第三章

第十四話 嫌なことはすぐに来る、そういう時ほど時間が経つのは遅い。

 寝ずに石川の待つサイゼに行った。告白の結果はLINEの調子を見るに成功したのだろう。中に入ると、時間がまだ九時ぐらいだからか、客は全然いなかった。石川が奥の席で手を振るのが見えたからそっちに向かうと、後ろ姿の雫が見えた気がして、目を擦るとやっぱりいなかった。席はあの時と同じで、それに反応するように僕の心がズキズキと痛んだ。この感覚は新一が死んでからも二年間くらいはあった。でもその時のことなんてほとんど覚えていない。ポッカリと穴が空いたように、記憶がない。でもこの感覚だけは覚えていた。


「おい、大丈夫か?」

 目の前には石川がいて、僕はなぜか石川の顔に安心していた。

「やっぱりオレンジか」

 石川は先にドリンクバーでオレンジを入れていて、それを顔色ひとつ変えずに口に含んだ。

「キーからいい返事もらえたよ」

 知ってるよ。顔を見ればそんなの一目瞭然だし、もし振られていたら石川は僕をこんなところに呼んでないと思う。

 僕は無表情で水を飲んだ。

「新も恋してるだろ?」

 恋してるっていう言葉が面白かった。今時そんな言葉遣いする人は中々いないだろうし、男子高校生がそれを言っているのが、なお面白い。

「恋してるって言い方やめて」

「でも好きな人はいるんだろ?」

 否定できなかった。あんなことを言っておいて、いないなんて言えない。

「白砂さんだろ? 告白はいつする気なんだ?」

「しないよ」

「本当かね。いつか、したくなる時がくるぞ?」

 そんな時来ない。今の関係がいい。ただ壊すのが怖いだけというわけじゃなくて、本当にこのちょうどいい距離感がいい。僕はこれだけ親しくなれればいい。本当にいい。

「そんなことより、いつから榊原のことそう思ってたんだよ」

 これ以上掘られるのは気分も良くないから、僕は話題を逸らした。

「あー、一年の時に助けてもらってから、俺の勝手な一目惚れだよ」

 

 *


 俺が一年の時、体育終わりに自販機に寄った。ただ喉が渇いていて、水を買っただけなのに。

「おい、俺たちのこと抜かすとはいい度胸じゃねえか」

「いや、いなかっただろ」

 目の前にはいつの間にか、一回りも二回りもでかい高三の先輩がいて、俺の胸ぐらを掴んできた。

「おい、離せよ」

「敬語も使えねえのか」

 それは確かに俺が悪い。だが、謝らない。

「いなかったくせに難癖つけてきやがって」

「じゃあ、今ある有金全部よこせや」

 三年は元々これが目的だったんだろう。その証拠に会話にすらなっていなかった。でも体育終わりで水を買うお金しか持っていなかったから、俺は何も出すことができず、あはは、と笑うと、刺激してしまったらしく、一発殴られた。それからリンチされそうになった時、助けてくれた。

「おい、やめろよ。寄ってたかって先輩がダサいことすんな」

 声がした方を見ると、キーがいて、めっちゃ格好良かった。

「あはは、女が来たぞ!」

 でもキーは空手か柔道かは知らないけど、綺麗に男を薙ぎ倒して、俺に手を差し伸べてくれた。それで俺が勝手に一目惚れしたんだよ。



「漫画じゃん」

「そうそう」

 石川は懐かしそうに、それはもう恋する乙女のように輝かせて話した。

「俺のことはいいんだよ。新がもし、白砂さん関係で何かあったら協力するから頼れよ!」

「はいはい」

 もし、本当にもし、この気持ちが抑えられなくなって、付き合うという経過を僕が欲したとしても、やっぱり僕は告白はしないと思う。


 1


「じゃあ俺一番な!」

「だったら俺アンカー走るわ」

 文化祭が終わって、来週には体育祭を控えていた。次のイベントに備えてクラス対抗リレーの走順を話し合っていた。クラス対抗リレーは男女関係なく全員参加の競技のため一応耳を傾ける。勝とうが負けようがどっちだっていい。何事もなく平凡に時が過ぎてくれれば。

