・碧希 拓海SIDE

「……」

「何してるんだ? 早く入れよ」

 学校で俺に詰め寄ったあの勢いはどこかに霧散したのか、借りてきた猫の様に大人しくなった頼慈に向かって、俺はそう言った。

「でも……」

「でもも何も、お前が話を聞きたいって、付き合えって言ったんだろうが」

 俯く頼慈に、俺は溜息を付く。しつこい彼女に根負けし、俺は何故頼慈と一緒にSWOWをプレイしないのか、話す事にしたのだ。だがその理由は、俺自身あまり大々的に公言したいものではない。そこで、俺の家でならその理由を話すと頼慈に話し、彼女もそれを了承したのだが。

「……でも、碧希くん、一人暮らしなのよね」

「……それも説明しただろ?」

 一瞬だけ顔を上げた頼慈だったが、俺の問いかけには、顔を俯かせる以外で反応を寄こさない。嘆息しながら、俺は開けっ放しにしていたドアを通過する。頼慈が気にしていた通り、俺は高校生でありながら、一人暮らしをしている。それはこの時代であってもあまり一般的ではなく、つまり他のマンションの住人からは多少なりとも、ある種違った人間として俺は見られていた。

 簡単に言うと、浮いているのだ。それが何だと思わなくもないが、だからと言ってむやみやたらにそのポジションを俺は誇示したいわけではない。異物は取り除きたいと思うのが人間の心情であり、そして俺は自ら進んで弾き出される様な異物となるような、厄介ごとに巻き込まれたいと思うような冒険精神を持ち合わせてはいなかった。

 何が言いたいのかというと、頼慈を俺の家の前で長時間待たせているというのは、俺が好まない部類の状況に陥る、という事だ。

 頼慈は、はっきり言って魅力的な少女だ。そんな少女が、ある日突然一人暮らしの男の家の前で、しかも俯いて長時間立ちっぱなしでいたら、どう考えても人目を引く。引くだけならいいが、それが色恋沙汰のトラブルと思われたり、俺が頼慈を売春に斡旋しているというような噂話でも立てられたら、本当に目も当てられない。特に後者の噂が立ったら、俺は生き辛さで死にそうになるだろう。

 ならばいっそ突き放して、明日学校で再度頼慈に質問攻めにされた方がまだまし、もっと言うと、ここで彼女に諦めて家に帰って欲しいと思っていたのだが、その期待に反して、頼慈は何と俺の後ろを追ってきた。

 つまり、俺の家の中に入って来たのだ。

「……碧希くん、この家はご両親の仕送りで?」

「いや、自分で生計を立ててるよ」

 意を決したような表情だった頼慈の顔が驚きに彩られた刹那、家の扉が閉じた。その音に一瞬体を震わせた頼慈は、しかし丁寧に靴を揃えて、お邪魔します、と口にする。

 それを横目で見ながら、俺は少し大きめのPCデスクに置いてある、黒塗りの金属で出来た円形の籠に、家の物理鍵を放り投げた。今やホームセキュリティは、REDの論理鍵と従来使用されていた物理鍵の二段認証が、当たり前になっている。

 物理鍵が籠に当たり、軽い金属同士の衝突音が鳴った。その音に合わせた様に、頼慈が俺に問いかける。

「生計を立てるって、どうやって?」

「今は、株とかだな。お前がご執心のSWOWを作ったNETSCの株は順調に伸びているし、相変わらずREDG関連の株価は固い。REDGを快調にプレイするためのサプリを作っている会社の銘柄も、そこまで悪くはないな」

「テクニカルアップジャパンとか、アナブナヴィリオとか?」

「詳しいな」

 俺は少しだけ目を見開いた。

「REDGの普及から、プレイヤー向けに反射神経を向上させるためのサプリ開発は、今やどの製薬会社も力を入れているからな」

「反射神経を向上させ、情報伝達速度を上げるのが目的なのよね。REDGは大量の情報を処理する必要があるから、その処理性能が上がれば、プレイを優位に進めることが出来る。私は、ドーピングみたいであまり好きじゃないけど……」

「仕方ないさ。今も昔も、ゲームで生計を立てる奴はいる。そりゃ出来て数年のテクニカルアップジャパン株式会社も一気に上場企業になるわけさ。一歩出遅れている感はあるが、老舗のアナブナヴィリオ製薬株式会社の株価も堅調だ。もし大暴落するような事件があれば、是非空売りしておきたいと思うね。仮に二千万円全て突っ込んでおけば、二・五倍は儲けられるだろうからな」

