第七話 今日は、最高で最低の日。
終電に滑り込んだ。帰りのことなんて一切考えずに、寝間着のまま飛び出してしまった。学校の最寄り駅に着いてからも全速で走った。久しぶりにちゃんと息を切らした。こんなに走ることが辛いとは思わなかった。
すぐに弱音を吐いて、止まろうとする足を鼓舞して走り続けた。門を攀じ登って、警備員のことなんて考えずに走った。途中階段で足がもつれて、転けそうになった。生徒会室は四階で、なんでよりによって最上階なんだと嫌気が刺した。
生徒会室のドアもそのままの勢いで開けた。
「遅いよ」
真っ暗な生徒会室に唄がいた。雲で霞む月明かりが生徒会室の唯一の明かりとなっていた。外を見ていたのか。振り向いた彼女は泣いていた。ただ一滴、頬を伝って、床に溢れた。
「遅れてごめん」
僕は唄が何で泣いているのかわからなかった。でも、初めて唄の泣く顔を見た。
「待ちくたびれちゃった」
唄は頬を軽く指でなぞった。
「来てくれると思ってた」
「僕は……そんなんじゃない」
違う。僕は先生から電話がなかったら来ていなかった。唄の期待も全ては理想の僕に対してで、本当の僕は唄の期待には何一つ応えられていない。
唄の顔から目を逸らした。
「急に電話しなくなってごめんね」
言葉が出ない。言いたいことも何も考えていなくて、言葉に詰まる。何か思ったことをそのまま出そう。
「⋯⋯僕は唄と電話がしたかった」
「じゃあ電話かけてくれればよかったのに」
でも、君に切られたから。なんて言えなかった。
「……ごめん」
夏休み、僕の知らない間に唄に何があったんだろう。さっきの一滴の涙がそこに詰まっているような気がして、僕はやっぱり逃げた夏休みを後悔した。
「新くん。こっちに来て?」
唄の優しい声を聞いて、窓辺にいる彼女の元へゆっくり歩いた。
「ほら、仲直り」
小さく細い手を差し出してきた。
「私も言葉が足りなかった。新くんも約束に遅れてきた。ほら、仲直り」
やっぱり唄はいつでも優しい。こんな僕に手を差し伸べてくれた。彼女の足りなかった言葉ってなんだ。僕はそもそも約束を守れていない。副会長として支えることすらままなっていなかった。何も解決していない。モヤモヤは何一つ取れなかった。でも形だけで、彼女の手を取った。顔を上げると、さっきの静かに泣いていた唄は顔の上から一枚何かを重ねたように笑っていた。
今はそれでもいい。でもいつか君のその皮を剥いであげたいと思った。無理して取り繕うその皮を僕の手で――。
「ねえ、何でいつも小説を呼んでいるの?」
二人で生徒会室のソファから、離れたところにある窓を眺めていた。月を見ながら唄が聞いてきた。もうシンデレラの魔法は解けていて、夢のように感じていた光景も段々現実と重なって、僕らの気持ちもすっかり落ち着いていた。
「現実逃避だよ」
「何でそんなことするの?」
「向き合いたくないから。現実は残酷で、人の命は儚いって知ってるから」
「時々、何考えてるかわかんないよ、新くん」
「それはお互い様だよ」
僕も唄がよく分からない、だからお互い様だ。
「僕、兄を小学生のころ亡くしてるんだよね。この間も友達の妹が亡くなったんだ」
「そうだったんだ」
「だから、人間の脆さを誰よりも知っている自信がある。そんな現実と向き合いたくない⋯⋯んだと思う」
正直、自分でも途中から何言っているのかわからなかった。それでも唄は僕の意味不明な日本語の羅列を真剣に聞いてくれた。逃げているような気はしなかった。やっぱり気持ちが軽くなった。
僕は逃げたんだ。
「なんか歌おうか?」
収拾が付かなくなる思考に歯止めを効かせたのは、唄のその一言だった。僕は少し考えた。
「ギラギラ歌ってよ」
そして出た答えがこれだった。
Adoの『ギラギラ』。唄と同じ女子高生シンガーの曲だった。ただ唄とは違って、声にはパンチがあって、強いビートも入っていたり、唄には似つかわしくなかった。それでもギラギラを歌って欲しかった。
「……いいよ。ちょっと待ってて」
少し戸惑いつつも、歌ってくれることになった。あまりAdoの曲を頼まれることもなかったんだと思う。
「ジャーン!」
少ししてから、唄はペンダントを首から掛けて、ギターを持った状態で僕の前に出てきた。両手を大きく広げて、嬉しそうにこっちを見てきた。
「どうしたんだよ、そのギター」
「軽音部の部室から持ってきた」
「そのペンダントつけるんだな」
