・早乙女 梟SIDE
チャイムが鳴り、授業が終わる。REDに表示していた授業の教材を消しながら、私は小さくため息を付いた。少し、疲れが溜まっているのかもしれない。
仕事は諸々の準備、後片付けを含めて二、三時間程なので、長時間労働という程ではない。でも私の仕事は、とにかく体に負担がかかる。目の痛みも感じて、私は左手で目頭を押さえた。一瞬電流が走ったかと思うような鋭い痛みで、涙が出そうになる。でも、今日も仕事だ。休むわけにはいかない。私は、私に出来る最善の事をするんだ。
そう思い、席を立とうと私が体を起こした所で、クラスに異変が起こる。
「碧希くん!」
「……令恵ちゃん?」
そう私がつぶやくが、その声どころか教室中のざわめきも、ひょっとしたら令恵ちゃんには届いていないのかもしれない。
転校してから、今日が最初の金曜日。他のクラスメイトから、令恵ちゃんが熱心にたっくんを何かに誘っている、というのは教えてもらっていたし、その誘いをたっくんが断っているのもこの目で見ている。
でも、今日みたいに周りの目を全く気にせず行動したのは、初めてだ。
たっくんも、普段の令恵ちゃんがしない行動に、少し戸惑っているように見える。
「……碧希くん、ひょっとしてアカウント、持ってるんじゃないの?」
「アカウント?」
困惑していたたっくんだったが、令恵ちゃんの言葉に思い当たる節があったのか、納得したかのように小さく頷いた。
「ああ、いつものやつか。そうだよ、アカウントは持ってる」
「やっぱり……」
自分の考えが正しかったとたっくんが認めたにも関わらず、令恵ちゃんの顔は蒼白になっている。でも、次の瞬間には意を決したかのようにその眉を吊り上げ、令恵ちゃんはたっくんの腕をとった。
「付き合って!」
「えっ!」
思わず私の口から、驚愕の声が漏れる。しかしその声は、クラス中に起きた喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかったようだ。そしてそのざわめきが気にならないぐらい、私の頭の中は真っ白になる。全身の血が逆流したように、何も考えられない。白に沈む思考とは反対に、私の心に黒い影が纏わりつく。
「お前、どうしたんだ? 何言ってるんだよ、お前」
「いいから、付き合いなさい! ほら、早くっ!」
「だから、どうしたんだよ! おかしいぞ、頼慈」
そこで私のREDに、仕事先からの連絡が入る。音声通話だ。その連絡に出るか、たっくんたちの成り行きを見守るか躊躇する。でも、次の瞬間、幸せの森の事が脳裏を過った。私とたっくんの家。そしてその家に暮らす、施設の職員さんや子供たちの顔。
一瞬の逡巡の末、私は頭を振って、後ろ髪引かれる思いで教室を出る。
廊下の隅に体を寄せ、私は連絡を取った。
「もしもし」
《アナブナヴィリオ製薬株式会社の安堂です。早乙女さんでお間違いないですね?》
コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスのREDに連絡をして、別人が出るケースなんて殆どない。それなのに、律儀に私の仕事先のスタッフ、安堂 桜(あんどう さくら)さんはそう言った。そんな桜さんに好感を持ちつつ、私は返事をする。
「はい、早乙女です」
《今日は例の定期診断の日ですが、予定を確認させてください》
淡々とした口調で、桜さんがそう告げた。
《本日はお手伝い頂いている実験、その後定期診断を予定しています。いつものお時間にいらっしゃいますか?》
「はい、そのつもりです」
《それから以前早乙女さんからご依頼頂いた記録(ログ)の件ですが、保川(ほかわ)からの許可は下りませんでした》
「そうですか……」
私の口から、沈んだ声が零れ落ちた。たっくんに言われていた通り、全ての記録を取ろうと私は桜さんに掛け合っていたのだ。たっくんの言ったことを、私は全て叶えたい。
仕事先の記録も取れないか、桜さんから上司の保川さんにお願いしてくれたみたいだが、どうやら願いは叶わなかったらしい。