 そう言った俺を、頼慈が小首を傾げて見つめる。

「空売り?」

「買う、という概念ならわかりやすいだろ? 普通に物を買う、つまりある値段でそれを仕入れる事だから。例えば百円で買ったものを、百十円で売れば、自分の儲けは十円になる」

 そう言いながら、俺はPCの電源を入れ、デスクの近くにある椅子に座る。リクライニングチェアが小気味い音を立てて、俺の体重を受け止めてくれた。

「空売りは、この逆だ。先に百円である商品を売った事にする。そしてそれを九十円で買い戻すわけだ。これで十円の儲けだな」

 俺の説明を思案気に聞きながら、頼慈は少し迷いながらソファーに腰を下ろす。

「つまり買って売る、というのを、売ってから買う、とするわけ? 高く売るのではなく、安く買う」

「そうそう。そういう感じだ」

「でも碧希くん、何でそんな事を?」

「言っただろ? 生計を立てるためだよ。お前も知っての通り、俺は昔、PCゲームの上位ランカーだった。何か飲むか?」

 話している途中で遅まきながら、来客に何か出さないのは失礼な事なのでは? という思いが突如俺の中に湧き上がり、最後の台詞が俺の口から飛び出した。一人暮らしになってから、誰かを家に上げた経験なんて、それこそ数えるぐらいしかない。異性というのであれば、頼慈が初めてだった。

 お構いなく、という頼慈の言葉を聞き流しながら俺はREDで冷蔵庫の中身を検索。麦茶はあるが、これは俺が自分で沸かしたものだ。後は低脂肪の牛乳パックと、豚の角煮を作るのに使った炭酸水。これらは当然開封済みだ。だが、女の子としては、蓋が開いていないようなものが安心出来るのだろうか? だとすると、未開封のペットボトルは野菜ジュースぐらいしかない。だが、来客に野菜ジュース、しかも青汁ベースを出すのは如何なものだろうか?

 悩んでいる間に、既に俺は冷蔵庫の前に立っていた。悩んだ末、何を飲みたいかは本人に聞くべきだと思い、俺は頼慈に問いかける。

「俺が沸かした麦茶と、開封済みの牛乳、炭酸水。未開封の青汁っぽい野菜ジュースだとすると、何が飲みたい?」

「そ、その選択しだと、普通に麦茶でいいかな」

「普通に……」

 そういうものかと思いつつ、俺は二つのグラスを用意し、麦茶を注ぐ。頼慈の座っているソファーの前にある木製のテーブルにグラスを一つ置き、もう一つはそのまま持ったまま俺はリクライニングチェアに座った。

「で、何の話だったっけ?」

「お金の話よ! 後、碧希くんがPCゲームの上位ランカーだった話っ!」

 本当にそんな話をしていたか? と首を捻ったが、そう言えばどうやって俺が一人暮らしを成り立たせているのか、という話をしていたのだと思い出した。頼慈にお茶を出したところで、少し安心してしまったらしい。

 俺は麦茶を一口飲むと、頼慈に向かって話し始めた。

「頼慈には、俺と梟が幼馴染である事は話してたよな?」

「ええ、そうね」

「俺と梟が児童養護施設の幸せの森で会った、って話は、してないよな?」

「え?」

「つまり、俺は孤児で、独り立ちする必要があった、という事だ。梟はまだ、幸せの森にいるみたいだけどな」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

「待つも何も、言葉通りの意味さ。親が居ない俺が生きていくには、自分で生きていくための金を稼がなきゃならない。そうだろう?」

 狼狽する頼慈を置き去りに、俺は言葉を紡いでいく。

「我ながら、俺は可愛げのないガキでね。どうすれば誰にも自分の弱みを見せずに生きていけるか? って、そんな後ろ向きな事ばかり考えていた。だから、なんの後ろ盾もない俺が生きていくには、子供だって大人と対等に戦える、親や教養のあるなしどころか、純粋な勝ち負けだけで成り立っているフィールドで力を付ける必要があったのさ」

