第二話 恐怖の中の心地良さ。

 僕の兄である新一は実弟の僕を残して、知らない子供を助けるために命を投げた。交通事故だったらしい。その時、僕は家で新一の帰りをずっと待っていた。警察からの電話で僕はその訃報を知った。小さな手で持つ受話器はとても重くて、それを聞いた瞬間、受話器を床へ落として、壊してしまった。両親はその何年も前に僕と新一を残してどこかへ行ってしまい、兄の家族は実質、僕しかいなかった。だから翌日になって、幼かった僕に相手の親は何度も「ありがとう」と言ってきた。いくら泣かれても、感謝の気持ちを並べられても、兄は帰ってくるわけじゃない。そんな意味のない言葉を言いにきたのなら来ないで欲しかった。無駄に思い出させて欲しくなかった。僕はその場でポロポロと涙を溢した。相手はそんな僕を見て、同情するかのように抱きしめてきたけれど、誰のせいだと思っているんだと感じた。性格がひん曲がっているのは自覚している。でも僕は本当にそう思った。僕は兄が大好きだったのに――。


 僕が新一の写真に手を合わせているのは生き方を間違えないためだ。人のために命を投げ出して、自分が死んでは元も子もない。新一は人に立派と言われるような人だったのだろう。それでも新一は死んでしまったんだ。だから僕は新一を見て、新一のようにならないと決心した。僕は人のために自分は犠牲にしない。あの日からずっと心にそう決めていた。


 寝る支度を済ませて、何となくスマホを開くと、USが生配信をしていた。唄が画面の奥にいると思うと、いつもなら躊躇なく押す再生ボタンを触れなかった。見てはいけないものを見要としているような背徳感があって、でもその奥からいつも以上に好奇心が湧いてきた。

 わかってはいたけれど、いつもと変わらない内容だった。視聴者数は常に三千ほどで、僕が入ったことに気がつくはずもなかった。声を聞くと、唄だというのが明らかだった。胸から下だけを映し、首からはあのペンダントを提げていた。部屋なのだろうか、白い壁を背景に白いベッドがうっすら見えた。USはリクエスト曲をアカペラで歌って、気に入らないと、そのフレーズを反復した。歌手として練習は欠かせない。自分に厳しくするために、生配信でこういうことをしているのだろう。他にも質問に答えたりもしていた。


<どこ住みですか?>

「日本!」

<何歳ですか?>

「高校生だよ」

<兄弟はいますか?>

「どっちだと思う?」


 愛想は良かったが、どこか白砂唄とは関連づけたくないような、全てがそんな返しだった。要するにUSはとことん私情を隠していた。踏み切った質問が多くなってくると、練習再開と言って、質問コーナーを打ち止めにした。気がつくと時刻は一時を回っていた。USは最後に自分のデビュー曲『ありがとう』を歌いはじめた。『ありがとう』というタイトルを初めて見た時、センスがないなと思った。ありきたりで誰でも歌っていそうな、そのタイトルを見た瞬間に、惹かれる要素が何ひとつなかった。USの曲の中で唯一、腫れ物のようにして聴かなかったそれを、僕は初めてフルで耳に通した。やっぱりその高い声は聞きやすくて、スッと耳に入ってきた。優しい彼女だからこの歌声が出るのだろう。高い声を武器にするアーティストはたくさんいるけれど、いつもどこかに棘があって、僕はそういうアーティストが好きじゃない。でも耳に当たる高音が丸いのは僕が知る限りUSだけだった。だから僕は彼女がカバー曲の投稿をし続ける時からずっと好きだった。




 次に唄に会ったのは二日後の金曜日のことだった。職員室でばったりと会って、僕らは流されるがままに生徒会室に入った。僕らの共通点はそれしかないのだから当たり前だ。特に話すこともなく、僕はいつも持ってきている小説を開いた。特別好きといわけではないが、現実を忘れられるから、なるべく小説の世界観に浸っていたかった。ミステリーでもなく、サスペンスでもなく、恋愛小説。恋愛小説は静かに進んでいく。切なくても、一方向な恋でも、それは変わらなかった。最後はバッドエンドか、ハッピーエンドか。どちらでも静かに感情移入できる恋愛小説が良かった。

 唄はノートを開いて、タブレットで何かを打っては、ペンを走らせていた。高校生はシャーペンをよく使うが、彼女はなぜかボールペンを使っていた。消せないし、滲むことが多いし、

「なんでボールペンなの?」

 特に意味はなかったけど、聞いてみた。

「意味なんてないけど、ただ音と書き心地が好きなんだ。たまにハズレがあるから、その時は萎えちゃったりもするけどね」

 僕の質問に顔をあげ、垂れた黒い触覚を耳に掛け直した。眼鏡をクイっと奥に押し込んで、首を傾げて答えた。彼女のその行動にも特に意味はないのだろう。でもその一つ一つの仕草を、逐一目で追ってしまっていた。

