持つ者の闇
深雪さんと別れた後、僕は普段通りの日程を過ごした。味気ない昼食を食べ、例のカウンセラーと話し合って時間を潰し、気が付けば清潔に整えられたベットの上に寝そべって、読みかけの本を読んでいた。いや、本を読んでいるというよりかは、深雪さんと彼女の言葉を考えるために、外の景色を遮断していたという方が近しい。外界との接触を極力抑えて、僕は内向的に、自分の荒みきった精神世界で二つの言葉を考えた。
自分を抉る言葉の意味を考えるというのは、酷く苦しいことだ。枯れ果てた土地には、さらに乾いた熱風が吹き荒ぶ。そして、どうにかして保っていた土の土壌は砂地へと変わって行く。精神世界の悪化を横目に見ながらも、僕は歩くことすらままならず、意識を保つことすら難しい世界の中を必死に歩いて、僕が生きたいのか死にたいのか、理由を探った。それから、僕の持てる知識を総動員して、彼女の口から発せられた言葉の意味も探した。
けれど、見つからない。荒れ地の世界を彷徨しようとも、見つかって欲しいオアシスはどこに見つからない。天恵たる雨も降ってこない。見渡すことの出来るすべては、熱風吹き荒ぶ荒れた大地だ。晴れることなく、延々と暗くて厚い雲が広がっているのにもかかわらず、僕を労う光は差し込まない。
「はあ、分からない。どうしてだ? なんで、分からないんだろう?」
「分からなくたって良いじゃないか。兄さんは、しばらくゆっくりした方が良い。生き急がない方が良い。それは今の兄さんにとって、悪影響だからね。じっくり、物腰を据えて、事態を把握した方が良いよ。兄さんは慌てると周囲が見えくなるからね」
「お前、居たんだ」
「うん、兄さんが唸って本の目でなぞっている時からずっとね」
弟はベットの右隣で、青くて丸いプラスティックの座面の椅子に座って、足を組みながら僕が読み終えた単行本を読んでいた。呼んでいたページに親指を挟み込んで、弟は僕に微笑みかける。僕に向けられるその無垢で、裏表のない優しさを向ける弟の表情は伊達男だ。
精神世界に光が差し込まなくとも、肉体には午後の少しだけ暑いオレンジ色の陽光と、自然を上回る清々しい笑みを浮かべる光の様な存在が僕を見つめていた。彼女とは打って変わって、僕の心を安らげる弟の声と微笑は精神をほんの少しだけ癒してくれる。
ただ、人の病室に入っておきながら何も挨拶をしないのはいただけない。マナーとしてなって無い。僕が言えることかどうかは、分からない。けれど、愚兄であっても所作の一つや二つくらいは教えられるだろう。たった一つしか違わない関係だけれど、血は繋がっている。だから、少しでも甲斐かいしいことをさせてくれ。
読んでないペラペラとめくっていた本の開いたまま、枕元に置いて僕は上体を起こした。そして、弟の額に腕を伸ばして、間髪入れずにデコピンをする。
「痛ッ」
「ちょっとした躾だよ。人の部屋に入る時はノックをして、返事があってから入るんだ。まあ、お前のことだから分かっていると思うけど」
「俺、一応ノックして、兄さんから返事貰ったんだけどな」
そう言えば、過集中のせいで僕は弟の入室を気付けなかったんだ。今、痛がって涙を目元に浮かべながら糾弾する弟の視線を受けて、ようやく気付いた。
けれど、そうであったとしても、部屋に入ったら僕に声を掛けるだろう? だから、お前が悪いんだよ。年長者の特権だ。
「まあ、でも確かに部屋に入って兄さんに声を掛けなかったことは謝るよ」
「分かってくれれば良いんだよ」
「随分と元気になったね。兄さんの気に言った女の子は、どんな薬より、どんな治療法より、どんな医者よりも有力だね」