「それが、PCゲーム?」

「そうだ。その時はもうゲーム大会で優勝すればある程度の賞金は出ていたし、プロプレイヤーとして会社やゲームの開発に携われば、インセンティブも貰えたからな」

 それこそ、生活の面倒を見てくれるスポンサーもいた。

 だから俺は、施設では日夜ゲームばかりしていた。名前を売るためにプロプレイヤーが協賛している、もしくはログインしているゲームに片っ端から挑み、負け、そして勝っていった。

 変な話になるが、そういう意味では、施設のPCが型落ちだったのも俺に味方してくれたのかもしれない。そもそも運営が、費用かつかつの児童養護施設で、フルスペックのマシンが手に入るはずがないのだ。だから必然的に、俺はスペックの低いマシンで戦う事を強いられてきた。

 だから、考える癖がついたのだ。

 自分よりより恵まれた環境のプレイヤーと対等に戦うためには、どうすればいいか? 自分に持っていないものを持っている奴らを蹴散らすには、どうすればいいか? という事を。

 環境どころか、生まれで既に俺は負けている。そう思い、俺より上の相手に勝つ方法を常々考えていたからだろうか? 俺の思考は幼少期から、事実と、自らの逆境を跳ね返すにはどうすればいいのか、というそれだけを考えるようになり、ロジカルさが磨かれていった。

「まぐれだろうが何だろうが、結果が微小でも出れば、それが自信に変わる。自信が出来れば、一歩進める。ガキの一歩でも、前に進めるのであれば、子供だろうが大人だろうが関係ない。一歩は一歩だ。だから、一歩進めるなら、歩いていけるなら、一人で生きていけると思った」

「……それが、碧希くんがPCゲームの上位ランカーになった理由?」

「ああ、そうだ。それで俺の自立心が満たされると思って、早くから施設を出たんだ。しかし、まさかREDが出てきて、こうもあっさりとPCゲームが後塵を拝すとは、流石にあの時の俺は読み切れなかったよ」

 自嘲気味の笑みが、零れ落ちる。その笑みは俺にとって自分の人生、まぁ二十年も生きていないが、逆に言えば今の人生の殆どが無駄だったと認める行為だ。だが、認めなければならない。正しい事実認識、そしてその上で戦う意思を持ち、持ち続ける事こそが、人を前に進ませる原動力となるのだから。

「で、REDが流行った後は、俺は自立するために他の手段を考える必要が出てきたわけだ。それが、株だった、という、それだけだよ。他にも為替とかもかじっているけどな。勉強さえすれば、出来ない俺でも戦える可能性が高った。だから選んだ。まぁ、そんな事はどうでもいい」

 そう。今までの話は、あくまで前座だ。頼慈の緊張をほぐすために話した、ただの与太話にしか過ぎない。

 俺が頼慈を自分の家にわざわざ連れてきたのは、俺が頼慈とSWOWをプレイしない理由を告げるためだ。

 逆に言えば――

「お前、何で急に学校であんな事をしたんだ?」

「……あんな事、って?」

「惚けるなよ。今までお前は、俺にSWOWの勧誘をしても、参加の意思は俺に任せてくれていた。だから俺もお前の勧誘を断りながらも、変に言い合いになる事もなく、今までの関係が築けていた。お前が一方的に俺を追い回す、というな」

「……最後の方は、認めなくないのだけれど」

 そう言いながら、頼慈は渡したグラスを一気にあおる。まるでそれが彼女の決意表明だと言わんばかりの、見事な飲みっぷりだった。グラスの麦茶を飲み干した頼慈は、アルコールが一ミリも入っていないにもかかわらず、据わった目で俺を睨み付ける。

「碧希くん、SWOWのアカウント、持ってるのよね?」

 その言葉に、俺は一瞬顔を歪める。まるで気にしていなかった瘡蓋を、自分以外の人に無理やり剥がされているかのようだ。どうせ剥がすなら、ひと思いにやって欲しいという思いが、俺の中から湧き上がる。

 だが、中途半端に剥がされた結果、その瘡蓋の下に何があるのか、話す覚悟が出来ていた。出来ているからこそ、俺は頼慈を自分の家に上げたのだから。

「……ああ、持ってるよ」

「じゃあ、碧希くんはやっぱり……」

 そう言って言葉を切り、頼慈は少しだけ俯く。だが、それも瞬きの間だけだった。俺が瞼を開いた時には、彼女は戦乙女と見まごう程の気高さを持って、俺を見つめている。

 そして頼慈は、俺にこう言った。

「碧希くんは、特別区管理者なのね」

「…………は?」

 思わず頷きかけたが、すんでのところで我に返り、俺は自分の顎を引くのを止めることが出来た。一方、頼慈もそんな俺の反応が想定外だったのか、呆けた様な表情を浮かべている。

