第二十一話 温かい、心の底から感じる初めての。
「今日はどこ行くの?」
「永遠に松原通で試食し続ける」
僕が石川に聞くと、その奥から先生が答えてきた。
「なんか有名な商店街みたいなところって言ってたぞ」
スマートフォンで松原通を調べると、そこは清水寺へ行くための通りのようだった。確かに色々なお店が立ち並んでいる画像が出てきて、生八つ橋なんかも試食できるんだとか。
タクシーでその通りまで移動した。
「すごい人だな」
観光客でごった返す通りは、近くにいないと、簡単に人の波に揉まれてはぐれてしまいそうだった。
「具合悪くならないか?」
石川がこの人の量を見て、僕を心配そうに見てきた
「多分、きつい」
「そうか。新は人混み苦手だったな」
先生は苦笑を浮かべて、眉を顰めた。
「二人で行ってきてください。僕はそこら辺で帰ってくるの待ってますから」
こんなこと言ったら気を遣わせてしまうとわかっていたけれど、他に言い方が見つからなかった。
「そうか? 悪いな新!」
先生の元気な声に目を見開いた。
「ちょ、正気かよ」
先生は石川のまともな反応を無視して、
「ほら、行くぞ」
石川の肩を引っ張って行った。そしてあっという間に二人は人混みに消えていった。
「マジで置いてかれた」
地図で調べて、恐らく清水坂の方に行ったことを確認できた。
新〉戻る時、教えて
石川〉本当にいいのか?
新〉いいよ、どっかで暇つぶしておく
石川〉悪いな
人を避けるように一本裏の細い道に入った。車一台が通れるかギリギリの道路。京都の街はどの家を見渡しても、木造で茶色くて、雰囲気を壊さないために皆が協力しているように見えた。
少し歩いて、喫茶店が見えた。足も疲れてきた。大人っぽい雰囲気に入りづらさを感じつつ、ドアを開けた。カランカランとドアベルが鳴った。古い曲なのか、聞いたことのない緩くて、遅い音楽が流れていた。
「いらっしゃいませ」
口髭を生やしたおじさんがカウンターの前に立っていた。ワイシャツにエプロンを付けた格好の男性。
「どうぞ、座ってください」
雰囲気に酔いしれていると、店主さんが目の前の席に掌を差し出した。
少し高めの椅子に背伸びをして、腰をかけた。
「何か飲みますか?」
僕にメニュー表を渡してきた。
・スペシャルブレンドコーヒー(ホット・アイス)
・カフェオレ(ホット・アイス)
「これだけですか?」
思わず声に出してしまった。メニュー表のドリンクにはこの二つしか書いてなかった。
「二十年間ドリンクはこれだけでやっているんです。私のこだわりでね」
店主はコップを拭き続ける。拭いたコップを静かに棚に並べた。店内はコーヒー豆の香ばしい香りが漂っていた。
コーヒーを飲めるという人は、格好つけてるだけとか思っている僕だけど、
「じゃあこのコーヒーで」
なぜか飲んでみたくなった。
「はい、少々お待ちくださいね」
よくテレビで見る円錐の紙にお湯を注ぎ始めた。温かい温風とともに、さらにコーヒーの匂いが漂った。
紙を通して、お湯が黒い液体になって落ちてきた。ポタポタと垂れていく。
「一回目で味が決まるんです。渦状に全体に沁み渡らせるように注ぐんです。丁寧に、心を込めて」
何が変わるんだろう。初心者の僕には比較対象すらなくて、よくわからない。
「よく沁みてきたら、二回目を注ぎます。二回目は匂いが風味を決めるんです。たくさん注ぎます。香りはコーヒーの性格ですからね。私は優しいコーヒーを目指しているんです」
店主は優しく、一回目より多く注いだ。きめ細やかな泡が出て、香りが際立つのがわかった。
「いい香りでしょ?」
僕の眉が上がったタイミングだった。
「若くてコーヒーに慣れていなくても、大事なことに向き合える人なら、この違いはわかります」
店主が注ぐのをやめた。だんだん沁みていく。さっきよりコーヒーを含んで水が落ちているのを感じた。
「三回目、四回目はだんだん量を減らしていくんです。不思議ですよね。このコーヒーは私にしか作れない。でも一番じゃない。十人十色、どれも違くて全部いいんです」
店主はコーヒーを見つめ続けて、三回目を注いだ。タイミングが大事なんだろうか。