「じゃあ、逆にアンカーじゃないとこで差をつけるとか?」

 次の体育の時間は隣で四組女子がバレーボールをやる。僕たちがやるバスケは上手い人が勝手に走って勝手に決めてくれるから、ボーッとしていると勝手に目が唄を追ってしまう。だからそれを気をつけなければいけない。文化祭のシンデレラで榊原に代役の練習を頼んでいたのが功を奏して、唄の代わりとして出たらうまく行ったみたいだった。そうしたら僕の行動が陽キャたちの耳に入ったそうで、変に絡まれ始めた。それで休み時間、体育終わりの唄を眺めていると「何、黄昏てんだよ、新くん!」などと馴れ馴れしく腕を肩に回して話しかけてくる。本当にうざいし、やめてほしかった。触られる度に陽キャたちのうるさい情緒が僕に触れてくるのを感じて、それが嫌だった。

「じゃあ誰にするか」

 でもやっぱり最近は唄が目に入ってきてしょうがなくて、廊下とかで会うたびに笑ってくれるし、手を振ってくれる。それが途轍もなく嬉しく感じている自分がいた。その行動は前からあったのに、あれ以来自分が浮ついているのが明らかにわかる。

「じゃあ新は?」

 石川の声は妙に僕の耳を綺麗に通過した。それで、「え?」と、教室に響き渡る声を漏らしてしまった。その声に陽キャ二号が「今日は元気じゃんか」と言った。教室は笑いに包まれた。石川のせいで僕はこのクラスから注目された。「それいいじゃん」陽キャ三号の合いの手で拍手が巻き起こった。

「じゃあアンカー決定!」

 僕の「やらない」という声はクラスの雰囲気に飲み込まれ、黒板のアンカーの文字の下に僕の名前が刻まれた。

 石川を全力で睨んだが、石川はいやらしい笑みで返してきた。石川が何を考えているかわからないけど、本当に最悪だ。


 生徒会室に入ると、やっぱり唄がいた。

「こんにちは」

「うん」

 生徒会室内での関係も過ごし方も特に変わっていなくて、

「アンカー走ることになった」

 こういったしょうもない報告も適当に挟んでいた。

「え? 新くんが?」

 唄のペンが止まった。それで僕の小説を取り出す手も止まった。顔を前へ向けると、唖然とする唄の姿があって、「え、なに?」と聞くと、

「新くんそういうことするんだ、と思って」

 唄は一人歩きをしていた魂を体に戻したかのようにビクッと動いて、その失礼な反応の説明をした。

「僕も驚いてるよ。高校二年はこれのせいで、僕にとって忘れられない年になりそうだよ」

 生徒会に入って、USと知り合いになって、体育祭のメインイベントでアンカーを務める。僕の平凡な人生の中で唯一の花がついた年になることだろうな。でも、飽くまで上手くいけばの話で、忘れられない年になる理由は転けるとか一位からビリとか、そういった悪い意味で忘れられない年になる気がしていた。

「⋯⋯実は、私もアンカーなんだ」

 次は僕の動きが止まった。「え、なに?」と、唄は悪戯っぽく言ってきて、

「いや、女子でアンカーは流石に驚いたというか、何というか」

「私だってやりたくなかったよ。でも男子は最初に差をつけたいからって、みんな序盤で走っちゃうから、女子で一番早い私がアンカーを走るしかなかったんだよね」

 まるで満更でもない顔で言っていた。運動が得意なのは知っていたし、当然足も速いんだろう。

「本番、負けないからね」

 唄は僕に笑って、そう言ってきた。

「僕も負けない」

 意地でもないけど、とりあえずそういった。


 2


 すぐに体育祭当日になった。僕と唄はみんなとは離れた位置の席で、おじさんや先生たちと同じ列に座っていた。各役員とかPTAとか何とか。

 その年のスローガンを言うのは毎回生徒会長のようで、それだけを言いに、唄が壇上へ登った。唄は凛としてそこに立った。

「今年のスローガンは『粉骨砕身』当たって砕けろ! でも、怪我するな! です。みなさん、今日一日頑張ってください」

 体育祭実行委員が決めたスローガン。なんか運動部の脳筋が決めそうなこんな日に適しているスローガンだと思う。唄が言っても正直インパクトに欠ける気がした。でも校庭に並んでいる生徒たちはその一言を機に大盛り上がりして、先生も大変そうに落ち着かせる。