「……待て。特別区管理者って、SWOWに新しく実装された陣地取り領域の、ボスみたいな奴だよな?」

「……ええ、そうよ。その殆どがプレイヤーである事は間違いないんだけど、誰が特別区管理者なのかは、謎のままなの」

「……それで、何で俺がその特別区管理者だ、っていう話になるんだ?」

「だ、だって碧希くん、言ってたじゃない! 小さい頃からPCゲームをやりこんで、上位ランカーになったってっ!」

 なんとなく頼慈の勘違いの原因がわかり、俺は自分のこめかみを押さえる。

「つまり、あれか? PCゲームが上手いプレイヤーは、REDGも上手い。そこからSWOWのアカウントを持っている、俺が特別区管理者だと、そのプレイヤーだと、そう言いたいのか? お前は」

「そ、そうよ! だって特別区管理者を操作するには、それなりのスキルを求められるもの。中の人が元PCゲームの上位ランカーなら、その条件はクリア出来るわ。それに碧希くん、『戦車』がログインしている時、江戸川区にいつも居るし……」

「江戸川区?」

 一瞬首を傾げるが、直ぐに心当たりに思い至る。そう言えば俺は、頼慈とは連絡先を交換していた。そこから俺が、いつどの辺りに居たのか、というのを頼慈は知ったのだろう。ネタがわかればなんという事はないが、まさかそこからこんな話に発展するとは思わなかった。

 そして、頼慈からの疑いを晴らす方法を、俺は持ち合わせている。まさか、こうした形で自分からあの話を披露する事になるとは、思ってもいなかった。瘡蓋を剥がされるのだと思っていたが、自分からそれを剥がす所を見せる羽目になるとは。

 俺は苦笑いを若干引きつりながら浮かべ、頼慈に向かって口を開く。

「悪いが、お前の予想は外れているよ。俺は特別区管理者ではないし、なるのも難しいんだ」

「……どういう事?」

 訝しむ頼慈に、俺は自嘲を通り越して、諦めに近い笑みを浮かべた。

「プレイできねぇんだよ。酔っちまってな」

「……まさか、RED酔い?」

 頼慈が驚愕の表情を浮かべる。俺はそれを見て、更に口角を歪めた。

「そうだ。俺は過剰強化体質者(アクセレラ・オーグメンター)なんだよ」

 Accelera Augmenter(過剰強化体質者)とは、REDが普及したことで見つかった、新しい疾患の事だ。

 XRは、脳が現実世界と仮想世界の情報を適切に処理する事で、その恩恵を受けることが出来る。だからサプリなどを摂取してその処理速度を上げる事で、REDGを優位に進める鍵になるのだが、生まれながらにして、XRとの親和性が高い人も存在していた。更に、親和性が高すぎる人も。

 つまり、俺の様な存在、過剰強化体質者の事だ。

 過剰強化体質者はXRとの適性が高すぎるため、脳がより高速に現実世界と仮想世界の情報を処理する事が出来る。それだけであればXRの恩恵を十二分に享受出来るのだが、享受しすぎてしまう。

 過剰反応だ。

 REDにより強化されたXRを、過剰強化体質者は他の人が受け取る以上の情報量で受け取ってしまい、更に異常な処理速度で処理してしまう。結果、五感が過剰に刺激され、前後不覚に陥ってしまう。

 わかりやすく言えば、酔ったような状態となるのだ。

 俺はなった事がないのでわからないが、ある人の台詞を借りれば、史上最悪の二日酔いになった感覚らしい。実際、過剰強化体質者はREDGを長時間プレイすると、確実に嘔吐する。