「眼鏡の度、強いんだな」

 また意味のない質問をした。縁が金属でできたカチャカチャと音がする丸眼鏡。やけに目が大きく見えたから、そう言った。

「あ、ああこれね。ちょっと昔ね。あ、そうだ。昨日生配信してたんだよね」

 唄は濁して、話をすぐに変えた。

 どこか触れて欲しくなかったのだろうか。それよりも僕はその後の発言に驚いて、彼女のことを凝視してしまった。てっきり唄はUSの話をあまりしたくないんだと思い込んでいたからだ。

「そ、そうなんだ」

 知らないふりをした。唄の秘密を一つ知ったからと言って、急に馴れ馴れしくして、地雷を踏みたくはなかった。

「見てたのかと、思ったのになぁ」

 唄は残念そうに言って、僕に手招きをしてきた。

 僕が大きな会長机に座る唄の目の前にいくと、唄はノートを指差した。


 泡のようにすぐに弾ける。

 君に会いたい。

 あなたの笑顔を追いかけたのに。

 助けてくれた君はもういない。


 ポエムのような、短調で不可解な文を僕に読ませた。どこか寂しげな文字列。どこを探してもその文字はハッピーエンドを迎えないように思った。

「このノートは私のアイデア本なの。こうやって自然と出てきた言葉を書き連ねて、曲に使えたらいいなって」

「何でそれを僕に言うんだよ」

「私さ、昼間はこうやってアイデア出して、夜は歌の練習してるのね。だからよくYouTubeで生配信してるんだ」

 知ってる。僕はカバー曲時代からのファンだから。それを言いたい気持ちをグッと堪えた。そんな裏のことまで聞けて弾む心を必死で隠して、

「それで?」

 スカすように返した。

「夜、BGMとしてでもいいんだけど、もちろんアドバイスも欲しいんだ。できれば新くんに聞いていて欲しい」

 真顔でノートを見る僕に、唄はそんなことを言ってきた。

「何でだよ。リスナーの方が唄のことわかってるだろ?」

「まあ、そうなんだけど。やっぱり楽しく歌いたいじゃん? だからこういうの頼める人探してたんだ」

 リスナーの中には厳しい評価をしてくる人もいるということなのだろう。それで気にしちゃって楽しく歌えないということなのか。

 普段、歌を聞きに配信に入るから、コメントとかはあまり見たことがなかった。歌手の事情はよく知らないものの、言いたいことは何となくはわかった。

「一人で歌えばいいじゃん」

 僕は唄を拒むように冷たく返した。

「もしかして、母親とかにバレたくないみたいな感じだったりする? 異性と話してるとこ見られたくないよね。ごめんね」

 違和感が拭えない。人のことを気にかけているような素振りをよく見せるくせして、どこか無神経で。もちろん親がいないことを、唄には言っていないのだから気にするのは無理な話だとは思う。

 でも、やっぱり彼女は無神経な気がする。

「そんなんじゃないよ。わかった。いいよ」

 僕は少し不貞腐れた表情で言った。だけど今度の唄は僕を一切気にせず、「やった!」と一人喜んでいた。唄の感情変化がイマイチ読み取れなかった。

「今日からいい?」

「うん」

「LINEやってる?」

「まあ一応」

 僕はスマホを出して、唄に手渡した。

「私がやっちゃっていいの?」

「見られて困るもんないしな」


 唄はやけに長く僕のスマホを触っていたから「まだ?」と聞くと、「もう少し」と言ってから、少しして返してくれた。

「検索欄、何もなかった」

 不満そうに唄がこちらを見てきた。

「何もないって言ったじゃん」

 それから唄は自分の作業に戻って、僕も小説の世界に入った。唄は自分のセカンドシングル『君となら……』を鼻歌で奏でながらノリノリだった。


 学校を十九時に出て、家に帰ったのは二十時だった。風呂に入って、夕飯を食べているとLINE電話がかかってきた。画面には唄と表示されていた。女子からの電話なんて何年ぶりだろうと思った。何なら連絡事項以外で女子からかかってきたのは初めてかもしれない。少し謎の緊張したが、汗ばむ指で電話に出た。

「あー出た出た。今、平気?」

「うん」

 僕の言葉に唄は喉を唸らせてから、歌い始めた。特に前ぶりはなく、唄も電話に慣れていない? というのが第一印象だった。意外にも唄自身も男子とあまり関わってこなかった。なんていうことがあったらいいなと、夢物語を頭で展開した。


 最初の曲はback numberの『水平線』だった。僕は米と味噌汁を交互に食べながら、唄の曲を聞いていた。少し前にカバーで歌っていたのを知っていた。その後も唄は何曲も止まらずに歌い続けた。歯磨きをしたり、宿題をしたり、爪を切ったりしながら唄の言った通りBGMとして彼女の歌を聴いていた。僕は寝間着に着替え、今日帰りに買ってきた本を手に取った。唄は生配信の時とは違い、歌い直したり、声の調整などはせず、根気も入っていないように感じた。言ってしまえば、それこそ口ずさむくらいのボリュームで歌っていた気がする。手を抜いているとも言えるかもしれない。アドバイスを欲しいとは言っていたけれど、これくらい気楽に歌っている唄の方がいつもの配信より好きだった。USとしてじゃなくて、唄として歌っているような気がした。何なら唄でもないどこかにいる本当の唄が歌っているような気がした。自分でもよくわからなかったけど、そう感じたから、僕はこの歌の邪魔をしたくはなかった。


