第十二話 器に入る水は決まっている。

 教室では着々と文化祭の準備が進められていて、特にやることのない僕は追いやられるように生徒会室にきていた。本番の運営は生徒会というより実行委員がいるから、そっちに任せられている。だから概要とか予算とかは全部、唄のマニュアルに書いてあったけれど、それが終わってしまえばやることは何もなかった

「あ、いたいた」

 僕がソファでいつも通り、本に感情移入していると、生徒会室にズケズケと石川が入ってきた。

「生徒会室は関係者以外立ち入り禁止です」

「知ってるか? 生徒は生徒会に入ってるんだぜ、それでここは生徒会室。だから関係者といえる」

 屁理屈を並べて、また一歩、そしてもう一歩中に入ってきた。

「⋯⋯何しにきたんだよ」

 僕は追い返したくて、石川を牽制するように目で威圧した。

「ここにきたら新に会うっていう体で白砂さんと話せるかなって」

「白砂は文化祭練習で忙しいと思う。石川もなんか役あったんじゃないの? それの練習しなよ」

「生憎、ほとんどセリフないから問題なし!」

 石川は隣に勢いよく座ってきた。その弾みで僕の体が少し浮いた。

「帰れって」

「そういう割には、昔ほど嫌味を感じない」

 石川のこういう無駄に鋭いところが気に食わない。石川の顔を見ると、安心する僕がいることは確かだけど、そんなこと恥ずかしいから気づかれたくない。

「それで? 用事なしってことは、ただの暇つぶし?」

「そういうこと!」

 石川は指を鳴らして、正解! と僕に指を差した。

 放課後の文化祭準備は十九時までと決まっていたから、それまで帰るわけにもいかない僕はここに時間まで篭っているつもりだった。石川もそれまでここにいるってなると、小説を読むのは無理そうだと思った。

「新さ、キーのこと好きじゃないよな?」

 唐突にそんなことを言ってきた石川の顔はやけに真剣で、なんでその思考に至ったのかはわからないけど、簡明直截な言い方だった。昨日といい、今日といい、僕に恋バナはないし、あったとしても需要もないのに何でそんな誤想に至るんだろう。需要供給ともにゼロなのにな。

「そんなわけない」

 だから口で突っぱねた。すると石川は「よかった」と呟いて、安堵の表情を僕に向けてきた。

「俺、キーのこと好きなんだよ。だから文化祭で告白するつもりだ」

 石川はまた急にそんなことを言ってきた。別に聞いたわけでも無いのに。昨日勘違いしたキーの真っ赤な顔が頭に浮かんできた。

「そうか。頑張れ」

「おい、冷たくね?」

 心から思ってる。でも、多分オッケーもらえると思うから、何の心配もしていない。榊原はちゃんとした恋には免疫なさそうな気がするし。

「前、白砂のこと気になってるとか言ってなかった?」

「あんなん流れだろ。何ならアイドルのような感じ。ていうか、白砂のことやっぱり好きなのか?」

 肘で小突いてくる石川を軽く突っぱねて、深くため息を吐いた。

「そんなんじゃない。ただタラシみたいなことしてんのかなって」

「俺はそこまでイケメンじゃない」

「知ってる」

「でも、こういう秘密を言うのって、なんか友達って感じするよな」

 夏休みに言った「友達になろう」が頭に浮かんで、忸怩たる思いになった。

「掘り返さないでよ」

 石川は無邪気に笑って僕を見た。その顔を見ると、やっぱり落ち着いて、僕の表情筋も自然と和らいでいった。


 時間的にも帰っていいくらいになったから、僕と石川はバッグを持って生徒会室をでた。

「あ、いた。新ちょっとこい」

 目の前から小走りで米村先生が近づいてきた。米村先生は石川を見ると、何か念を送るように視線で睨んだ。

「じゃ、じゃあ先帰ってるわ」

 石川は逃げるようにこの場を去った。廊下は文化祭準備が長引いたのか、帰りを急かされる生徒たちが行き交っていた。

「なんですか?」

「いいから!」

 すると、手首を掴まれた。だから強引に引っ張る先生の手を振り払った。痛いとかではなく、こういう先生の足りないところが癪に触ったからだ。

 先生は振り返って、振り払われた手を見て、視線を僕に持ってきた。

「一回説明してください」

 先生は辺りをキョロキョロとして、頭をぽりぽりと掻いた。

 そして僕の耳元に囁いてきた。

「US関係だよ。これで十分だろ?」

 その名前を聞いた瞬間、僕の背中がじんわり濡れた気がした。

「先生、それ何で――」

「ここだと言えないから、とりあえず応接室な」

 僕と先生は走って、一階にある応接室に向かった。


 中に入ると、小さな部屋に机を挟んで、ソファが二つ。向かい合うように唄と三十代くらいのおじさんが座っていた。

 おじさんは苛立っていて、僕と先生が入った瞬間、舌打ちをして、ガンを飛ばしてきた。

 第一印象はヤバイやつ。

 唄は俯いて、こちらを一回チラッと見たけれど、それ以上の反応はなかった。

「誰ですか?」

 僕は直接、その男に聞いた。

「小林芸能アーツの桐谷さんだ」

 横から先生がそう言った。僕はそこの人に直接聞いたはずなんだけど、桐谷さんというその人は僕に返答する気はないようだった。いかにも気難しそうなその人は、ずっと自分の指でおでこをトントンと叩いて、何かを急かしているようだった。