「更に俺の場合、症状はその中でも重くてね。REDG、SWOWをプレイするどころか、REDのレベルを少し上げただけでも、眩暈を感じる程さ」

 何せ新学期初日から、車椅子の新入生に心配されたぐらいである。俺は、自らの瘡蓋を剥ぎ取った痛みで顔を歪めた。

「これでわかったろ? 過剰強化体質者である俺が、特別区管理者になれるわけがないんだよ」

「そんな、嘘よ。信じられない……」

 そう言いながらも、頼慈の顔が蒼白になる。両手で握ったグラスは震え、結露が少し零れ落ちた。その様子を見て、俺は彼女に問いかける。

「そもそもお前は、特別区管理者のプレイヤーを見つけて、何がしたいんだ?」

「……ただの特別区管理者じゃなくて、『戦車』のプレイヤーなんだけどね」

 そう言って今度は、頼慈が自嘲気味に笑う。

「碧希くんは、陣地取り領域の事は知っていたわよね? 陣地取り領域が実装された日、私のチームも、ルドウィッグのメンバーも、それに参加していたの。と言ってもルドウィッグはお世辞にも強いチームじゃなかったから、観戦目的で装備品は全部、事前にポイントに変換していたんだけどね。その上で私たちは江戸川区の陣地取り領域に赴いたの。だから、負けても私たちが失うものは何もない。そのはずだった。そうなる、はずだったの」

 そこまで言って、頼慈がグラスに口を付けた。そこで、もう自分がさっき麦茶を飲み干したのにようやく気付いたのか、決まりが悪そうに、彼女は小声で話し始める。

「一瞬だった。一瞬で、全てが薙ぎ払われたわ。江戸川区の特別区管理者である、『戦車』に」

 特別区管理者の凶悪さは、俺の耳にも届いていた。廃れたとはいえ、俺も元PCゲームの上位ランカーだ。ゲームの話は、ネットやSNSで自然と追ってしまう。だから、特別区管理者相手に心が折れたSWOWのプレイヤーが一定数いる事を、俺は知っていた。

「なら、お前の目的は、チームメンバーの仇討ちなのか?」

「……そうね。そう、カッコよく言えば、そうなのかもしれない」

 絞り出したようにそう言った後、少し考えて、頼慈はやがて首を振り、自分の言葉を訂正した。

「諦めたい、だけなのかもしれないわ」

「諦めたい?」

「うん、そう。諦めたい。その方が表現として、あってるかも」

 自分の言葉に改めて賛同する様に、しかし頼慈は弱々しく笑う。

「『戦車』のあまりの強さに、ルドウィッグの意見は割れたわ。自分で作ったチームにこういう事を言うのは変かもしれないけど、私のチームは、皆すごく仲が良かったの。それこそ、私はメンバーの事を家族だと思っていたし、ルドウィッグは私にとってSWOW上の家みたいな存在だった。そしてそれは、きっと他のメンバーも、皆そう思っていてくれていたんだと思う。だから、それが、その時が初めてだったの。決定的に意見が食い違ったのは」

 頼慈の表情に、影が差し始める。しかし、彼女は言葉を紡ぐのを止める事はない。

「仲が、良すぎたのかもね。早々に引退を表明したメンバーに対して、それを咎める声が上がったわ。離れるのが嫌だったんだと思うけど、あの一方的な敗戦の後で、皆気が立っていた。だから言葉も強くなって、余計に意見が割れて、引退を受け入れられないメンバーが出てきて、仇を討てば皆戻って来るんじゃないかって、またあの頃に戻れるんじゃないかって、でも、でもそれをするには私のチームじゃ、ルドウィッグじゃ弱すぎるって出ていった人もいて、でも私の元に残ってくれる人もいて、私も、私も何かしたくって。私が、私たちがしてきたことは無駄じゃなかったんだって、何か証明したくって。だ、だから私、『戦車』をずっと追っていて、私のチームの誰かが『戦車』に勝てれば、私たちは、私は……」

 俺はその言葉を、頼慈の言葉の続きを、引くつきながら喋る彼女の言葉を、ただただ黙って聞いていた。

「わ、私、もう、気付いているの。こんなことしたって、意味ないんだって。こんなことしたって、もうきっと、私の家族は元に戻らない。もう、私の家は、ルドウィッグはどこにもないの。でも、でも、でもね、碧希くん! わ、私、私、私じゃ力不足なのはわかってる! でも、出来ない! 何もしないなんて、出来ないの! 出来るわけがないのよっ!」

 頼慈の慟哭が、俺の部屋に響き渡る。涙ながらにグラスを握りしめる彼女の震える細い指先から、頬を流れ落ちる透明な雫から、そしてそれでも凛と輝く彼女の瞳から、俺は目が離せない。

