第九話 嫌なことほど強く、心に刻まれる。
僕は霞む視界をそのままに学校まで登校した。今にも潰れてしまいそうなほど眠くて、何かにぶつかった。
「あ、すみません」
「おー新。って何だよ、その隈」
目では見えなかったが、幸いにも当たったのは石川のようだった。
「悪い、昨日寝てなくて」
僕はおそらく自分のものであろう靴を下駄箱から取り出して履き替えた。あくびが止まらなくて、ものすごくだるかった。
「ほら、一緒に行くぞ」
「ああ、ありがとう」
石川の手も借りて、何とか教室までたどり着いて、僕はすぐ机に伏せた。
*
「ほら、新! 俺の将来の嫁だ!」
僕の目の前にはあの時みた写真のギャルがいた。ギャルは僕を見ると、そわそわしてから外方を向いた。
「おい、二人とも仲良くしてくれよ」
新一は苦笑しながら僕とケバい女を交互に見た。
「やだ! だってお姉ちゃんが先に顔に出したもん! 僕は我慢した!」
これは僕の口から出たものだった。声変わりもしていなくて、口調も幼かった。視点は僕だけど、どこか側から見ているように勝手に物語が進んでいった。それで記憶の中でこんなことがあったのを思い出した。多分これは明晰夢ってやつだと思う。
「ほら、お前も子供嫌いだからって、流石にどうかと思うぞ?」
「だって⋯⋯」
僕はこの後泣いて、新一に部屋まで連れて行かれた。新一の部屋で泣き止むまで、「悪いやつじゃないんだけどね」と言って、頭を撫でてくれた。この後泣き疲れて、そのまま寝てしまった。
「ほら、お前まで泣いてどうすんだよ」
「だって、あの子は悪くないって分かってても、新一がこんな頑張ってて、じゃあ新一はどうしたら報われるの」
起きると、ドア越しからあのギャルが泣いているのが聞こえた。あのギャルが言いたいことは何となく分かった。僕が邪魔だったんだと思う。毎日働いて、大学の講義もしっかり受けて、僕の我儘も聞いて。
「何で、新一ばっかこんな目に遭わなきゃならないのさ!」
まるで子供だと、精神が高校生の僕は思った。彼女の中で一番大事なのは新一だから新一がギリギリのラインで頑張っているのを見ていられなかったんだと思う。
「俺なら平気だから。俺は新と――が笑顔で――れば―よ」
うまく聞き取れなかった。段々と音が悪くなるのを感じた。飽くまで記憶を辿っているだけだから、微妙な部分は雑に補正されているのだろうか。
僕の手が勝手に動いた。ドアを小さな体で勢いよく開ける。
「何でそんなこと言うの!」
おい、やめろ。今、出て行っても逆効果だ。
そう思っても、小さな僕は思いのまま走り出した。
「新一は可哀想じゃない! 新一は頑張ってるんだ! そんなこと言うな」
僕の体はギャルの方へ突進した。この時の僕は怒っていたんだ。新一にそうやって言う彼女がすごく嫌いになった。足を掴んで玄関の方向へ思い切り引っ張った。でも大きな体はピクリとも動かず、僕は新一に抱き抱えられた。
「ありが―う。二人とも俺の大事な家族――思――る。だから――――も一緒にいたい。お互い仲良く――くれ」
僕は暖かく、柔らかく包まれた。すぐに新一だと気がついた。僕は新一の胸が好きだった。力仕事のバイトで大きくついた大胸筋に僕の頭を押し付けて、優しく頬をさすってくれる。だからいつも迷惑かけてごめんって心の中で思っていた。そして自然と涙が出ていた。
*
「おい、起きろ」
ボヤける目を擦って、大きく伸びをした。なぜか目頭に水が溜まっていて、拭き取った。目の前には石川と米村先生がいた。教室は静まり返っていて、学校に来たばかりにしては異様な光景だった。
「夜行性はこれくらいなもんか?」
「どういう意味ですか?」
回らない頭で先生の言葉を解釈した。外を見ると、カラスが帰りを促すように鳴いていて、小学生の話し声も聞こえた。何より赤く染まる空は大体の時間を示していた。
「まあ、こいつ寝不足だったみたいで、許してあげてくれないですか?」
石川はヘラヘラと先生に対して、僕を庇う発言をした。
「ただ寝てるだけならな。でも全教科の先生からクレームの嵐だからな。何も言わないわけにもいかないだろ」
「⋯⋯すみません」
完全に僕が悪い。言い訳の余地など当然なかった。先生は大きくため息を吐き、僕の机にプリントを叩きつけた。