「お疲れ」

 生徒たちに火をつけた張本人は隣の席にスッと座った。唄はその生徒たちの様子を眺めてフッと笑って「楽しもうね」と僕にも微笑んだ。

 体育祭を楽しいと思ったことはないけれど、もしもアンカーで、一位でも取れたら楽しかったって言えるのかもしれない。そんな夢物語を勝手に想像して、逆に気が重くなった。

 時間に余裕はないようで、すぐに最初の学年別一〇〇メートル走が始まった。

「見てよ」

 唄が指差した先には坊主の野球部がぶっちぎりで駆け抜けていた。

「すごいね」

 目眩く走る人は変わって、一グループが走るたびに校庭は歓声に包まれた。唄はこの状況本気で楽しんでいた。

 何で僕はこんなに落ち着いてるんだろう。楽しくないわけじゃないけれど、何でか、この激昂の渦についていけない。

「新くん、なんか肝座ってるね」

 その言葉は中々に傷ついた。最初の種目が終わって、唄も落ち着いたのか椅子に座り直した。

「唄は楽しそうだね」

「もちろん!」

 まだ何も出ていないのに前髪から垣間見える額には汗が光っていた。

「唄は何に出るの?」

「私は台風の目と障害物走とリレーだよ」

「いっぱいでるね」

「新くんは?」

「⋯⋯リレー」

 迂闊だった。僕のクラスでの立場と唄のクラスでの立場の差が浮き出た。

「ごめん、わかってた」

 唄は申し訳あるように言った。ただ、いじられただけだ。

「じゃあ、聞かないでよ」


 3

 

「四十分後にまた集合してください」

 先生によるアナウンスで昼食の時間になった。僕が座っている位置は生徒も競技も全部見える位置で、こうしてみていると、テレビでスポーツ観戦しているような感じで、客観的に体育祭を見ることができた。元々テレビとかでアツい場面も静観するタイプだからこれはこれで観戦のような感じでありだ。

 昼は生徒がハメを外しすぎないように監視の役割も兼ねて、生徒会はここを動いちゃいけないんだとか。だから膝の上に弁当を広げた。

「美味しそう」

「いつも通りだよ」

 横目で唄の弁当を見ると、熟練された卵焼きが目に入った。綺麗に折り畳まれた断面にプロのような丁寧さを感じた。

「その、卵焼き琴さんが作ったの?」

「そうそう、ほらあそこ」

 唄の指差した方向には琴さんがいて、琴さんは何やら楽しそうに金髪の女性と話していた。体育祭を見にきた親御さんでごった返すレーン横。琴さんは保護者たちに埋もれてすぐ見えなくなった。

「唄、ご飯食べよ!」

 後ろから高い声がした。振り向くと、唄といつも一緒にいる取り巻きの中の一人がいた。

「生徒会は監視しないといけないから、ごめんね」

 唄はその子に手を合わせて断った。

「いいよ。僕が見てるから食べてきな」

 まさか僕の口からこんな優しい言葉が出ると思わなかった。前なら多分二人のやり取りを眺めているだけだったと思う。

「誰だっけ。でも気が利くじゃん」

 唄の取り巻きが僕にそんなことを言ってきた。一言余計だし、僕を見て自分の方が上だと感じたのか、上から目線な口調だった。

「どうも」

「じゃあ、任せてもいい?」

 唄は申し訳なさそうに言ってくれた。こういうところも好感が持てて、唄以外の女子と関わると唄の良さが際立った。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます!」


 4

 

「ぼっち飯か?」

 後ろから声が聞こえた。米村先生の声だとすぐにわかったから、無視をした。

「唄はどうした?」

 僕は沈黙を貫いて、最後の唐揚げを口に頬張った。

「⋯⋯まあいいや、どうだ? 最近の唄の様子は」

 先生は僕の隣にあった唄の椅子に座った。

「普通ですよ」

 質問の意図がわからなかったから、流すように答えた

「副会長を新にした理由わかったか?」

 この人は何なんだ。⋯⋯正直、今でも僕じゃなかったらもっと上手くやっていた気がする。僕だから唄に負担がかかってるんじゃないかって、思うこともある。それが考えすぎだったとしても唄は変わらず、今みたいに自分を酷使するような選択をしていたと思う。

