遺書


 病室に帰り、僕はベットに腰を下ろした。

 そして、さっき通路で剥がしかけた粘着力の弱まったセロハンテープを再び開けて、中から三つ折りになった三枚の手紙を取り出す。そこに何が書いてあるのか、今の僕には分からない。そして、深雪さんが僕に何を伝えたいのかも分からない。

 でも、この手紙を読めば、それらは全部解決する。通路で感じた疑問も晴れる。知的好奇心が満たされることと、深雪さんが僕に対して抱く想いに胸の高鳴りを覚えながら僕は、白紙の裏に①と記された三つ折りの手紙をそっと開く。


「なんだ……これ?」


 ただ、僕の口からは胸の高まりに反する言葉が漏れた。

 ただ、僕の目には予想に反する女性らしい丸文字で書かれた二字熟語が写った。

 ただ、僕の耳は嫌な耳鳴りを感じた。

 そして、僕の心はそれが偽物では無く、冗談では無く、純然たる事実であるということを受け止めた


「遺書」


 筆跡に反する重々しい言葉が僕の口から漏れた。僕の手は震える。心も震える。現実から逃れる唯一の術である瞼は閉じてくれない。

 だから、僕は深雪さんがしたためた遺書を読むことしかできなかった。僕の目は眼球から震えようとも、そこに書かれた可愛らしい文字を追うことしかできなかった。


『拝啓松岡様。この度は、私の中に秘められらた闇を払って下さり誠にありがとうございます。この恩は生涯忘れることは無いでしょう。そして、私の欲していたものをたった一瞬でも満たしてくれてありがとうございます。これもまた、一生忘れることの出来ない恩義でございます。

『っと、まあ、堅苦しく書いてみたけれど、私と正信の仲でこんな余所余所しいのはあんまりにも似合わないから、これからはこんな調子で書くね。でも、まあ、私が伝えたかったのは、最初の堅苦しい言葉の通りなんだ。私は正信に私自身の闇を見いだせて貰えて、私が欲しかった愛情を与えるっていう行為をやらせて貰えて、本当にうれしかったんだ。私はその時、今生の絶頂に居たよ。嘘じゃないよ。この手紙の中で、嘘じゃないって証明することは出来ないけど本当のことだよ。それと、本当の私を見てくれたことも、月並みな言葉になるけれど本当にうれしかったよ。

『暗い身の上話になるし、正信が解いてくれた通りのことを繰り返すことになるけど、これを書いておかないとこの手紙を書いた意味が無くなっちゃうから、無意味でも、苦しくても書かせてもらうよ。』


 したためられた文字は、その行を最後に丸みを帯びながらも力強い文字に変わっている。


『私が十二歳の時、私は実の父親に犯されたの。私の家はね、今はそうじゃないんだけど、おかしかったんだ。お母さんは夜の仕事をしていたから滅多に帰ってこないし、父親は滅多に外に出る人じゃ無かった。働いていなかったんだ。それで、お酒を昼間っから飲んで暴れる人だった。そんな環境で私は何とか十二歳までは、子供として育ってきたの。けど、今でも覚えてる。十二歳の冬ごろ、あの人は私を急に襲ってきた。自分の子供であるはずなのに、容赦なかったよ。それで、うん、それで、私はその勢いのまま、抗うことも出来ず、そのまま、そうされたんだよ。怖かった、悔しかった、気持ち悪かった。嗚咽とアルコールとヤニの臭気は今でも鼻から離れない。今でも私にその時を、十二歳の数時間を思い出させるんだ。痛いだけの時間をね。

『けど、その後、お母さんが帰ってきて、警察にあの人を突き出して、私はその地獄から抜け出せたんだ。お母さんは私に何度も何度も謝ったよ。今でもその言葉は、私の耳から離れないんだ。泣きながら、取り返しのつかないことに何度も謝るお母さんの言葉が、ずっと私の耳に着いて離れない。もう、どうしようもないことなのに、私を守れるタイミングは何時でもあったはずなのにね。