「これは今日、唄が送りつけてきた文化祭の資料だ。昨日頼んだものを今日送りつけてきた」
送りつけてきた、この言い回しに少し違和感が残ったし、米村先生の少し怒気の混ざった声で不安が駆り立てられた。
「そうですか⋯⋯」
昨日のこともあり、少し反応に困った。
「最近、唄が切羽詰まってるような気がしてな」
まあ、無理もない。僕も薄々気づいていた。だからなお聞きたくなかった。僕にはどうしようもないってことを昨日知ったから、ただ見守ることしかできないことを昨日わかったから。
「今日、白砂さん学校休んでるんだとよ」
「え?」
昨日電話してくれなかった理由は体調不良だったのか。不謹慎にも少し僕の顔が晴れたたんだと思う、先生は眉間に皺を寄せた。
「だから様子を見に行ってくれないか?」
「いや、まあ、でも⋯⋯」
昨日頼ってくれなかった唄が頭に残っていて、なかなかわかりました、と言えなかった。
「家知ってるだろ?」
「まあ、一応」
僕は二人に聞こえるか聞こえないかのギリギリのラインの声で言った。
「え、何でだよ」
石川は少し僕を怖がるように言った。何か勘違いしていると思う。
「だから行ってこい」
先生は頑なにそう言った。
「いや、でも、僕じゃ――」
「はあ、じゃあ石川も一緒に近くまで行ってやれ」
僕の声に上書きするように先生が言った。
「えー俺もですか?」
「それでいいか?」
「⋯⋯まあ、はい」
僕の思考は落ち着かなかった。つり革に捕まって、先生が渡してきた文化祭の資料に目を通す。具合が悪いながらも、唄はこんなものを作り上げていたのかと思うと、恐怖心すら覚えた。プリントは五十枚ほどに渡って、終始こだわり尽くされていた。
「うわー、白砂さんすごいな」
隣で首だけ僕に近づけて、覗き込むようにその資料を石川も見てきた。
「そうだよ。白砂は本当にすごい」
僕には到底できない。多分、こういう作業はセンスというより、どれだけ頑張ったかが大きく影響するんだと思う。そう考えると、彼女の努力はすごいというより異常だと感じた。
「⋯⋯ごめん。石川、帰っていいよ」
唄と二人で話がしたかった。なんでそんなに頑張るのか。これ以上やったら唄の体は持たないんじゃないかと思った。実際に持っているかも怪しいのが現状だ。話してくれるかすら怖かったが、ここで逃げ出しちゃいけないと思った。
「分かったよ、頑張れ」
石川は僕の顔をじっと見つめ、何かを悟ってくれた。詳しい事情はわからないとは思う。でも石川なりに気を遣ってくれたんだ。石川は次の駅で乗り換えた。
何で一人でやろうとするのだろうか。明らかに人のために自分をすり減らしすぎている。唄の周りにはいつも人がいるのに、何で頼らないのだろうか。せめて、僕には。あの時、一年も一緒にやっていくんだからと、刺々しく接した僕を包み込んでくれた唄には頼って欲しかった。
インターホンを鳴らした。
少ししてから唄の祖母のらしき人が出てきた。
「あら、唄と同じ学校の男の子かしら?」
優しい口調で聞いてきた。
「どうも、こんばんは」
その人はほんのりと笑って、僕を家の中に入れてくれた。
家に上がると、中は落ち着いた空気が流れていた。いつも唄から感じる心地のいい雰囲気に似ていた。客間に招待されて、紅茶が出てきた。僕は「いただきます」と言って、一口通した。生徒会室で、唄が出してくれるものと同じ味がした。唄の祖母らしき人は僕を見て、また柔らかく笑ってくれた。照れ臭くて、小さく会釈をした。
「来てくれて、ありがとうね」
その人はそう言いながらテーブルを挟んで、向かいに座った。
「いえいえ、唄さんは?」
「寝ているわ。相当疲れていたみたいで⋯⋯」
唄の祖母の表情から、やっぱり体調がよくないのだと察した。
「名前伺ってもいいかしら?」
「あ、すみません。齋藤新と言います。唄さんとは生徒会でご一緒させてもらっています」
「そうだったのね。白砂琴と言います。琴おばさんでも、琴さんでも、何ならおばあちゃんでもいいよ」
語尾を柔らかく丸みこめて言ってきた。
どこかで聞いたことのある、このあたかも親密な仲を連想させる呼び方を強要してくる感じ。やっぱり似ている。
「じゃあ、琴さんで」
「あの子あまり家では話してくれないから知らなくて、ごめんなさい。あの子は親が亡くなってから、あんま話さなくなっちゃったから⋯⋯」