「⋯⋯僕じゃなくてもよかったと思います」

 そんなこと言いたくなかったけど、見栄を張る必要もなかった。先生の考えていることが僕には全くわからなかった。

「そんな言うなら教えてくださいよ、僕にした理由⋯⋯」

 僕は先生を見つめた。

「US関係のことは新じゃなきゃ知らなかったんだ。そう考えれば新にしなければいけない理由の一つになり得るだろ?」

「それは偶然です。たまたま拾って、たまたまペンダントの持ち主を知っていただけ。別に唄が僕に言いたくて言ったわけじゃないです」

 先生は顔を顰めてから、僕の肩に手を置いた。

「代わりに一つありがたい話をしようか」

 得意げな表情で先生はそう言い出した。

「いや、話逸らさないでください」

 先生の手をどかした。

「偶然の対義語って何か知ってるか?」

「⋯⋯必然ですか?」

「だよな。でも、私は偶然も必然も考え方によると思うんだよ。例えば唄が会長になったのは必然だと思うか?」

「わからないです。でも、偶然ではないと思います」

「私は必然だと思う。じゃあ唄が会長になった理由を知ってるか?」

「知らないです」

「それを知ると知らないとだと、天と地ほどの差がある。何となくなら偶然。理由があればそれは必然。じゃあ新が副会長になったのは必然か、偶然か、どっちだと思う?」

「先生の強制的な力が働いたので、それは必然だと思います」

「でもそれは飽くまで必然のように見えるだけで、私のこの行為に明確な意思がなければただの可能性であって偶然だ」

 この先生特有の言い回しはいつも何もわからない。大事なところは言ってくれない。

「何が言いたいんですか?」

 だから答えを直接聞くように返した。

「要するに何となくでしたことでも、それは偶然のように見えて、少しでも意思がある時点で必然とも言えるんだよ。私がこの学校に来た理由。それは必然だ。もし私に権力があって、ここに異動する理由があったのなら、それも必然だよ。私じゃなくてもいい。この世は思っている以上に必然の連続だ。社長も投資家もユーチューバーも儲けている人は必然だ。偶然なんかじゃない。ちゃんと理由はある。新は自分の頭で考えて、その必然を探すんだ」

 先生の言いたいことが目の前にあって、掴もうとするけど掴めなくて、その真意は近いようで、遥か遠くにある気がした。先生の言いたいことは何となく概念的なもので核を全く教えてくれない。

「それでちゃんと答えがわかったら、その時に答え合わせをしよう」

 先生は意味深な言葉を発してから立ち上がって、僕の前から去っていった。不十分すぎる話の内容に深いようで結局は僕任せなんだ。先生の歩く後ろ姿を見ていると、この後に迎えるリレーを思い出した。憂鬱で仕方がなくて、先生に対する不満はそれですぐに掻き消された。


 5


「新、頑張れよ!」

 背中を軽く叩かれた。石川はその後軽くさすって、緊張を解こうとしてくれているのを感じた。

 僕は靴紐と鉢巻きを心を締める気持ちで固く結んだ。決して転けず、最悪順位維持。というか、それが限界だと思う。抜かすのは無理だからせめてそれだけ。固唾を飲んで、息を大きく吐いた。

 その瞬間、スターターピストルの合図で一斉に六人が走り始めた。

 女子の甲高い声援と、男子のドスの効いた圧力で走者はどんどんスピードを上げていく。クラス全員で走るリレーということもあって、バトン渡しはそんなに上手くいかないものの、高校生という運動神経が人生の中でトップに達する時期、皆の足の回転は速かった。どんどんバトンは繋がって、自分の番が近づいてくる。心臓の鼓動が大きくなるのを感じて、呼吸が激しくなった。クラス全員の気持ちを背負っている気がして、ミスは許されないこの状況に体が恐怖を覚え始めていた。震える足をギュッと掴んで、深呼吸をする。深呼吸をする自分が焦りを隠そうとしていることに気づいて、余計に緊張が心を埋め尽くそうとしてきた。逃げ出したい。僕の役目じゃない。僕はこんな事をするほどできた人間じゃない。ネガティブなオーラが僕を包んでいく。明るい未来が想像できなかった。