読みかけていた本をやっぱり開いたまま僕の枕元に置くと、弟は手を組んだ脚の上に乗せながら微笑みかけた。僕が着けた額の赤点さえなければ、完璧な表情だ。美しく、雄々しく、カッコいい。肉親である僕ですら、こいつの表情には敵わない。
輝くオレンジ色の日差しに横顔を照らされる弟に、僕は暫時、何も言わずに視線を合わせ続けた。濁りの無い瞳は、僕と相反する。全ての光を許容し、全ての闇も同時に受け入れるこいつの目と、僕の闇しか受け付けない目は僕の堕ちた精神を如実に表す姿鏡だ。
ただ、流石に愚兄であってもジッと見られることは流石に照れるらしい。弟は頬を赤らめて、僕から視線を逸らした。恥じらいすら絵になる。憎い奴だ。
「どうしたんだい?」
「特に意味は無いよ。ただ、お前の目が綺麗だと思ったまでだよ。それ以上もそれ以下も無い」
「そっか。それは嬉しいことこの上ないよ。兄さんが素直に思ったことを言ってくれることなんて無かったからね。今までだったら、適当に言葉をはぐらかして、狸寝入りしたり、生返事をするだけだったしね。やっぱり、その女の子は兄さんの心を開いてくれる存在なんだね。俺がその存在になれなかったのは、少しだけ侘しいことだけど」
羞恥の朱に顔を染めていた弟は、知らない間に変化していた僕の内面に気付いたらしい。どうやら、僕はここに来る前、いや深雪さんに会う前よりも素直になっているらしい。つっけんどんな態度を取り続けていた荒んだ対応から、少なからず僕は自分の想っていることを伝えようとしている?
果たして本当にそうか? 違う。それは違うと思う。僕は素直になったんじゃない。俗世に取り残される弟を、両親の重責を一身に背負う弟を憐れんでいるだけだ。僕とは違って、親友もいるだろうし、きっとそのうち彼女も出来るはずの弟だから、うらぶれた僕が憐憫の情を抱くことは、部が超えたことだと思う。けれど、それを踏まえたとしても、僕は取り残されるこいつを憐れむことしかできない。
そして僕の茨が巻きついて、錆び付いて満足に蝶番の動かない閉ざされた扉を開けようとして、開けられなかった弟が不憫で仕方が無い。こいつは、生まれた時からずっと一緒で、何とか僕の捻くれた精神を開こうと試み続けていたんだ。なのにもかかわらず、いきなり現れた名前しか知らない女性に十数年の努力を無下にされた。そんな弟が不憫で仕方が無い。
けれど、僕の腐りきった精神は僕の胸中に一つの悦楽をもたらす。弟が深雪さんに対して抱く、羨望の感情が僕の汚れた精神には心地よい他なかった。僕が嫉妬し続けた弟の才能に、ようやく僕は泥を点けることが出来た。汚らなく真っ白な弟の美しい才能は、僕と深雪さんの関係によって汚された。それが酷く愉快だ。
本当に僕の精神は堕ちるところまで堕ちている。どこまでも、どこまでも続く奈落の闇が僕の心だ。しかも、僕はその汚らわしい闇を自覚している。なのにもかかわらず、弟という人間の理性と美しさの象徴が汚れることに愉悦を抱く。酷く汚らわしい。もしも、この心が物質的なものだったら僕はこいつをナイフで抉り取って、ずたずたに切り裂いていると思う。僕はこの心が憎くてしょうがない。僕自身を憎悪している。
「いや、お前も僕を支えてくれていたことは間違いないよ」
そして僕は弟に素っ気なく労う様な言葉を紡ぐ。
いいや、こんなのは弟のためなんかじゃない。ほんの一点だけ汚れた弟のためじゃなくて、愚兄が自我を保つために、打算的な言葉を紡いだに過ぎない。僕は心からこいつを労うことが出来ない。どうしても、僕は、こいつを、弟を嫉妬の対象として見てしまう。うらぶれた僕をこの歳まで支えてくれていたのにもかかわらず、僕は恩を仇で返すことしかできないんだ。
けれど、淀んで堕ちた僕の内面を知らずに、弟は僕の言葉に喜ぶ。目に見えてこいつは、僕の言葉に心を沸かせる。
どうしてこうも、こいつは純粋なんだ?