「つけたほうが歌いやすいんだよね」
いつも電波を挟んでしか見たことのなかったUSがそこにはいた。ちゃんと顔があって、その顔はちゃんと唄だった。僕は唖然として唄を見ていた。
「ちょっと照れるかな」
見続ける僕に唄は顔をほんのり赤く染めた。
「ギラギラなら本当はドラムの方がいいんだろうけどピアノとギターしかできないからさ」
「いいよ。僕は唄のが聞きたいんだ」
「何それ」
前に立つ唄を後ろから月明かりが照らしていて、とても美しかった。そんな唄はすぐに視界から消えて、僕の隣に座った。唄はチューニングを始めて、一分もしないうちに終わった。
「こっち向かないでね」
「前で歌ってくれないの?」
「嫌だよ、恥ずかしい」
「プロでそんなこと言ってんの、唄だけだと思うよ」
「関係ないってば」
唄は喉を唸らせて、弦を弾いた。
「あーもう本当になんて――」
歌い出しで思った。唄の声でギラギラを歌うにはあまりにインパクトが足りない。それでも綺麗で、ギターの弾く音すら細やかで、のめり込みそうな声はやっぱりUSなんだと感じた。
時々、この曲がプレイリストから流れる。最初、皮肉のように世界は素晴らしいと言い出す。神様がいるとしたら残酷だ。この曲に出てくる女性は酷く現実に絶望していたんだと思う。なのに現実に目を向けて、抗おうとする。自分らしく、他に惑わされず。最後には全てを含めて、世界を素晴らしいと心から言っているように感じた。
曲に意味を求めるのは間違っているのかもしれない。この曲は独特なラブソングだと思う。それ以上何があるのかは作詞した本人か本人から聞いた歌い手ぐらいしか知らないと思う。それでも僕はこの曲の真意を知りたくて、共通点は高校生シンガーというところしかない唄に頼んだんだと思う。飽くまで僕の勝手な思い込みや、この曲に僕の理想を押し付けているだけだとしても、知りたかった。
「――なんて素晴らしき世界だ! ギラついてこう」
結局、何もわからなかった。ただ、唄はそこにいて、今を生きて、そこで歌っているという事実だけがあって、僕はそれを聞いて満たされていた。
歌い終わった後の唄は表現しづらい、初めて見た表情をしていた。
もっと唄のことを知って、唄と上辺じゃなくて、特別な関係になりたい。付き合うとか親友とか簡単に表せる関係性じゃなくても、どんなに歪なものでも。僕はそう思った。
「また前みたいに歌ってほしい」
胸がはち切れそうなほど、心臓が大きく鼓動していた。グーっと血が昇るのを抑えて、意識を保った。この感覚は告白するときのものに近いんだろうか。告白なんてしたことがないけど、そんな気がした。僕にとっては「付き合ってください」と同じくらいの重みをこの言葉に感じた。
「うん」
唄は顔を赤くして返事をしてくれた。
それから寝ずに、電話の時と変わらないように話した。話さなかった夏休みを取り戻すように、たくさん話した。
「私、お姉ちゃんみたいな叔母さんがいるんだけど、その人が死んだら嫌だもん」
「大切な人?」
「うん。私の人生で欠かせない人だよ。他に三人、大切な人がいるよ」
悪戯っぽく笑って、僕の頬に指を当てた。
「一人は新くんかもね?」
「いいよ、そういうのは」
その指を退かすように顔を左右へ振った。
「でも、私の人生には欠かせないよ。家族以外で欠かせないのは新くんとあの人だけだから」
「そうなんだ」
深追いはしなかった。あの人が誰かなんてどうでもいい。濁した理由は聞かれたくなかったからだろう。僕は勝手にそう解釈した。話したい時に話してもらえればいい。話すに値する人間に僕がなれるかはわからないけど、全てを話してくれた時には受け止めて、ただ優しく聞いてあげたい。そう思った。
他にも本当に他愛もない話を眠くなるまで。結局、眠くはならなかったから朝までオールした。僕と唄は日が昇ってから帰った。唄を家の目の前まで送り届けた。意外にも僕の家と唄の家は近くて、自転車で五分もしない位置にあった。その後、先生に電話して、唄は大丈夫だと連絡をした。先生は寝てないのか、ガラガラの声で、でも少し嬉しそうに「ありがとな」と言ってきた。
僕の夏休みは何もないようで、時々忙しなく心が狂って、踊って、辛くなった。新一が死んだあの時から止まっていた僕の時間は、この夏休みで少しずつ動き出したような気がした。
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