「あ、そうだったんですね」
あまり驚けなかった。僕に親がいなかったというのもあると思う。どちらかというと、家で無口なことの方に、少々驚いていた。
「知っていたの?」
「いや、知らなかったです」
「知らなかった割には冷静なのね」
「まあ、僕もいないんで、あんまり驚かなかったです」
僕は無理に口角をあげて受け応えたが、琴さんはかなり申し訳なく思っているのか、
「そうだったの、なんかごめんね」
かなり暗い口調になった。
「いやいや、慣れてるんで」
この空気感で正しいのかわからない。諂うべきなのか、もっとフレンドリーに言ったほうがいいのか、対応が難しい。
「最近は部屋で何やら楽しげに話してるから、少し嬉しくなっちゃってね。もしかして新くんだったりする?」
「まあ、多分、僕です⋯⋯」
そう答えると、琴さんの哀しげな顔はどこか明るくなって見えた。「僕です」と言った自分が、後になって恥ずかしくなって、俯いてしまった。
「相変わらず、私とかおじいちゃんにはあまり話さないんだけど、家での顔も明るくなっててね。だから嬉しいのよね」
ああ、似ている。その笑顔は、僕の好きな画面の奥の唄の笑顔に似ていた。顔は似ているわけではなかった。何なら画面の奥の顔なんて見たこともない。でもその表情がどこか似ていて、家族なんだなと心から感じた。
1
「え、新くん!」
扉の方から声が聞こえた。可愛げで高い声、か細く、でも芯のある唯一無二の声。やっぱり唄だった。白いモコモコのパジャマを着ていて、髪も下ろしていた。可愛い、率直にそう思った。
「あら、起きてたの?」
「さっき、うん」
唄の声は急激に静かになった。視線を急降下させ、一気に無表情で、面を被ったような顔になった。多分これが家での唄なんだろう。唄は僕を上目で見て、小さく「来て」と言って、袖を引っ張ってきた。僕は立ち上がって、唄の祖母に会釈をした。笑顔で返してくれて、唄を見てからざわついていた心が、落ち着きを取り戻したような気がした。
二階の部屋に連れてこられた。白を基調とした洋の雰囲気に近かった。さっきいた部屋は和のテイストが濃かったから、何となく境界線のようなものが引かれている様に感じた。机、ベッド、他に家具と言われるようなものは特になかった。そんな質素な部屋の中に僕は唄と二人きりになった。
「ここ私の部屋だよ。座る場所ないから、ベッドにでも腰かけといて」
「すごいあっさりだな」
唄は机とセットになっている回転椅子に座った。そして脚についたローラーでスーッと僕に近づいてきた。
「どう? 緊張する?」
いつもは耳元で囁いてくるが、今日は膝と膝が当たるくらいの距離感だった。頬を軽く吊り上げ、僕をまっすぐ見てきた。揶揄っているんだ。
「今さら何も思わないさ」
と、見栄を張っているいつもの自分。本当はキューッと喉を締めて、心臓が出てくるのを一生懸命止めていた。
「つまんないなぁ」
唄は表情筋のひとつも動かない僕に口を尖らせて、立ち上がった。唄は机の引き出しから何かを取り出した。「ほい」と言って、それを僕の胸にダイブさせた。落ちないようにキャッチすると、それはあのペンダントだった。
「⋯⋯綺麗になったな」
ペンダントは錆ひとつ無くなっていた。
「やっぱり気づいてなかったんだ。学校に忍び込んだ時からなのにね」
「えっと、ごめん」
暗かったし、あの時は何よりも唄に見惚れている自分がいて、それどころではなかった。
「まあいいよ。本当は中身を取り出したくて、知り合いの鍵屋さんに頼んだんだけど、だめだったんだ。その代わりにって綺麗にしてくれたの」
「そんな鍵屋あるんだな」
そのペンダントは見れば見るほど、不思議と目が惹かれた。容姿はとても人前に持っていけるようなものではないし、この大きさのトップがついたペンダントなんて、誰が好んで買うのだろうか。センスを疑いたくなる。リボンはまだしもメインの球体がペンダントのダサさを際立たせているのは明らかだった。
じっくり見ていると、裏側に小さな鍵穴みたいなものを見つけた。唄はそこの鍵を作って欲しくて鍵屋に行ったのだろう。
「ねえ、このペンダント借りていい?」
「え、嫌だよ。失くされても、壊されても困る。大事なものだもん」