なぜ、人を疑おうとしないんだろうか?
僕には分からない。弟の純朴さが信じられない。何時までも、子供のころと変わらずに純粋で居られるこいつが分からない。
「本当に?」
「ああ、本当だよ。僕はお前に感謝しているよ。こんな誰にも認められない人間、誰からも疎まれた人間を、お前は何の打算も無く、受け入れてくれた。だから、僕はかろうじてここまで生きているんだよ」
つらつらと僕の口は、保身のための言葉を紡ぐ。
「そっか。兄さんにそう言ってもらえると、嬉しいな。今日は良い日だよ」
「そんなに喜ぶことか?」
「うん。兄さんには、分からないと思うけど、俺のことを兄さんが褒めてくれたことなんてほとんど無いんだよ。俺が大学を合格した時だって、一言『おめでとう』って言っただけだしさ」
弟は僕の声を真似をしながら、心の底から喜ぶ声を上げた。僕は小恥ずかしい気分になる。確かに、僕が手放しにこいつを褒めたことは、ほとんど無い。それは言うまでも無く、僕の嫉妬のせいだ。
けれど、健気にもこいつは僕の醜い嫉妬によってねじまがった僕の言葉をこうして喜んでくれている。きっと、僕がこいつを褒めるとき、僕がどんな心持ちでいるかをこいつは知らないんだ。
喜ばせたくなかったんだ。僕は僕自身の言葉で、お前に幸せが降り注ぐことが嫌で嫌で仕方が無い。だから、僕がお前を褒めるときは何時だって、僕は込み上げる吐き気を抑えて、自分の本能を抑えて、褒めていたんだよ。
ただ、これは口が裂けても言えない。僕は純粋に、僕の言葉で喜ぶ弟の健気な表情を称えよう。淀みない真っ新な美しさを汚せるほど、僕も壊れてはいない。例え、精神が腐っていようとも、美徳の全てを奈落の底に投げ捨てていようとも、ほんの一握りの理性は残っている。例の砂金だ。人間という自然が造り出した一種の芸術品が、最後まで持つことが許される魂の砂金が、僕の汚辱に満ちた精神をほんの少しだけ浄化してくれる。
「僕は人を褒めることが心底苦手なんだよ」
「知ってるよ。兄さんは自分の言葉で、人を褒めるとか人を喜ばせるとかそう言ったことが昔っから苦手だったしね。というか、家でも外でも俺以外と話して無かったしさ。まあ、ともかく、兄さんが人付き合いが苦手だったし、俺以外の人間を好まなかったよ」
汚れた僕を知らない弟は、くしゃっとした笑みを浮かべて、昔を無邪気に懐かしむ。弟にとっては楽しかった思い出なんだろう、普段から宝石のように美しい瞳が、今はより一層輝いている。こいつにとって、栄光なんだ。
けれど、栄光と挫折は表裏一体だ。こいつが表の世界を生き続けているとしたら、僕は裏の世界を生き続けている。だから、過去なんて、虚しさに満ちた孤独な過去は僕にとって暗い暗い重しだ。この呼吸を続け、無理やり生きている体に負荷を掛けている最たる要因なんだ。
だけれど、僕はこいつの栄光を称えよう。僕の挫折を蔑もう。この世界で祝福される定めを受けた人間を、祝福しよう。もっとも、僕の祝福は呪いかもしれない。
輝く弟の瞳に、僕は不器用な笑みを浮かべる。口角が相変わらずうまく上がっているのか分からない。気の利いた表情が出来ているのか分からない。それでも、僕は今できる最善の表情を浮かべる。
「そうだね。お前は僕のことをよく知ってるじゃないか」
そして、舌っ足らずな声で僕が考えうる最も気の利いた言葉を発する。
すると、弟はくしゃっと細めた目を見開いた。
「兄さん……、笑えてるよ」
「本当かい?」
