第二章

 第八話 やっぱり人のためなんて、自己満でしかない。


 始業式が終わった昼過ぎの教室には僕しかいなかった。小説のキリが悪くて、窓際の席で小説を読み続けていた。周りの音など聞こえないくらいに夢中になっていた。

「この間はありがとな」

 そんな没頭する僕の脳にしっかり声が入ってきた。黒板の方を見ると、いつ来たのか、教卓に米村先生がいた。

「いや、先生が電話してくれたおかげですよ」

 先生は教卓にパソコンを広げた。

「新、ちょっとこっち来い」

 本にしおりを挟んで、言われた通り先生の横に立った。

「文化祭と体育祭の準備はどうだ?」

「え?」

 僕は一瞬だけ見えた写真に釘付けになっていた。パソコンの画面に映った写真は僕の遠い記憶を呼び起こした。

「文化祭と体育祭の進み具合だよ」

 確かにそれも聞いていないから、え? って感じなのだけど、さっき見えた写真。

「先生、さっき見えたケバい人は?」

「⋯⋯ケバいって、あれは昔流行ったギャルのあれだよ」

「昔って言っても先生まだ二十代でしょ?」

 先生は開きかけていた新しいタブを閉じて、さっき開いていた写真フォルダに画面を切り替えた。

「これのことか?」

「そうです」

 やっぱりそうだ。覗き込んで見えたこの人は――新一の元カノだ。元カノというか、新一が死ぬあの時まで付き合っていた相手だ。

「この人、誰ですか?」

「誰って、⋯⋯大学時代の友達だけど?」

 先生は少し顎をしゃくらせて答えた。

「先生の出身大学ってどこですか?」

 僕は掘り下げるようにまた質問をした。

「日本大学だが?」

 新一の通っていた大学だ。やっぱりこの人は名前すら知らないけど、新一の元カノだ。数回しか見たことなかったから、存在すら忘れていた。

「なんだ? 知り合いなのか?」

「あ、いや、何でも、ないです」

 僕は隠した。これ以上言っても何も収穫がない気がした。

「まあ、いいや。生徒会室に唄がいるはずだから、暇なら手伝ってやってくれ」

「⋯⋯わかりました」

 机に戻って、本を開いた。何となく集中できなくて、校庭に視線をずらした。


 別に今さら知ったところでどうということはないが、先生があの人と知り合いだったことに驚いていた。今どこにいて、何をしているんだろうか。そういえば生前の新一と仲良くしていた人たちは今頃何をしているんだろう。八割くらいは新一のことなんて忘れているんだろうか。

 なんか悲しい気持ちになった。死んだ人はやがて忘れられる。それは性なんだ。しょうがないとは思うけれど、忘れられた側の気持ちを考えるとやるせなくなる。もし僕が新一にとって心配いらない人間になったら、新一は僕から離れて、僕は新一を忘れるのだろうか。


 それは、いやだ。


 1


「いたのか」

 僕はあたかも唄がいることを知らないふりをして、生徒会室に入った。唄は眼鏡をかけて、またいつものようにボールペンをカリカリさせていた。僕の声を聞いて、唄の視線はゆっくり僕に向いた。

「新くん、あれ以来だね」

「電話はしてたよ?」

 僕はブレザーを脱いで、ソファに腰を下ろした。

「でも、なんか久しぶりな気がする」

 唄は前髪の位置を整えるように、軽く頭を振った。

「体育祭と、文化祭のやつ聞いてないけど⋯⋯」

 僕はバッグから小説を取り出す片手間で呟いた。我ながら捻くれていると思った。

「あーごめん、忘れてた! 一応できたから、どっちも目を通して欲しいな」

「⋯⋯わかった」

 唄はまた一人仕事を終わらせていた。夏休みの間にUSとしての仕事もしっかりこなしていて、生徒会長としても申し分ない働きで、さすがだ。でもやっぱり僕は頼って欲しいと思ってしまった。あの時、歌の練習を手伝ってと、頼んでくれたみたいに。でも、頼られないのは僕自身の問題で、彼女には非がない。だからそれは言えなかった。


 あの部活動の改革案より、どちらも遥かに分厚かった。二つともしっかりとした行事で、ほとんどの生徒がこのビックイベントを楽しみにしていることだろう。だからか、唄の仕事も、あの時以上に手が凝っているのを感じた。


 でも、読んでみると誤字や脱字が多かった。疲れのせいか、ボロが出ていた。でも唄の努力がプリントから滲み出ていて、僕はそれを注意する気にはなれなくて、

「まあいいんじゃないか?」

 つい庇ってしまった。一歩踏み出して、頑張りすぎじゃないか? とか聞くべきなんだろうけど、その一言が言えない。

「ほんと? 良かったぁ」

 唄は僕の言葉を聞いて、安堵の表情を浮かべた。

「前見せた時、こっ酷く言われたから、今度こそって思ったんだよね」

 僕のあの何気ない一言が彼女にそこまで響いていたのかと思うと、何だか申し訳なくなってきた。


 急にAdoの『レディメイド』が流れた。

「ちょっとごめんね」

 あの時の記憶が蘇る。マネージャーのような人からの電話なのだろうか? またペコペコと頭を下げるのか。僕は小説に目を落としながら、聞き耳を立てた。

「桐谷さん。ご無沙汰してます――」

 やっぱり事務所からの電話のようだった。前の電話もこの桐谷って人からだったのだろうか。また唄は、わかりました。迷惑かけてごめんなさい。もっと頑張ります。と言い続けていた。どんな言葉を言われているのだろう。唄は頑張っている。きっと僕が知っているのは彼女の努力のほんの一端なのだろう。それでも唄にそこまで言う桐谷という人を殴って、一言言ってやりたい気持ちになった。


