第六話 何気ない約束、その日を噛み締めて。
新一は小学校の教師をしていた。二年しかできなかったけれど、天職だったと思う。よく家に帰ってきてから子供たちの話を聞かされた。でも、それは僕の年頃にはあまり気持ちの良いものではなかった。甘えたかったんだと思う。独り占めしたかったんだと思う。親がいない僕はどうやって、その穴を埋めれば良かったのだろうか。週に一回くらい我慢できなくて泣きそうになると、新一は「いつも我慢してくれてありがとう」と言ってきた。どちらかと言うと謝って欲しかった。ごめんの言い換えはありがとう。素敵だけど無理してありがとうと言うのは違う。相手に気を遣わせるだけだ。他人のために新一は死んでしまった。相手を不快にさせないためとか考えてのありがとうは素直にごめんねで良かったと思う。その一つでもっと違った未来が、自分のための未来が開けたかもしれないのに。あの時はそこまで考えていなかったけれど、僕は確かにありがとうという言葉が嫌いだった。
夏休みに入って、こんなどうでもいい考えをたくさん頭に巡らせていた。誰と出かけるわけでもなく、暇な時間が多かったから、余計なことばかり考えてしまう。毎日の唄との電話は相変わらずで、その電話と読書している時だけ、現実逃避できていた気がした。
「そうだ。なんか思い出残そうよ」
唄は突然言ってきた。サードシングル『僕はもう隣にいない』をリリースして、唄は元気を取り戻していた。僕は近くの河川敷で空を見上げながら電話をしていた。夏の空は何故か他の季節より遥かに綺麗に見えた。これもまた現実味がなくて、僕は好きだった。
「何だよ、思い出って」
「夏休み中、生徒会室忍び込もうよ」
唄は突拍子もないことを言い出した。
「嫌だよ」
「大丈夫、うちの学校警備緩いし、バレないよ」
たまにこういう生徒会長らしからぬ言動がある。無邪気な子供のように唄は提案した。だから僕は冷静に切り返した。
「そうじゃなくて、唄は生徒会長だから」
「まあそうだけどさ……」
彼女の声はどんどん小さくなっていき、期待していたのか明らかにしょんぼりしているようだった。
「⋯⋯いいよ」
「やった! じゃあ八月二八日どう?」
そのテンションの抑揚は僕が折れるのを予期していたように感じて、上手く乗せられたんだと後から気づいた。
「大丈夫」
このままでいいのか。この約束でまた仲が縮まる気がして、怖かった。
「じゃあ、その日の二二時に門の前に集合ね!」
「うん」
変な間があって、唄が何かを言おうとしているのを察した。
「私、本当は生徒会長なんて器じゃないんだよね」
「何だよ、急に」
「さっきみたいにはっちゃけたいなってよく思うし、なんかこう、他の生徒会長はもっとお淑やかで、素で生徒会長をこなしてるんじゃないかなって」
「僕は唄じゃなかったら副会長なんてごめんだけどね」
普通の副会長はもっと忙しいだろうし、重い仕事もたくさん回されると思う。でも唄は自分でやってくれるから、僕の場合は唄でよかった。
「何それ。でも、ありがと」
「あ、ああ、うん」
今日の電話はそれを最後に途切れた。最近はこのビジートーンを聞くと、堪らなく悲しくなる自分がいて、一日の終わりを感じた。
夏休みに入って、楽しみがこれだけのような気がして、それが終わると何故か心がざわついた。その気持ちを紛らわせるように本を読み漁った。
今日は『右腕を失った君』というタイトルの本を手に取った。この本を買う時、タイトルからストーリーを想像して買った。恋人に右手が無くて、でもそれを関係ないって言って、壁を乗り越えていくんだろう。そんな輝いた物語を想像していた。
読んだら予想を大きく外してきた。大学に通う直人がとある女子とサークルで出逢って恋に落ちる、という何の捻りもないものだった。少し気落ちしながら読み進めていった。小説に元々期待などしていないのだから、気落ちと言っても軽くため息を吐くくらいのものだった。直人と彼女は喧嘩をしたり、彼女が他の女子から調子に乗ってると、理不尽ないじめを受け始めたり、それで辛くなって大学を中退して、親からも産まなきゃ良かったと成人になってから言われる。直人はその女性と全てを捨てて、駆け落ちを決意した。自分の親にも何も言わず、金もないのに出ていって、電車を待っていると酔っ払いが彼女にぶつかり、彼女はホームから落ちた。直人は自ら降りて、彼女を上へあげようとした。電車は迫ってきていて、焦りから上手く登れない。彼女は自分を上げてくれた直人に手を伸ばした。そして直人と彼女の右手は電車に轢かれた。
何だこれ。
そう思った理由は明らかにタイトルと中身の違和感からだった。死んだのは自分でタイトルは右腕を失った君。この主人公は人のために色々したから、いいやつなのだろう。それで彼女のことを思って、『右腕を失った君』なのだろう。それはわかる。でも全てを失った自分より、右腕だけを失った彼女をタイトルにするなんて馬鹿馬鹿しい。まるで兄みたいで僕にはやっぱりその気持ちというか、真意というのがわからなかった。
「新くんから電話なんて珍しいね」
僕はすぐに唄に電話をかけていた。自分でも無意識だった。
「唄は死なないよな?」
自分でも意味がわからなかった。唄なんかもっと理解できなかったと思う。
「……何で私にそれを聞くの?」
当然の反応だった。
「わからない。でも唄みたいな人は他人のために命を投げちゃうような気がして……」
新一と唄は違う。当然、この主人公と唄も違う。違う他人のはずなのにどこかそれを感じている自分がいた。でもそれを本人に言ったのは自分でも馬鹿だと思う。
「新くん優しいよね。私、新くんみたいになれないよ」
そこで電話は切れた。彼女の言葉は冷たく、察してほしいという要素が多すぎるように感じて、結局、何もわからなかった。僕の言っていることも、唄の言っていることも一人歩きしている気がした。彼女の中で僕はどう映っていたんだろう。僕は彼女をどう思っていたんだろうか。僕は手に持っていた本を壁に投げつけた。
何してんだろ。
所々ページは折れ曲がってしまった。初めて小説を捨てた。この本には何の罪もないけど、僕との相性が悪すぎた。ただそれだけ。あとで隣の部屋のお兄さんに謝りに行った。部屋の壁はそこまで厚くないから、さっきの本の音で迷惑をかけてしまったと思った。案の定優しく「大丈夫だよ」と言ってくれた。なんなら怒って欲しかった。激怒して欲しかった。こんなダメダメな僕を叱って欲しかった。
そしたらどこかスッキリしたかもしれない。
僕の踏み外した道を修正してくれる人はどこにもいない。
だから、代わりを誰かにして欲しかったのかもしれない。
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