「今、どういう状況ですか?」

「えーっとな、実は――」

 先生がまた言おうとすると、机が大きな音を立てた。銃声ような音で、一気に緊張が走る。

「先生でしたっけ? 過保護はやめてくださんねえか? 本人が呼べっつったんだから本人の口から言わせるのが道理だろ?」

 桐谷さんは目つきが本当に悪く、スキンヘッドで、最初見た時はどこかの暴力団かと思った。桐谷さんの言葉に先生は小さな声で「すみません」と呟いた。こんな口調で言われたら、誰だって小さく縮こまってしまうに決まっている。

「こ、この人は前に話した桐谷さん。それで色々あって学校まで来ちゃって⋯⋯」

 唄は最後まではっきり言わずに、僕の顔を見たと思ったら、また目線を下にやって、右往左往に目が泳いでいた。相当焦っているのだろうか、僕はいまいち状況が掴めなていなかった。

「とにかく、どっちかだっつってんだよ」

「すみま⋯⋯せん」

 桐谷さんの罵声に、唄は肩を竦め、もっと小さくなる。

「文化祭で新曲発表するか、文化祭で歌うか、どっちかしねえと埋もれんぞ」

「何ですか、それ」

 思わず口が出てしまった。でも、止まらない。

「それって唄が顔を出す前提ですよね?」

「あ? 何だよ。呼んだら呼んだで、今度はてめえが口挟むんかよ」

 僕の言葉に耳を貸すわけもなく、威圧で言い分をゴリ押そうとしているのがヒシヒシと伝わってきた。

「唄はそれでいいのかよ」

 唄とUSは根本的に違う。公私を分けているから今の唄が保てているんだと思う。だからそれはダメだ。でも、唄は僕の言葉には応えなかった。

「じゃあ、これはどうだ」

 桐谷さんの意地汚そうなその表情はこの場を楽しんでいるような、完全に彼のペースになり始めていた。

「アーティストやめるか?」

 本当に嫌いだとこの瞬間に思った。ストレートに性格が悪い。引き合いに出すものとして比較にならないほど、悪条件を出してくるこの桐谷って人は本当に腐ってる。

「あんた、唄のこと考えてんのかよ」

「綺麗事かよ、にいちゃん」

 僕の言葉に桐谷はブッと吹き出し、笑い出した。嘲笑っている姿は本当にムカついた。やっぱり電話の時は見えなかったけど、こいつは一発殴ってやりたい。だから僕は一歩踏み出した。拳に力を込めた。どうなるかなんて今はどうでもいい。

「わかりました」

 僕の拳が今にも出そうになった時に、唄の言葉が僕の抑止力となった。

「いいです。文化祭で歌います。新曲は間に合いません。なので、そうします」

「⋯⋯わかったよ、じゃあよろしくな」

 それだけ聞けたから満足したのか、桐谷は僕に舌打ちをしてから、すぐに部屋を出ていった。


「本当にいいのか?」

 僕は唄に声をかけた。唄を見ると肩がヒクヒクと上がっていて、指から何滴も水が滴っていて、「あ」と声が漏れてしまった。

 米村先生はすぐ唄の隣に行って、背中を摩り始めた。僕だけがこの場から取り残されているような感覚に陥って、立ち尽くすしかなくて、足も前に出なかった。

 今、自分にできることを考えた。頭から知恵を絞り出して、自分に残されている行動。唄のためになる行動。僕は後ろに振り返った。すると、「おい」とドスの効いた声が背中に刺さった。

「余計なことすんな」

 先生の声が僕の動きを止めた。

「でも――」

「でもじゃない。行ったところで何ができる? どう回っても唄に降り注ぐのは目に見えてるだろ。何もできないなら、今日はまっすぐ帰りなさい」

 僕の行動は読まれていて、言う通りだと思った。最近、何もうまくいかなくて、結局空回りして、先生にこんなこと言われて、馬鹿みたいだ。

「新くん。私、頑張るから。新くんは、何も悪くないから」

 唄は部屋を出ていこうとする僕に嗚咽しながら、言った。でも僕はその言葉を聞いて、苦しくなった。何もできない僕が情けなくて心底、嫌になった。

「⋯⋯失礼します」


 帰り道に 〉大丈夫? とメッセージを送ると、すぐに返信が返ってきた。 

 唄〉大丈夫! 

 何となくそういうふうに言ってくる気はしていた。例えば、困っている人がいて、声をかけたとする。素直に話してくれればそのまま助けられる。例えば、元気そうな人でも適当に悩みありますか? と聞いて、「はい」と言ったら相談に乗ってあげられる。でも、いくらこっちが心配したところで向こうがSOSを出していなければ、助けを求めていなければ、それはただの余計なお世話だ。僕の行動は全部それで、唄が一人でこなしたがっているんだから、放っておくべきなんだ。そう。放っておくのが唄のして欲しいこと。

 僕は自分に何度も言い聞かせた。


 1


 あれからも唄は何一つ変わていなかった。毎日電話をして、歌を聞かされた。日に日に霞んでいく歌声に正直、最初の頃のような感覚はなかった。心地よいというより、不安や心配が勝ってしまい、それが引っかかって、唄と電話しながら、見る小説はただ文字を見つめるだけになっていて、全然集中できなかった。


「本当に今日バラすのか?」

「もう今更だよ、だから新くんも私の文化祭ライブ楽しみにしててね」

 唄の作り笑いを久しぶりに見た。手が震えていて、口角が引き攣っていて、不安が滲み出ていて、今にもコップから溢れそうで。


 ――そして溢れた。

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