 苦しい。


「新くん、頑張ろうね」


 その言葉だけが僕の耳を通って、頭にしっかり届いた。右を見ると僕と同じく屈んでいる唄がいた。唄が掛けている赤い襷。僕の体には青い襷。同じものを背負っているはずなのに、唄は笑顔だった。その顔を見ると、不安は少し取り除かれて、その余白に、楽しもう。という気持ちが割り込んできた。

「もうすぐだよ」

 唄は後ろを振り向いて、指を差した。僕の前の陸上部女子が丁度バトンをもらっていた。そしてすぐレーンに並ばされた。二番手でもらっていたクラスの女子はぐんぐんとスピードを上げ、トップに躍り出た。それと同時にインコースに立ち位置を変えた。僕以外は見た目から速そうで、丸刈りの野球部や、黒く焼けたサッカー部、陸上男子。まともに走ったら絶対に勝てない相手だった。でも幸いにも他クラスとは差が開いている。もしかしたら勝てるかもしれない。竦む肩を上げ下げして、硬くなる体をなるべく解した。手を後ろに引いた。切羽詰まった緊張感を背中で感じて、僕は走り始めた。

「齋藤! 行け!」

 その言葉と同時に手にバトンが当たった。押しつけられたバトンをグッと掴んで、全力で足を回した。後ろから迫ってくる運動部。もうそこまできているかもしれない。後ろを振り返ったらおしまいだ。とにかく腕を振って、地面を蹴って、前に進むことだけを考えた。そのことに夢中で周りなんて一切見えなかった。コーナーを曲がり終えて、あとは直線。そう思った時、綺麗な横顔が横目にチラついた。汗がアクセサリーのように反射して見えた。僕が最後見たままの順位なら二番手でバトンをもらっていたのだろう。少し見えたその顔を振り払うように、一つスピードを上げた。呼吸なんてしていないと思う。前にゴールテープが見えた。ただがむしゃらにこの渡されたバトンを持って、一位でゴールする。それだけを考えて、僕はそのままそのテープを切った。


 6


「お疲れ様」

 ぼーっとする僕の頬に冷たい感触があった。情けない声を上げて、椅子から立ち上がると両手にペットボトルを持った唄がいた。

 閉会式が終わって、もう日が落ち始めていた。テントや、シートやらの片付けで忙しく人々が動いている。あっという間に体育祭は終わって、リレー後クラスメイトが駆け寄ってきて、てんやわんやだったけれど、それも一時の話だった。そんな一日に黄昏ながら僕は片づけられつつある校庭を眺めていた。

 唄は僕にアクエリアスをくれた。

「ありがと」

 運動後に飲むアクエリアスは塩分を欲している体にちょうどいい美味しさだった。

「新くん、唄」

 少し遠くから暖かい声が聞こえて、そっちを見ると、琴さんがいた。僕は軽く会釈をして唄を見た。唄は斜め下を見て、琴さんを見ようとしない。

「二人ともお疲れ様。リレー良かったわ」

 優しく微笑んで、琴さんはそう言った。

「ありがとうございます」

 何て言えばいいのか分からず、あっているか分からない返答をした。でもそんな僕より唄は気まずそうに反応すら示さない。

 琴さんは唄を見て、苦笑を浮かべた。

「じゃあ、私はもう帰るわね。新くん、唄のことよろしくね」

 琴さんは後ろに振り返って帰った。

 琴さんが見えなくなるまで、僕はその悲しげな背中を見続けた。

「唄、僕は何があったのかよく知らないけど、家族は大事にしなね」

 返事はなかった。今、唄がどんな顔をしているのかは分からない。僕からしたら家族と呼べる人がいるだけでいいなって思う。僕の知らない家族というものは、いつも一緒にいるからこそ上手くいかないことや、ありがたさよりもしんどいことがあるのだと思う。でも僕はそれすらも味わえない。家族という掛け替えのない存在にそんな態度は取らないでほしい。

 もし、死んでしまったら感謝の言葉なんて絶対に届かない。後悔はしてからじゃ遅い。唄には僕のような経験をしてほしくなかった。だから、琴さんを大切にしてあげて欲しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る