僕は弟の言葉に驚いた。そして、僕は僕自身の顔を確認するためにペタペタと大げさに顔を触る。確かに口角は上がっているように感じられる。それに、心なしか緊張と憂鬱に満ちた目元も緩んでいる気もする。
でも、僕以上に驚いている? のは目の前の眉目秀麗な僕の弟だ。弟は僕の作り笑顔を見ると衝撃に胸を打たれて、満足に口も回らない様だった。けれど、その後すぐに恍惚とした表情に変わった。ある美術品に心を奪われて、全意識を奪われているみたいに。
「うん、本当に笑えてる。ああ、久々に見たよ兄さんのその顔。やっぱり、兄さんにはその表情が一番似合うよ。寂れているから、なおさら良いんだ」
「存外、酷いことを言うね」
「けれど、兄さんに似合うのはその笑顔だよ。俺に似合うのは無邪気な笑顔だ。でも、兄さんに似合うのは痩せた笑顔だ。誰にでも似合わない、兄さんみたいに才能に溢れる人にだけが、浮かべることを許される笑みだよ」
恍惚とした表情を浮かべる弟は、僕の特別視する言葉を表情に則った口調で紡ぐ。
止めてくれ。僕はそんな言葉をお前の口から聞きたくない。才能を神から受け賜ったのは、お前なんだ。僕に込められていた全ての期待を背負ったのは、そして両親からの絶え間ない無償の愛を受け取ったのはお前だ。なのにもかかわらず、お前は自分の才能を否定しようとする。
復讐か? ああ、そうだ。これはお前からの復讐だ。僕がお前の優しく、思いやる言葉を無下に扱ったことに対する無意識のゲバルトだ。僕はそれを受けなければならない。苦痛だけれど、これは僕が受ける罰だ。自分で行ってきた罰に対するあがないだ。
でも、それでも、僕は罰に対して受容的に成れない。僕の本能は、汚れた本能はどうしても被らなければならない罰に反抗する。
「面白いことを言うね。僕は特別じゃないよ。僕よりもお前の方がよっぽど、特別だ。前も、いや、ずっと言っていることだけれど僕に出来ることは、全部お前にもできる。僕が出来ないこともお前は出来る。それに頭も良い。僕らの優秀な両親の才能を受け継いだのはお前なんだよ。あの特別な才能を」
「月の光は兄さんだけだよ」
皮肉めいた僕の反抗を、弟は不穏な笑みを浮かべながら突き返し、詩的な言葉を紡いだ。僕はそれが嵐の前の生温かい風のように耳を通り過ぎることを知覚すると、その途端、体は背中は粟立った。
僕は目の前で微笑を浮かべる弟を、僕のよき理解者であり、僕を突き放さずに最後まで見送ってくれるであろう優しい人間として見なせなかった。曇りきった僕の二つのガラス玉が、粉々に割れてしまったように感じられる。けれど、僕の落ちくぼんだ眼窩には、未だに曇り続けるガラス玉がごろごろとその役割を全うしている。それでも、僕はそれを認めても、僕が唯一信じなきゃいけない人間、僕が誰よりも悲しませたくない人間は、僕の目の前で変わってしまった。
知的で、お淑やかで、人懐っこい僕の弟はどこかに行ってしまった。僕の目の前に居るのは、僕自身だ。僕の影法師が、弟に憑依している。それだから、こいつから本来、発されてはならない腐臭がする。僕と同じ腐りきった性根の鼻をつんざく異臭がするんだ。病み切った僕と同じだ。
それでも、こいつは僕と違って平然とした顔で普段通りの表情を浮かべている。僕には出来なかった精神の化粧を、こいつはいともたやすくやっている。だから、腐っているのに、その中身が見えないんだ。
いや、本当に腐っているのか?
これはただ僕が、弟から見放されたことを肯定したくないから紡いでいる適当な理由に過ぎないんじゃないか?