「明後日には返すからさ」
僕は手を前で合わせて頼んだ。
「まあ、それならいいけど」
「ありがと」
足元の絨毯の感触が柔らかい。モワモワしてて、気持ちいい。そうして自分を誤魔化していると、恥ずかしいことも言葉にできた。
「それより、何で今日来てくれたの?」
「心配だったから?」
「何で疑問系なの」
口が裂けても、先生に言われたからなんて言えない。唄が見ている僕はこういう時、結局駆けつけてくれる僕で、だからその僕を壊す勇気がなかった。
「あ、そうだ。あれ貸してあげる」
思い出したように、唄はクローゼットを開け、中を荒らし始めた。クローゼットにはいくつも服がかけてあって、私服姿の唄を無意識のうちに想像していた。そういえば唄と私服で出かけたことがない。生配信で見るときは私服だけど、多分部屋着のようなもので、かけてある外で着る用の姿が見てみたい、と思った。
「これこれ」
唄は潜らせていた上半身を外に出して、手には本を持っていた。僕はいつも片手間で読めるように文庫サイズと言われるような小説しか読んでいなかった。でも唄が手に持っていたのは遥かに大きく、表紙も硬いハードカバーで、置かないと読みづらいものだった。唄は僕にその本を渡してきた。『人のために生きる君は美しい』というタイトル。
「これ、見たことあるよ」
そう、見たことはあった。見覚えのある表紙。
「え! あるの!」
「いや、そういうことじゃなくて。いつも僕が読んでるこれくらいのサイズで売ってたんだよ。でも読んだことはないよ」
僕は手でいつもの文庫サイズを作って、唄に言った。確かこの本は一度手に取って、戻したやつだ。
「この本、小さい頃にこのペンダントと一緒にもらったんだ。だから私の中ではセットなんだよね」
「じゃあ、読んだら返すよ」
「でも、この本は読まなくていいよ」
「え?」
「何なら読んじゃだめ」
「何でだよ」
よくわからない。じゃあ、この本は何で渡されたんだろうか。
「新くんにこの本は、読む必要ないと思うからさ」
唄はたまにこういう意味深なことを言って、笑顔になる。唄の中の僕は読む必要がないのだろうか。かけ離れた理想の自分に話しかけられている気がして、やっぱり意味がわからない。
「まあいいよ。この本読みたいわけじゃないし、明後日返すね」
僕は学校のバッグに本を入れて、ペンダントはポケットに仕舞った。
「本は最悪折れてもいいけど、ペンダント入れ物とかないから、本当に壊さないでね?」
本当は手放したくないというのがひしひしと伝わってきた。眉毛が八の字になって、口を噤んでいる唄の姿は、欲しいものを我慢している子供のように見えた。
「わかってるよ。壊れたら中身見れるかもしれないけど⋯⋯」
僕の意地悪な一言に唄は口を少し開けて、「なんてこと言うの」とでも言いたげな顔を向けてきた。少しクセになりそうだった。
「あと、無理しすぎないでね。僕だって同じ生徒会役員なんだ、僕にも仕事を降ってくれないと、面目がない」
「⋯⋯そうだよね。もうちょっと上手くやるよ」
多分言いたいことは伝わっていないんだと思った。一人じゃできないんなら回せって言いたいわけじゃない。唄じゃ無理だって言いたいわけでもない。でも、どんな言い方をしてもそういう誤解に似た形で解釈されるんだろう。唄は自分の感情を全部押し潰して、頑張ろうとする一番ダメなタイプだ。それで疲れた、苦しい、嫌だ。こんな感情すらも忘れて自分を失くす時がいつか来そうな気もした。
じゃあ、僕が取る行動はひとつしかない。
「今日は電話なしね。ゆっくり休んで。もう帰るからさ」
「あ、うん。ありがとね!」
先回りして僕が仕事をやる。
部屋を出て、琴さんに挨拶をした。琴さんは「また来てね」と、言って送り出してくれた。その言葉はどうしても雫を思い出してしまう。まだ、脳裏にこびりついて、残り続ける雫の姿。忘れたくない気持ちと早く忘れなきゃ、という二つの気持ちが入り混じってまた一つ、脳にわだかまりが生まれる。新一と雫。二人のことをどう整理すればいいのか。石川に格好つけて、まだダメとか言っておきながら、僕も全然ダメだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます