第三章

・早乙女 梟SIDE

「お疲れ様です。早乙女さん」

 名前を呼ばれ、私は振り返る。そこには、凛とした桜さんの姿があった。私は慌てて佇まいを正し、一礼する。

「お、お疲れ様です! 桜さんっ」

「……そんなに畏まらないでください」

 ほんの少しだけ、桜さんの眉尻が下がる。しかしそれも錯覚だったのでは? と思う程早く、桜さんはいつもの表情、つまり何の色も浮かべていない顔色になっていた。

「どうです? 体調の方は」

「相変わらず、って感じです」

 そう言って私は、気弱い笑みを浮かべた。桜さんの頬が、少しだけ固くなる。何故だろう? この前受けた健康診断は、ほぼ予想通りの結果だったというのに。

「あまり、無茶はしない様にして下さい」

「大丈夫ですよ。ちゃんと記録(ログ)も取ってますし、想定外の事が起きれば、早めに相談させて頂きますから」

 あの日から今日に至るまで、私は自分のREDで記録を取り続けていた。今の会話も記録に取っている。記録は自分の体調管理にも役立っていた。流石たっくんだ。何でも出来るたっくんの言う事を聞いていれば、間違いない。

 私の体調が悪くなれば、桜さんたちのお仕事にも、影響が出てしまう。想定外の事があれば、すぐにでも桜さんに報告するつもりだ。だというのに、桜さんは珍しく、表情を曇らせている。

「保川に、もう少し仕事の量を減らせないか進言しておきます」

「そんなっ! 保川さん、桜さんの上司なんですよね? 保川さんと逆の方針を取ったら、桜さんの心証が悪くなっちゃいますよ」

 桜さんが自分の上司、アナブナヴィリオ製薬株式会社の取締役である保川 龍憲(ほかわ たつのり)の事をあまり良く思っていないのは、薄々感づいていた。

 保川さんは昔、ハイリスクハイリターンな案件を次々に成功に導き、出世してきた野心家だと聞いている。しかし最近目立った業績がなく、今扱っている案件を是が非でも成功させたがっているのだ。

 こうした情報を教えてくれた桜さん自身も、どちらかと言えば出世欲が強い様に感じる。そういう意味では、桜さんは保川さんとは馬が合いそうではあるのだが――

「私にもう少し力があれば……」

「そんな! 桜さんには、いつも良くしてもらってますよ」

「……いいえ、早乙女さん。もっとこの案件は、慎重に進めるべきなのです。あなたに対しての接し方も、もう少し考えるべきです。私に、私に力が、私が会社に認められていればっ」

 そう言って珍しく、桜さんは歯噛みした。そんな桜さんに向かって、私は優しく微笑みかける。

「ありがとうございます、桜さん。私の境遇に、同情してくださっているんですよね」

「そんな! 早乙女さんをそんな目で見たことはありませんっ! 私はただ、自分が――」

「いいんですよ、桜さん。これは、私が自分で決めた道なんですから」

 桜さんが何か言い終える前に、私は彼女の言葉を遮った。それでもなお、桜さんは私の言葉を反芻している。

「自分で、決めた道……」

「そう言えば、例のお薬の改良、順調に進んでるんですか?」

「……ええ、おかげさまで」

 そう言った桜さんの表情は、いつもの無表情に戻っていた。

「用意した環境も、十分実験に耐えれるものですので」

「経過を見るのに、確か無線の専用線を使っているのですよね?」

「ええ、そうです。冗長化のため、専用線以外の通信帯域も確保しています」

 それはつまり、自分たちが本来占有して使えない無線、皆で共有して使っている帯域を、無理やり奪っているという事だ。

「一時的に無線LAN同士が同じ周波数上で帯域を奪い合っている様な、電波干渉に似た状況が、広範囲で発生します。もちろん実際に電波干渉は発生していません。私たちの冗長経路として帯域が確保され、他の方の通信が発生し辛くなる、という事象が発生するだけです」

「……結構、迷惑になりそうですよね」

「事実、なっています」

 そう言われては、私として苦笑いを浮かべるしかない。一方桜さんは、まるでRPGでプレイヤーが最初に訪れる村で話しかけた人が淡々と言葉を述べるように、無機質に言葉を作る。

「だから、慎重に進めるべきなのです。この案件は」

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