違う。
きっと、それは違う。
こいつは妖しい。前の別れ際も、こいつは、酷くうらぶれた姿を見せていた。長年の付き合いだ、それくらいは愚兄の僕でも分かる。でも、原因が分からない。何もかもを与えられて、万事上手く行くように定められた人間がどうして僕のように堕ちようとしているんだ?
「お前も変わったね」
「そう? そうだね。うん、そうに違いない。だって、兄さんがそう言ってるんだもん。俺も知らず知らずのうちに、精神を犯されていたんだね。兄さんとは別の意味でね」
弟は寂しい笑みを浮かべながら、視線を僕からそっとそらして、部屋を染め上げる夕陽差し込む窓に目を向けた。
体を茜色に染める弟は、外見上到底病んでいるようには見えなかった。だけれど、こいつの発した言葉の端々には、僕と同じ臭いが染みついて離れない。そして、僕はそれを見過ごすことが出来ない。自刃して、この世から去り、地獄の底にて永久の眠りに就く予定の愚兄が言うには、おこがましいことだ。けれど、僕はこいつには、こいつにだけは、善良に道を外れず平穏無事に生きて欲しい。お節介だ。でも、兄として、正しい道を歩けなかった兄としてはそう言わせてほしいんだ。
僕のお節介を知ってか知らずか、弟は茜色の温い陽の中で狂気に満ちた笑みを浮かべる。
「俺はね、兄さんに憧れているんだよ。俺と違って、兄さんは何にも出来ない」
「当てつけかい?」
「でも、本当だろう」
ほくそ笑みながら、僕の対応を面白がりながら、弟は見たことの無い恍惚とした表情を浮かべた。それはまんまとつられた清き女性を前にして、ヴァンパイアが自身の正体を現すようだった。カーディガンに身を包んだ優男は、妖艶な男娼に代わった。
見知らぬ人が弟の今の姿を見たのなら、否が応でも魅かれて、自我がうろんとして来るだろう。けれど、僕はこいつの愚兄だ。だから、僕は艶やかな皮肉を言う弟に尋ね返す。
「どういうことだい?」
「水を与え過ぎれば、どんな丈夫な植物だって根腐れを起こす。そうすれば、健康的な茎や葉、美しい花は枯れ落ちて、あっという間に何もなくなる」
「詩的だ。お前は医学を学んでいるんじゃないのか?」
「そうだよ。俺は医学を学んでいるよ。けれどね、僕が本当に追求したかった学問は文学なんだよ。兄さんが、落ちて行った文科を学びたかったんだよ。というより俺は、兄さんと一緒に学びたかったんだ。兄さんと同じ場所で、同じことを学んでみたかったんだ。兄さんの視線に立ってみたかったんだよ。兄さんになってみたかったんだ」
止してくれ。
お前がそんなことを言わないでくれ。
僕はお前になりたくて仕方が無かったんだ。だのに、お前は僕になりたかった? 嫌な冗談だ。僕にはお前が分からない。例えそれが親に敷かれたレールであろうとも、例えそれが自分の意志が掛かっていなくても、お前は選ばれたんだ。
お前だけが選ばれたんだ。
『お前は選ばれなかったな』
「ふざけないでくれよ」
「ふざけてないよ。誰よりも俺が兄さんを尊敬しているって、心酔しているって知ってるだろう?」
『ああ、お前は知っている。お前は誰よりも弟の尊敬を預かっていた。それこそ、親が欲してならない子供からの愛を。それなのに、お前は弟の尊敬を無視し続けた。例え、理解していようとも受け取らないように動き続けた』
「クローディアス。黙れ」
『ハムレット。お前は俺と共倒れになることが運命付けられているんだ。だから、俺は黙らないよ。そして、お前に真実を告げ続けるよ。お前がオフェーリアのように発狂することを願ってね。もっとも、オフェーリアは直ぐ傍か……』
「兄さん?」
「僕は大丈夫だ。僕はお前じゃない。話を続けてくれよ」