「新くん、ごめんね」

 数分の電話だった。唄は作り笑いでこっちを見てきた。とても不快でやめてほしいと心底思った。

「その人事務所の人でしょ?」

「よく分かったね。桐谷さんって言って、マネージャーみたいな人だよ。もうそろそろ四曲目の完成品が聞きたいって」

「この間、出したばっかじゃないか」

「ファンを定着させたいなら今が踏ん張りどきだって。だからここ最近ずっと急かしの電話が来るんだ⋯⋯」

 そして、短いスパンでまた無理に作り笑いを見せてきた。

「⋯⋯そんなの関係ないだろ」

「関係あるよ。仕事ってそういうもんでしょ?」

 前とは立場が逆転しているような言い草だった。プロ意識が欠けていると思っていたあの時とは逆で、唄はどこかよくない成長をしていたような気がした。


「じゃあ、そんな仕事やめちゃえよ」


 口が滑った。言った後に思った、これは悪手だ。

「新くん⋯⋯」

「ごめ――」

 謝ろうとしたけど、言葉が詰まった。その隙に唄が首を横に振った。

「うんうん、いいの。でも辞めるわけにはいかないんだ。約束だから」

 唄は目から涙が出るのを必死に抑えているように見えた。僕は頑張っている彼女に最低なことを言った。それでも彼女は僕に怒らなかった。耐えられなかった。やってしまった。僕のかけるべき言葉は絶対にそれじゃなかった。

「新くんが私のこと気にかけてくれてるの分かってるから、そんな顔しないで?」

 唄はそんなことを僕に言った。今、僕はどんな顔をしているのだろうか。泣きそうな唄にそれを言わせるのは違うはずなのに。

 僕は何一つ言葉を出せなかった。なんて言えばいいんだろう。どう切り返せばこの状況を抜けられるんだろう。僕は唄にこんな思いをさせたかったわけじゃない。ついこの間、唄のことをもっと知りたいって思った。でもやり方がわからない。今までサボってきた分が今になって僕の足を引っ張ってきていた。やっぱり、人と話すのは下手くそで、うまく言葉にできなかった。決めてから数日でこんなにも苦しくなるものなのか。逃げて今まで通り閉ざして、楽な方へ逃げてしまいたい。

 僕の弱い部分がどんどん大きくなっているのが分かった。

「新くん、今日は帰るね。やらなくちゃいけないこともたくさんあるし」

 唄は、机に出していたノートやら筆箱やらを乱雑にバッグに押し入れ、生徒会室を足早に出て行ってしまった――。


 唄がいない生徒会室は静かで、心地いいというよりかは空っぽに近かった。今までならこういう空間にいながら外を眺めたりして、気持ちよく黄昏ていたはずなのに。今は虚しさでいっぱいになっていて、そばに誰かいてほしいとか、か弱い乙女のような気持ちになってしまっている。

 サッカー部の掛け声が中まで聞こえてきた。前ならうるさいとしか思わなかったのに、楽しそうに聞こえた。一生懸命部活に取り組むその声が羨ましく聞こえた。僕には何もない。本当に何もない。性格も見た目も運動も勉強も何もかもがない。それに何も本気で取り組んですらいない。

「だっさ」

 口から溢れた。自然と笑いも込み上げてきた――。


「何してんだ」

 ドアの前に先生が立っていた。高笑いする僕を見て、引いただろうか。

「先生はリア充好きですか?」

「今は大嫌いだ」

「入らないんですか?」

「入ろうと思ったら、一人で高笑いしている新がいて寒気がしたんだよ」

「⋯⋯それはすみません」

 先生は中に入って隣に座ってきた。

「何で横に座るんですか」

「寂しそうに見えたからな」

「いい女アピールですか?」

「生憎だけど、そんなことをする相手はもういない」

 何だよ、もうって。

「リア充はできる時にしておかないと後悔するぞ?」

「僕は別にいいですよ」

「新、変わったよ。何で私が新にこんなに話しかけてたかわかるか?」

「揶揄ってるんですか?」

「大真面目だよ」

 少し考えて、初めて話しかけられた時のことを思い出してみたけどわからなかった。

「僕みたいな気が弱そうで逆らわなさそうな人を手駒にとれば、色々楽だからですか?」

「捻くれてるなぁ。⋯⋯寂しそうだったからだよ。ずっと寂しそうで、構って欲しそうなオーラ出してたから」

「そんなわけないじゃないですか」

「何となくそう思ったんだよ。なのに人を惹きつけないようなオーラ放ってて、意味わからないしな」

 何言ってるのかさっぱりわからない。

「要するに私は教師として、新のことを気にかけていただけだよ」

「先生がそれっぽいこと言ってるの、なんか面白いですね」

「高校教師になった動機は不純だけど、私だってそれなりに考えて、教師やってるんだぞ」

「何で高校教師になったんですか?」

「知りたいか?」

「いや、別に」

「ま、教えないけどね」

「どうでもいいですよ」


 その日の夜、唄からのコールは来なかった。僕はLINEで、 新〉大丈夫? と送信した。 

 返信が来たのは数時間後だった。

唄〉今日電話できない。なんかそっけない対応しちゃったよね⋯⋯。大丈夫だから心配しないで!

新〉分かった

 僕はこのLINEに既読がつくのを待った。朝まで既読がつかなくて、既読がついたと思ったらもう朝で、唄からの返信はなかった。

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