「コーヒーはどれくらい飲むんですか?」
「⋯⋯あまり飲まないです」
「素直ですね。こういう時は見栄を張ってもいいんですよ」
またお湯が注がれた。どんどん落ちる水滴の勢いは落ちていく。最後表面張力でギリギリ耐えていた水滴が落ちた。
「はい、どうぞ」
目の前で作られていたコーヒーが出された。あっという間だった。とにかく黒くて、でも濁っていない。自分の顔が映るくらい透明感がある綺麗なコーヒー。
「お熱いので、ゆっくりどうぞ」
ゆっくり口元に持っていって、軽く息を吹きかけた。湯気がボワッと上がって、深い匂いが鼻の奥で循環した。
「いただきます」
やっぱり熱くて苦かった。舌を火傷した気がする。でもまろやかで口の中に広がる苦味は美味しいと思った。口を通して、鼻に香りが広がった。鼻から吸う香りより奥床しさを感じた。
「良かったです」
何も言っていない僕に店主は微笑んだ。
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいですよ」
「仕事って楽しいですか?」
「はい、楽しいです」
店主は迷わず答えた。
「でもずっとじゃないですよ。私が追い求めていたコーヒーは何十年間も試行錯誤して、手に入れたものですし、今でもまだ満足はしていません。何度もやめようと思いましたしね」
「なんで続けられたんですか?」
「⋯⋯あなたの悩みはわかりませんが、若いうちはトライアンドエラーですよ。失敗したならそこから学べばいいんです。私はそうしてきました」
店主は洗い物を始めて、何かを思い出すかのように徐に話し始めた。
「好きなことをして違うなら辞めて、また新しいことするべきだと私は思います。一度きりの人生です。チャレンジしなくてはもったいないです」
「自分のために仕事をした方がいい。小学校、中学校、高校、大学。それの次が仕事です。嫌なことがあるのは当たり前ですけど、楽しまなきゃだめだと思いませんか?」
先人の知恵というのだろうか。優しい語り口調だからか納得できた。
「一度きりの人生の大半が仕事です。自分のためなら、失敗してでも行動することが大事ですよ」
小さく頷いた。
「ちょっと待っててくださいね」
店主はまな板と包丁を取り出して、玉ねぎやソーセージ、ピーマンを切り始めた。
フライパンを熱して、バター、オリーブオイル、野菜を入れた。
手際はかなり良かった。プロだから当たり前なんだろうけど、手慣れていて、迷いが一切なくて、楽しそうに具材を炒め始めた。
「食べれないものはないですか?」
「特にはないです」
コンロは僕に背中を見せないと使えない位置にあったから。顔は見えなかったけど、コーヒーを淹れる時とは明らかにテンションが違った。
野菜をフライパンから出して、そのフライパンにオレンジ色のソースを入れた。ナポリタンの匂いだ。ソースを温める間に、隣でパスタを茹で始めた。
時計を見ると一二時を回っていた。匂いで自分のお腹が空いていることに気がついた。
「はい、お金は大丈夫だよ」
出されたナポリタンに唾を飲み込んだ。
「いただきます」
美味しそうなトマトの匂いと一緒に口にパスタを入れた。
「どうですか?」
「⋯⋯温かいです」
何だろう。なんかこの料理がというよりは、温もりを感じた。
「真心篭っているでしょう?」
店主はカウンターに肘をついて、僕の顔を嬉しそうにみてきた。恥ずかしくて、下を向いてナポリタンにがっついた。
十五時が過ぎた頃、スマホが震えた。
石川〉終わったから戻ってこーい
「行きますか?」
「はい、ご馳走様でした」
僕は財布を取り出して、五百円玉をカウンターに置いた。席を立ち上がって、もう一度軽く頭を下げて、ドアに手をかけた時、「また来てくださいね」と、言われた。
「はい」
修学旅行で来た場所に個人的に行けるかなんてわからない。でも、また来る気がして、確信なんてなかったけれど、僕は振り返ってそう言えた。
戻ると、生八橋をお土産で買ってきてくれていた。石川は申し訳なさそうで、先生はご満悦な顔をしていた。
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