『それから私は児童相談所に預けられて、しばらく施設に居たんだ。中学二年生の春ごろまで、私は施設に預けられていたんだよ。今思い返すとその時は自己嫌悪に時間を費やしたよ。けど、そんな生活も中二の夏ごろには終わりを告げたんだ。お母さんが、私を迎えに来たんだよ。今のお父さんと再婚して、児童相談所の方に私を預かっても良いって認められたんだって。その時は嬉しかったよ。施設にも友達は居たけど、心はどうしてか満たされなくて空っぽだった。けど、その時、私は満たされたんだ。またお母さんと暮らせるってことが嬉しくて仕方が無かったんだよ。それに新しいお父さんは、あの人と違って優しかった。暴力を振ることも、暴言を吐くことも、お酒を飲みことも、煙草も吸わなかった。それで頭も良くて、都内の役所に勤めて、真面目な人だからね』


 そこで、一枚目の手紙は終わっている。僕はなりふり構わず、ベットに置いていた②にと記された手紙を震える手で広げる。

 文字はさっきの遺書よりも落ち着いている。そんな文字を僕は追う。


『でも、そんな満足もただのまやかしに過ぎなかった。何時しか、私の心はまた空っぽになっちゃった。どうしようもなく、昔が甦ってくるんだ。瞼を閉じれば、あの汚い部屋が真っ暗闇に浮かび上がって、痛くて惨めな記憶を映し出してくるんだ。それは今も変わらないことだよ。

『そんな調子で、私は中学三年生を迎えたんだ。苦しくて、幸福を蝕む過去の痛みに耐えながら、何とか私は普通の中学生になろうとした。けど、そんなことはやっぱりできなかった。私は現実と理想の間で、精神を病んじゃったんだ。その時、もう一人の私が私の中から産まれたんだ。もう一人の私の産声に気付いたお父さんは、私を抱いて泣いてくれた。お母さんも同じように泣いてくれた。それで、お父さんが、正信が入院している病院を紹介してくれたんだ。その病院、精神科が良いって有名だからさ。もちろん、私はそれを受け入れて、病院に通うことにしたよ。普通の中学生になりたかったから、普通の人に成りたかったから、何よりも過去の記憶の痛みから逃れたかったからね。けれど、病院に今日まで通っても、それは一向に治らなかったんだ。ずっと過去が私を苛んでくるし、ずっとあの臭いが鼻から離れないんだ。

『お医者さんは私のことを心配して、定期的に家に連絡をくれているけど、そんなお医者さんの努力も無駄だったんだ。もしかしたら、これからこの症状が良くなることがあるのかもしれないけれど、私はどうしてもそうは思えないんだ。胸に手を当てて、何度も何度もこの先を考えてみても、今より良くなることは無いって思えたんだ。自分勝手かもしれないけれど、本当にそう思えて仕方が無かった。

『けど、私はお父さんとお母さんの不安が少しでも無くなるように、病院に通い続けたんだよ。本当はこんなこと無意味で仕方が無いって考えながらも、ちょっとでも両親に幸せが訪れるならって頑張って病院に通い続けたんだ。飲むのが億劫で仕方が無い薬も飲み続けたんだ。私の中の不幸が消えることを願いながら、毎日毎日毎日毎日飲み続けたんだよ。

『でも、私の過去が消えることは無かった。私の瞼の裏からあの記憶が、一掃されることは無かったんだ。いっそのこと死んじゃおうと思ったけど、お父さんとお母さんに迷惑がかかるから止したんだ。ずっと、自分の自殺衝動を抑えて来たんだ。正信が殺したもう一人の私もその役を担っていたよ。私がカッターで首を切ろうとすると、何時も何時も酷い頭痛を起こして、その気を止めてくれたんだ。でも、彼女はもう私の中に居ない。ああ、でも、正信は気にしなくて良いよ。そんなことで私が死のうと思ったわけじゃないからさ』


 あっけらかんとした言葉で、二枚目の遺書は終えている。その言葉の通り、筆圧も弱めで、流れるようにここまで綴り終えたんだろう。

 きっと、深雪さんはこの二枚目を書き終えると同時に、過去と向き合えることが出来たんだ。そして、その結果が三枚目に、いや、そんなのは分かりきっていることだ。今さら、ここまで読んできて、その結果が分からない程、僕は愚鈍じゃない。僕はそこまで愚かじゃない。逃れられない運命を目の前にして、今も逃げ続けている僕なんだから。