『戦車』に負けた事よりも、『戦車』に負けて、ルドウィッグのメンバーが、彼女の家族がバラバラになってしまった事が、彼女の家が元に戻らない事こそが、頼慈の悲哀の根源なのだ。

 だからきっと、彼女の行為は手向けなのだろう。

 彼女の家族と家の決別。

 自分の想いの、仇討ち。

 それを果たさなければ、きっと頼慈は次に進めない。

 だから、頼慈の言った通りだ。何もしないなんて、出来るわけがない。その悔恨を、ただ自分の内に閉じ込めておくなど、出来ようはずがないのだ。

「……でも、どうすればいいの? 私、もう、わからないよ。普通に戦っても、『戦車』には勝てない。『戦車』のプレイヤーを誰か突き止めれればと思ったけど、それは、碧希くんじゃなかった。私、どうすればいいの? どうすれば特別区管理者に、『戦車』に勝てるの?」

「勝ちたいのか?」

 俺は、思わず聞いていた。涙を流す同級生に、俺は聞いていた。聞いていたが、俺はその返答がどういうものか、確信を既に持っていた。何故なら彼女の濡れた瞳には、それでも確かに、強い意志が宿っていたのだから。

 そして、俺の予想通りの言葉が返って来る。

「勝ちたい!」

 少しも、迷った素振りはなかった。

「どうすればいいのかわからない。どうやったら勝てるのか、見当もつかない! でも、それでも私、私は、勝ちたい! 私は、勝ちたいよっ! 勝ちたいの、碧希くんっ!」

「……頼慈。そこのゴミ箱、取ってくれるか?」

「……へ? え? ゴミ、箱?」

 俺の台詞に戸惑いながら、頼慈は言われた通りゴミ箱をこちらに差し出してくれる。俺はゴミ箱に入れているビニール袋が、破れていない事を確認した。

「……それだけ強い覚悟を持ってるなら、俺もそれに応えた方がいいよな」

「え?」

 言っている事が理解できない、という表情を浮かべた頼慈に、俺は肩をすくめる。

「俺が過剰強化体質者である事をちゃんと見せておいた方が、お前も安心するだろ?」

「それはそうだけど……。でも、どうやって?」

「だから、実際に見てもらうんだって」

 そう言って俺は、頼慈に自分のREDのXRのレベルを共有した。今は俺が耐えれるように、最低レベルになっている。

「今からそのレベルを、最大値に変更する」

「――」

 慌てた様に立ち上がった頼慈の姿が反転。輪郭はぼやけ、声も意味を理解できないものになり、次の瞬間には聞こえなくなる。それどころか俺の世界はもう暗転していた。自分の立っている地面がなくなり、下に落ちていく浮遊感。それでいながら、自分の体を強引に引き上げられたかのような浮動感。上下だけでなく、独楽の様に回転する様な眩暈に襲われる。その回転も、左回転で回りながら右回転をしているというような、意味不明な状況だ。当然、胃液が逆流してくる。

 口腔と鼻腔が粘つく酸っぱさに満たされ、不快感しか感じない。だがそれ以上に、俺は生命の危機を感じていた。呼吸するための気道が吐瀉物でふさがれるため、酸素を肺に送ることが出来なくなっているのだ。呼吸しようにも、先ほど飲んだ麦茶が濁流となり、俺の口と鼻から溢れ出す。目は涙で滲み、胃酸が外に出せと俺の体の中で、荒波の様に暴れ狂っている。

 永遠に続いたと思えるその地獄は、しかし時間にして一秒しか経っていないはずだ。REDの設定であらかじめXRのレベルを引き下げる時間を一秒で設定していたのだが、一秒で俺は死にそうになっている。

 同じくREDで家中の換気設定をしており、俺が聴覚を取り戻してファンの音が聞こえるようになったタイミングで、俺はようやく自分の背中を頼慈がさすってくれている事に気が付いた。

 ゴミ箱に縋り付きながら、俺は喘ぐ。

「……悪い」

「大丈夫?」

「大丈夫、じゃ、ない」

「……でしょうね」

 呆れる頼慈に何も言わず、俺はあと五分程その状態を維持していた。やがてえずかなくなった俺に、頼慈が問いかける。

「でも、どうして急にこんなことしたの?」

「……こんな、こと?」

「XRのレベルを上げた事よ。過剰強化体質者の証明なら、診断書を共有してもらえれば済むのに」

「……そんな簡単に、自分の医療情報を渡せるかよ。それにお前、診断書が本物かどうか何て、わかんねぇだろ?」

「それは、そうかもしれないけど……」

「だったら、実際に見てもらう方が早い……。悪い、ちょっと待っててくれ。これ、ゴミ、捨ててくるから」

 そう言って俺は、自分の吐瀉物が入ったビニール袋を厳重に締まり、ふらつく足で家の外に出た。マンションを下り、ゴミ置き場に向かいながら、俺は先程の自分の言葉を思い返す。