目を覚ました寄生虫は、僕の頭の中で動き始めた。
けれど、僕が話を聞きたいのは、こいつじゃない。僕は弟の話を聞きたいんだ。僕は弟が、どうしてわざわざ逸れた道を歩きたいのかを知りたいんだ。
だから、黙れ。うごめいてもいい。だけど、声は出すな。例えお前が、僕の本能の偶像だとしてもそれだけは許さない。
ああ、でも時は遅いのかも知れない。僕は情事を経験したことが無いから分からない。けれど、弟の精神的興奮は徐々に抑えられてきている。それで、普段通りの気遣える優男の面影がちらちらと顔を覗かせている。
「すまない。お前に少しだけ見惚れていたんだ。それで、本当に少しだけ気が動転していたんだよ。だから、僕のことは今は無視して言葉を続けてくれよ」
「僕に見惚れていた? それは僕の顔に?」
違う。
僕は間違ってでも、お前の顔に見惚れることは無い。僕はお前の中に輝く善良な精神に、そして輝く黄金で装飾される真紅のルビーのように妖しく輝く、お前の負の一面に僕は見惚れているんだ。
だから、お前は僕のことを試すような目で見ないでくれ。常日頃から僕を傷付けてきたその瞳を僕に向けないでくれ。
『お前は顔に見惚れたんじゃ無いのか? こいつの黄昏たようなキザったらしい顔に惚れたんだろ?』
うるさい。
黙れ。
お前は僕の頭の中を掻き回していろ。僕らの関係に水を差すんじゃない。ここは僕たちだけの神聖な領域だ。
「違うよ。僕はお前の内面に惚れていたんだよ。今も昔もずっとね。小恥ずかしいことだけどね」
「本当に?」
「こんなうらぶれた人間から言われるのは、癪に触るだろうけど、僕は自分のことを騙りはしないよ。僕はお前の善良、そして今僕に見せてくれたその妖しさの光に当てられて、魅了されていたのは本当のことだよ。お前の顔なんてどうだって良いんだ。所詮、いや、僕がこれ以上言わなくてもお前なら分かるだろう?」
暗黙の了解を求める僕に、弟はゆっくり小さく頷いだ。やっぱり、僕らは血の繋がった兄弟だ。愚兄に賢弟だけれど、僕らは同じ人から生まれた同じような人間なんだ。
弟が頷き終えると、部屋に差し込む夕陽が徐々に暗くなった。太陽光線の供給が始まったんだ。暗い茜色の中で、弟は再び怪しく微笑んだ。僕もそれに答えるように、ゆっくりと微笑み返す。
「そっか、兄さん。やっぱり、兄さんは俺と血を分けた兄弟だ。俺たちは違うようで同じなんだ。相似点が見つからないけれど、隠れた場所に、俺たちの奥底では繋がっているんだね。嬉しいよ。うん、とっても嬉しい。兄さんと同じところなんてないと思ってたから」
そうして弟は、僕から視線を逸らして、暗い茜色の光源を見ながら心底嬉しそうな声色で言葉を紡ぐ。滑らかであり、耽美的な艶を纏った弟の言葉は、僕の耳に甘美的に響く。
けれど、それに僕が魅了されることは無い。例えこいつの声色が、セイレーンの歌声だとしても僕には、誰もが持ち得ない蝋の耳栓がある。僕しか持てないけれど、誇りにもならない特別なものが。
ただ、こうやって思慮を犯そうとする外的な要因を排除できたとしても、僕の内面で這いずり回る寄生虫の痛みを追いやることは出来ない。吐き気を催して、視界の中にチカチカと点滅する赤点を写し、同時に例の汚濁を生み出す鈍痛は繰り返し、繰り返し、僕の頭を苛んでくる。そのおかげで、僕の表情と顔色は酷いものになっているはずだ。自分でもわかる。さっきまで、浮かべていた造り上げた笑みの緩んだ面影の一つも僕は感じられない。代わりに委縮する血管の痛みと、怒涛の如く流れる熱血、冷ややかな脂汗、パレットの絵の具を全部混ぜ合わせたような得も言えない気持ち悪さが一挙に押し寄せてくる。
