同じだったが、「天旋」の旗を掲げた彼らの士気は高く、統率は比べものにならなかった。
「天旋」の指揮官は『遠海』の第六だか七だかの王子。ヴォルゼ・ハークというラジェの傭兵が軍師を務めているとか。全く聞いたことがない、と誰もが言っていた。
はっとした時には、青毛の馬が目の前に立ちはだかっていた。
地獄の日、そんな風に言われるダユウ戦だが、リトラッドの当日の記憶はその程度だ。
名前を呼ばれて、揺すられて、意識が戻った。ぼんやりとしている口元に水筒が押し当てられて、流し込まれた
次いで、別の水筒。水を飲みほして、ようやく目の前に焦点が合った。
「----大丈夫そうだな?」
「あ、ありがとう・・・って、ラダン!?」
まさかの顔見知りである。同年代なのだが、二十くらい上に見える濃い風貌と渋い声である。
「このあたりにお前が落ちているはずだから、拾ってきてくれと依頼された----お前の好物の鯛の千代古令糖がけを準備させるから早く帰ろう。」
「待て。そンの、謎すぎる食い物はなンだ。カルパッチョは好きだが、こんな内陸で鮮魚、しかも海魚が手に入るわけもないだろ。・・・これは、夢だな?」
奇天烈すぎる料理を、真顔で勧めてくる古なじみに、そう確信したものの、ぐい、と頬をつねられた。
「っ痛っつ、って、なンしやがる!!」
「夢ではない。本人のままで何よりだ。」
「はあ!?」
立てるか、と差し出された手に首を振って、よろめきつつ、自力で立ち上がった。胸は鈍く痛みを訴えたが、手も足も付いていて、ちゃんと動くことを確認し、そこでようやく周囲を見渡す余裕ができた。
その時、自分がなんと口にしたのか覚えていない。叫んだような気もするし、息を飲んだだけだったかも知れない。
…拾われたカニ、であれたから、いまここにいることができる。
ほぼ初手で、自分に気づいた青年に失神させられたときに、保護を受けたから。
いま自分が生きていることは、巡りあわせの妙だ。
だから、目を凝らし耳を澄ませて、時を待つ。
カタン、とグラスを置いた。
空いたままの、席。
誰も立たないカウンター。
----気配が、戻る。
ずっとそこにいたように。
「慣れンなー、」
ぐしゃりと前髪をかき上げて、ほっと息を吐きだす。
呆然とした店主と、にこり、と笑った主君。
煤けて、戦場の
これは、穏やかにいけるパターン、か?
「どれくらいだ?」
レイドリックの姿がないことに、直後ではないと判断したらしい。
髪粉が落ちた、派手な仕様に戻っている----なるほど?
「直後に出て行ったヤツが、まだ大使館にたどり着いてないくらい?」
厚手のマントを脱ぎ、握りしめていた木の棒をカウンターに立てかけた店主は、両手をカウンターについて、大きく肩で息をしている。
「アジェリさんがお冠にならないくらいか。」
「まあ、ちょっと長くなった、で押し切れなくもない?」
「では、」
声がすっと低くなった。見据えてくる視線に背筋が自然に視線が伸びた。
「俺は、だれだ?」
錯乱したのか、とガイツがぎょっとしたように顔を上げてこちらを見たが、小さく手を振って、心配ないことを告げる。これは、変異をこなした後の決まり事だ。
名前と身分と肩書と家族と。ずれていないことを確認して、青年は肩から力を抜いた。横で聞く形になった店主は、唖然としていたが、仰天ではなく、得心、
「すぐ、戻りましょう。ちょっと、遅参(ン)するとは思いますが、間に合います!」
「----いや、無理だろう?」
非常識なことを言い出したがごとき吃驚したように言われて、イラっとしたが、それが顔に出るより前に、緊急を告げる鐘の音が宵闇の空を切り裂くように鳴り響いたのである。
「----この夜は、まだ終わらない。」
「いや、終わってくれ・・・」
頭を抱えんばかりのガイツの呟きには、頷きしかない。
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