しかし、落ち込む私へ、桜さんは更に言葉を紡ぐ。
《ですが、早乙女さんの方で何かしら記録を残すこと事態、我々の方で何かしら制約をかけることは出来ません》
「え? それって――」
《事実、我々で早乙女さんのREDを強制的に制御することは出来ません》
「桜さんっ!」
仕事先から記録はもらえないが、私の方で取るのであれば好きにすればいいという、事実上の黙認発言に、私は歓喜の声を上げた。
桜さんは無機質そうに見られがちだが、仕事場では同じ女性ということで、私に優しくしてくれる。今の仕事は桜さんの望んだキャリアではないみたいだけれど、出世の目が一番あるからと、この仕事をしているようだった。
《ではいつものお時間に、お待ちしております》
「はい、ありがとうございます!」
連絡を切り、私は教室に戻る。戻った時には、既にたっくんと令恵ちゃんの姿はなかった。やろうと思えば、二人を、位置情報を辿って追うことも出来る。今たっくんと令恵ちゃんが何を話しているのか確認してから仕事に行こうとそう決めて、私は教室を飛び出した。
REDを確認すると、既に二人は学校を出ようとしているらしい。下駄箱に急ぐと、私の目があるものを捉えた。それは車椅子の少女で、下駄箱に降りるための少しの段差に、苦労しているようにも見える。
私の頭の中に、たっくんと令恵ちゃん、幸せの森の人たち、そして車椅子の少女、その三つが渦を巻く。私が助けになれるのは、一体誰なのだろう? どうすれば、私は誰かを助けられるだろう?
私の自由に出来るものは、仕事に行くまでの時間。そして絶対にしなければならない事は、仕事に行く、つまり働くことだ。この手札で、私は誰かを助けられる人を目指さなくてはならない。何故ならそれを、私はたっくんに期待されているからだ。
時間は一瞬だったかもしれないが、かなりの葛藤を振り切って、私は車椅子の少女へと足を向ける。彼女を助けてからでも、仕事は十分間に合う。たっくんの事は、信じることにした。今までたっくんの事を信じて、裏切られたことなんてない。彼は神様の様に何でも出来る存在で、太陽なのだ。太陽は、誰も手を触れることが出来ない。そうだよね? たっくん。
私は意を決して、車椅子の少女へと話しかけた。
「ねぇ、大丈夫? 手伝おうか?」
「へ?」
私に声をかけられて、車椅子の少女が驚きの声を上げる。私が彼女の後ろに回ろうとしたタイミングで、少女は大げさに両手を振った。
「だ、大丈夫です、大丈夫です! これぐらい、自分で出来ますからっ!」
「でも、校門を出た後も、少し坂になってるし」
「だから、大丈夫ですぅって! クラスの人に見つかったら、噂になっちゃいますからっ!」
「う、噂って、どんな噂? 困るような事なの? それ」
もしそうなら、たっくんの言葉に反する事になる。それはまずい。でも車椅子の少女は、私の言葉に小さく小首をかしげた。
「んん? 確かに、別に困ることはなさそうな?」
「な、なら、問題ないんじゃないかな?」
「それはそうなんですが、公共交通機関でも少し融通していただいている身としては、必要以上に人の好意に甘えるのも如何なものかと思うわけですよ。タクシーに乗る時も、駅によっては順番を優先してくださる時もありますし。あ、これは駅周辺のサービスとかを調べれば、直ぐにわかる事だと思いますが」
「は、はぁ」
少女の言葉に押されて、私は生返事しか返すことが出来ない。何かしらツボに入ったら、饒舌になるタイプなのだろうか?
そう思っていると、車椅子の少女が、今度は自嘲気味に口角を吊り上げた。
「この前会った先輩もそうでしたけど、この高校には、おせっかいな先輩しかいないんですかねぇ」
「え? 何のこと?」
「いえいえ、こちらの話です。それに、あれはペットボトルのお礼なので、ノーカンですっ!」
「そ、それもよくわからないけど……」
それからよく話す後輩の車椅子を坂道がなくなるまで押してあげた所で、私は自分の仕事へと向かっていった。
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