紛うことなき現世の地獄が、肉体と精神の中で顕現した僕は奥歯を噛みしめて、阿鼻地獄の悲鳴に耐える。そして、弟の妖しい横顔をジッと見る。幸いなことに茜色の夕陽のおかげで、弟は僕の顔色をうかがうことが出来ない。この好機を生かして、僕は弟が言葉を紡ぐのを待つ。
「俺はね、兄さんの才能に嫉妬していたんだよ。音楽の才能、人を突き放す才能、何も成しえない才能、誰からも愛されない才能。それら全てに嫉妬していたんだ。もちろん、兄さんからしてみれば俺の言っていることは、全てを持っている人間が持たざる者を羨むっていう矛盾のように聞こえるだろうね。けれど、俺は兄さんの駄目な部分も卓越した部分の全部ひっくるめて憧れていたんだよ」
暗い夕日に照らされる弟の陰は、内面の言葉を紡ぐと同時に色濃くなった。
ただ、色濃い影と同じように暗い弟の羨望が僕には理解できない。けれど、理解できなくともこいつの話を全部聞いてみよう。全てを聞かず、無暗に反抗するのは駄目だ。それは独善の押し付けに過ぎない。
「俺は生まれた時から祝福されていたよ。いや、兄さんも生まれた時は十分に祝福された存在だった。けれど、成長していくにつれて、俺と兄さんに誰彼から与えられる愛は歪になって行った。分かるよね?」
「分かるよ。誰よりも分かってるさ。大体お前は僕の遺書を読んだんだ。今さら、そんなことを聞いて来るなよ」
僕の返答に、意地悪く弟は笑って見せた。
光のせいで、顔は良く見えない。でも、きっとこいつは今生で一番笑ってるはずだ。だって、憧れの人を傷付けられたんだから。
人を傷付けて僕らは、計り知れない満足感に浸れる。悪魔みたいな人間だ。誰よりも汚れた人間だ。
「そうだね。俺も少しだけ意地悪になれたみたいだ。けれど、俺にだってそう言った羨望があるんだ。俺のことを兄さんは完璧な人間だと思ってるかもしれないけど、俺とて普通の人間だよ。あまりある愛は時として、人を殺す。愛を与えられなくても人は死ぬ。特に僕は子供のころから人間として殺されてきた。両親に運命を定められたからね。議員になるか、さもなければ医者に成るかのどちらに僕の道は閉ざされたんだよ。けど、兄さんは違った。兄さんは、僕と違って勉強の才能も無ければ、人付き合いの才能も無かった。代わりに芸術の才能はあった。特に音楽に関しては、家の中で誰よりもあった。スタジオミュージシャンをやっている叔父さんよりね。中学生まで、俺は叔父さんの演奏より、優れた演奏を生で聞いたことが無かったよ。けど、俺が中学一年の時に聞いた兄さんの演奏は、練達した叔父さんの演奏よりもよっぽど良かった。もちろん、それまでも俺は兄さんの演奏を聞いていたさ。最初はピアノ、次はギター、次はハーモニカ、兄さんの趣味に沿って兄さんは小学校から楽器を演奏してきたし、歌を歌ってきた。それが完成したのは、兄さんが中学二年生の時だった。少なくとも、僕はそう思ってるよ。要領が悪いから部活にも入らず、両親から言われた膨大な勉強を精神がボロボロになりながらもこなしていた兄さんが、一学期の期末テストが終わった日、家に帰って勉強せずに、音楽室に侵入して、一人弾いていたピアノの音は、歌声は才能に満ち溢れていたよ。こっそり、準備室に入った俺には分かったよ。どんなことでも勝てる兄さんに、音楽と詩じゃ勝てないって。今でも覚えてるよ、あの歌声。しゃがれて、擦れて、けれど色っぽい声で歌っていたあの歌と旋律をね。僕が憧れた自由を勝ち誇る憧憬を」
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