「もう寝るか?」

 本を読み終わり、彼女の歌が終わるタイミングで話しかけた。時刻は0時を回っていた。明日は用事がなかったから、別に寝なくてもよかった。でも時間も時間だからと、唄に声をかけた。

「もう眠い?」

「まだ眠くないけど、夜更かしは良くないし」

 小説のページによってはキリが悪くて、夜更かしなんて慣れていたけど、寝る口実として小説を使った。

「じゃあ、あれしようよ。寝落ち電話!」

「嫌だよ」

 女子と寝落ち電話なんてしたことがない。寝落ちでも話がなくなって無言になった時の気まずさが怖かったし、何より僕みたいなのが、唄のような才能の塊と一緒にいると有用な時間を奪う気がして、申し訳ない。でも、やっぱり一番はこれ以上深く関わりたくなかった。怖かった。


「えー」

 そんな僕の気持ちなど汲み取らず、唄は残念そうに言った。

 唄の漏らした不満がチラチラこっちを見ているようで、居心地が悪い。

「……いいよ」

 何言ってんだ、僕は。

「どっちよ」

 唄の声は少し嬉しそうだった。今日の生徒会室にいる時ような、大袈裟な喜びは感じなかった。それから唄は寝る支度を十数分で済ませ「お待たせ」と戻ってきた。

「寝落ち電話したことあるの?」

 僕は電気を消して、布団に潜りながら唄にきいた。

「そんなことする友達いないよ」

「友達ならわんさか湧いてくるでしょ」

「全然いないよ」

 僕は知っている。唄の周りには常に人がいて、唄は常に笑っていた。窓から外を眺めると体育をしている唄がいて、五、六人で鳥籠をしていること。職員室に僕が石川と行

くと、唄は大人数の中心にいて先生と話している時も笑っていること。唄に友達がいなかったらあの周りの人物は何なのだろうか。


 *


 そういえば、昨日だったか、一昨日だったか、僕は唄とすれ違っていたのを思い出した。妙に陽キャたちの機嫌が悪く、逃げるように僕と石川は廊下で話をしていた。その時、五人くらいの中心に唄がいた。僕は気づかないふりをするために石川の目から視線を外さなかった。

「な、何だよ」

 石川は僕を気持ち悪がったが、そんなものは痛くも痒くも無かった。石川に気持ち悪がられるのなんかより、遥かに嫌なことがあった。

「あ、新くん!」

 唄は僕に気がついて名前を呼んだ。最悪だと思った。僕が無視をしたら「無視しないでよ」と言ってきた。石川は僕の先の行動に理解できたのか、卑しい顔をしてきた。唄の取り巻きのことを考えると、それ以上無視するのは唄の立場を危うくしかねないと思い、「うん」と僕は返した。彼女は僕の目を見て、コクっと頷いた。たったそれだけの会話で唄は僕の前から去っていった。あの後、あの子誰? 知り合い? なんて言葉が聞こえた気がした。――だから嫌だった。


 *


「新くんいつも一緒にいる子いるよね?」

「石川のこと?」

「そうそう! ああいう唯一無二の友達いいよね」

「そんなんじゃないよ」

 こんな何気ない会話が続いた。他にもクスッと笑うくらいの、微笑するくらいの、僕にとっては居心地のいい会話が止まらなかった。唄も今こうしてベッドの中で話しているのかな。なんて気持ち悪いことも考えた。だから男はチョロいんだ。身をもって感じた。結局三時まで話して、唄は寝落ちをした。寝息は聞こえるものの、鼾は聞こえず、寝ている時も唄は唄のまま消えなかった。僕の理想の唄は学校にいる時の唄で、どこでも変わらない。電話を切った。それから三十分して僕も寝た。

 

 土曜日も日曜日も同じ時間に電話がかかってきた。唄は決まって最後に、自分のファーストシングル『ありがとう』を唄った。唄の歌っている顔はいつも決まって見えなかったけど、どこか悲しげに歌う『ありがとう』という曲。意味がわからない。この言葉に尽きる。それが僕の中で一番適切な表現だと思った。

「なんでありがとうなのにそんな悲しそうなんだよ」

「え? そう聞こえてた?」

 唄は気づいていないようだった。その悲しげな歌詞に泣きそうなほどか細くなっている自分自身の歌声に。それでも彼女の声は綺麗だったから、わざとそうしていても全然違和感はないし、テクニックだよ、とでも言えば、疑うのはプロの中でもごく一部なのだろう。

「……何でもない」

 これ以上詮索してはいけない気がした。

「今日も寝落ちするのか?」

「うん!」

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