 俺が頼慈に言ったのは、嘘だ。

 診断書は、病院の電子署名が入ったデータを持っている。これを改竄するには、医療機関が所有する電子鍵を盗むか、証明書をチェックする、この場合は頼慈が使っているREDの認証機能自体をハックするしかない。RED自体のバグから時計の時間をずらす、通信を一部止めるぐらいは出来そうではあるが、医療機関から電子鍵を盗んだり、身に着けているREDの認証機能そのものをハッキングするなんて、普通は無理だ。

 だから、俺が過剰強化体質者である事を証明するには、頼慈が言った通り、彼女に診断書のデータを渡せば事足りる。足りたはずなのに、しかし、俺はそうはしなかった。

 正確には、したくなかったのだ。

 過去との決別のために戦いに臨む頼慈に、そのために単身、一人暮らしの男の家にやって来て、自分の内情を話して涙を流したあいつに、俺も自分の弱い部分を晒したかったのだ。

 これは俺の自己満足で、勝手な感傷だ。だが俺は、頼慈は過去の自分だと思ったのだ。

 ゴミ置き場に到着し、ゴミ袋を中に放り込みながら、俺はREDを操作し、SWOWのアカウントを表示。自分でプレイする事が出来ないとわかっているにも関わらず、往生際が悪く取得した自分のアカウント名、プレイヤーキャラクターであるLucas1985を見て、苦笑を浮かべるしかない。

 SWOWは過剰強化体質者の俺から見て、二種類のプレイスタイルが存在する。

 一つはXRを存分に使った、プレイヤーキャラクターを操作するもの。これは今では一般的で、逆にプレイヤーキャラクターを利用しないでプレイしている人はほぼいないだろう。

 そして残りのもう一つは、SWOWの初期に実装されたゲーム形態だ。つまり、手ぶらでプレイ出来るサバイバルゲーム。自分自身をベースにプレイするものだ。

 これなら、過剰強化体質者の俺でもプレイ出来るのではないか? 最初は、そう思った。だからアカウントを作った。

 REDGが流行る前、俺はPCゲーム、どのジャンルでも上位の世界ランカーと戦えていたが、中でもFPSが一番得意だった。当時俺は小学生だったが、誰もが認めるプレイヤーだったと自負していたし、一人で生きていくだけの稼ぎもあった。

 だから、諦めきれなかったのだ。

 過剰強化体質者というだけで、ゲームの世界から追い出されるのも、離れなければならないのも、我慢できなかった。

 しかし結果は、頼慈に先程見せた通りだ。

 XRを存分に使うプレイは一秒だって出来ず、自分自身をベースにするプレイですら三分も自分の体が持たない。

 だから、折れるしかなかった。

 諦めるしかなかった。

 それでもその挫折を、何もしないまま受け入れる事なんて出来ない。ゲーマーなら、可能性があるのなら、試さずにはいられない。

 出来るわけがない。その悔恨を、ただ自分の内に閉じ込めておくなど、出来ようはずがないのだ。

 でも、出来なかった。生きていくためにはプレイヤーとしてではなく、株や為替で稼ぐことにした。

 プレイ出来ないREDGに対しては、プレイヤーとしてではなく、開発者側として関わろうと思った。自分のような過剰強化体質者でも楽しめるゲームを作りたい。PCゲームをやっている時からプログラムをかじっていたし、そういう生き方もあると思った。

 その思いに嘘偽りはないし、そのためにはREDというハードウェアと、その上で動くREDGというソフトウェアの更なる進化が必要だと、本気で思っている。ソフトはハードを最大限に活かせる作りにする必要があり、ハードは人が使いやすいよう日々進化しなければならない。

 SWOWは幸い、プレイヤーも自身で装備品を開発することが出来る。開発には多少のポイントも必要になるが、自分で作った装備品も売ることが出来る。俺にとって、SWOWはREDGの開発環境でもあった。本当に、そう思っている。

 そう思っているが、プレイヤーとしての俺自身を諦めた今でさえ、女々しくもREDGから、自分ならいつかできるんじゃないかという妄想から、離れることが出来ない。

 俺の瘡蓋は剥ぎ取った後でも、その場所はまだ血が滲んでいる。

 頼慈が、必ずしも俺と同じような考えだとは思わない。でも間違いなく、頼慈の傷は、まだ瘡蓋にすらなっていないのだ。

「おかえりなさい」

 家に帰ると、少しだけ寒そうな頼慈が出迎えてくれた。彼女はソファーではなく床に座り、何かを擦っている。

「何してるんだ?」

「……その、ちょっとだけ、床についてたから。置いてあるティッシュを貰って、拭いてたの。ダメだった?」

 同級生が嘔吐する場面を見せられたのであれば、普通逃げ帰っていてもよさそうなものだが、頼慈はなんてことなさそうにそう言った。

「ねぇ、換気、もう切ってくれない? ちょっと寒くて」

「……ああ、悪い」

 REDを操作しながらそう言った後で、頼慈に一番最初に言うべき台詞があったと、俺は遅まきながら気が付く。

「……ありがとう」

「? 何が? それより、このゴミどうすればいいかしら?」

「……新しくゴミ袋を出すから、ちょっと待っててくれ」

 ゴミ袋を取り出して、頼慈から受け取ったゴミを入れる。それから洗面所に行き、俺は顔と口を濯いだ。顔を拭いて戻ると、ソファーに座り直した頼慈が、俺に向かって問いかける。

「そう言えば、どうして碧希くんは、『戦車』がログインしている時間帯に江戸川区に居たの?」

「……ああ、その事か」

 確かそれが、頼慈に俺が特別区管理者だと疑われた原因だった様に思う。俺は彼女の疑問に答えた。

「ネット上で、最近江戸川区で不自然に通信が遅くなるっていう書き込みがあってな。それを調べてたんだ」

「……でも、ネットが遅くなるなんて、たまにあるじゃない」

「だから、不自然に、なんだよ。どうも影響を受けているのは、SWOWの通信が影響しているらしくてね」

「そんなの、どうやってわかるのよ! SWOWの通信なら、有線じゃなくて無線でしょ?」

「だから、現地に行って調べるしかなかったんだよ。で、その結果、確かに通信帯域が圧迫されているのがわかって来たんだ。それまでは駅に関係がありそうかも、と思ってバスの時間、タクシーの台数や交通量の推移も計算してみたんだが、どうにも因果関係が見えてこなくてな。夜な夜な出歩くのはどうかと思ったんだが、気になって」

「何で碧希くんが、そんな事までしてるの? SWOWをプレイしているわけじゃ、ないんでしょ?」

 プレイ出来ないからだ、とは、流石に答える事が出来ない。

 リクライニングチェアに座り、自分のグラスを手に取り、残った麦茶で口を湿らせてると、俺は小さくつぶやく。

「瘡蓋だよ」

「え?」

「『戦車』のプレイヤー探し、手伝ってやる」

「え! 何でっ!」

 それも、瘡蓋だ。せめて傷が瘡蓋になるまでは、付きやってやろうと、そう思ったのだ。

 もちろん、それも口にする事はない。

「……俺が江戸川区に居た時に『戦車』がログインしてたって事は、通信が不安定になるのと、『戦車』のプレイヤーに何かしら因果関係があるって事だろ? それに俺も、元PCゲームの上位ランカーだからな。縦横無尽にプレイ出来なくても、少しは関わっていたいんだよ」

「……本当? 本当に、手伝ってくれるの?」

「ああ。それに、今まで一年間、お前から逃げ回っていたからな。過剰強化体質者である事も話したし、プレイヤーという役割以外なら、協力できる」

 少しだけ訝し気に俺の顔色を窺っていた頼慈だが、俺の言葉に嘘はないと思ったのか、やがて小さく頷く。もちろん、俺の言葉に嘘はない。ただ、俺の心中を全て曝け出してないだけだ。

「じゃあ、お願い、出来るかな?」

「ああ、よろしく頼む」

 気を取り直した様に頼慈が微笑み、俺に向かって手を差し出した。俺は当然、その手を握り返す。

 こうして過剰強化体質者である俺は、『戦車』のプレイヤー探しに参戦する事となった。

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