 誰にも打ち明けられない苦悩を抱えながら、人間社会で生活する大多数と異なる人生を強制的に歩かされてきた深雪さんは、自ら手で自分に区切りをつけたんだ。もはや、自分が他人と同じように成れないことを悟って、自分がこの世で平穏安泰に暮らすことが出来ないと気付いたんだ。何時までも、何時までも続く阿鼻地獄の記憶とは共存できないと。平穏を享受するためには死しかないと。そして、そんな逃避を共感して、許してくれるのが、唯一の理解者であった僕だけであるということも。

 だからか、それだから、僕の胸に不思議と悲しさが宿ることは無い。震えていた手も、眼球も、精神も、全て元の状態を取り戻している。いや、むしろ今までにない程、僕は自然体だ。


「松岡さん! 今、深雪さんのご両親から連絡が!」


 最愛の人の最後を知らせる美しい使いが、大慌てで僕の病室の扉を勢いよく開けて入って来た。看護師さんは額に玉の様な汗を浮かばせて、顔色を青白く変色させて、その美しい顔に似合わない悲痛な表情を浮かべながら入って来た。

 動揺することは無い。僕は看護師さんにそっと微笑みかける。そんな僕の調子と僕の手元にある手紙を見て、看護師さんは何かを悟ったようだった。けれど、それはあくまでも僕の主観でしかない。もしも、看護師さんが僕の様子に誤解していたのなら、それはそれで面倒なことになる。だから、白黒はっきりつけておこう。


「ええ、知ってますよ」


「それじゃあ……」


「大丈夫です。それ以上言わないでください。ここに全て、僕の愛する人が残してくれた全てが書き連ねてありますから」


 落ち着く払った様子で僕は、看護師さんに言葉を紡いだ。僕の言葉に看護師さんは、目を伏せた。

 ああ、この人は心まで美しい。この人は清純に愛を紡ぐことが出来る人だ。ここまで他人を想うことが出来る人なんだから。

 良かった。本当に良かった。この人の愛を拒絶して。この人の愛は、純白の愛は僕の荒みきった灰色の世界には眩しすぎる。そして、僕の灰色の世界はこの人にとって劇物だ。だから、本当に良かった。

 胸に安堵を抱きながら僕は、③と書かれた最後の手紙を広げた。筆圧は穏やかで、これを書いている時、きっと深雪さんは自分の最後を想って落ち着いていたんだと思う。僕があの汚れきった部屋で感じていた心地よい疲労の中で、深雪さんはこれを書いたんだ。


『私が死のうと思ったのは、本当の私を見てくれる人が居たからなんだよ。もちろん、今も離れない醜くて痛い記憶のせいもあるけれど、それ以上に私は正信に出会えたから死ぬんだ。気を悪くしないでね。正信が私を傷付けたって訳じゃないからさ。

『私はね、自分の容姿が嫌いなんだ。恵まれた人が言うことじゃないって分かってるよ。でも、他人からそれが厚かましい嫌悪だって言われても、私は自分の容姿が嫌い。こんな顔立ちのせいで、こんなスタイルの良い体のせいで、私の全生涯は汚されたからね。もしも、私が醜ければ、私は普通の人生を歩めた気がするんだ。確証は無いし、無い物ねだりでしかないってことも分かってる。けど、そんな気がするんだ。

『それに、これは本当の私を隠しちゃうんだ。私がずっと触れて欲しかった、分かって欲しかった、分かり合いたかった私自身を閉じ込めちゃうんだ。中学でも、高校でもずっとそうだった。誰も本当の私を見てくれない。惨めで、哀れで、傷付いて、汚れた私を見ずに、私の容姿しか見てくれなかった。私が私自身を世に晒したくが無いために着飾った清純な仮面しか見てくれないんだ。書いてて分かったけど、矛盾だね。分かって欲しいのに、分かって欲しくないなんて根本的なところからずれているよね。でも、本当は、皆に、私の近くに寄ってきた人たちには、私の中身を見て欲しかった。そして、受けれ入れて欲しかった。もしかしたら、皆は心の内で私を受け入れていてくれたのかもしれない。真実を知ってもそれを受け入れてくれたのかもしれない。けど、私は確証が欲しかったんだ。言葉で私を見て欲しかったんだ。でも、そんなのは当然なかった。だって、自分から求めて無いんだから。自分の願ったものが、そのまま自分に与えられるなんて言う都合の良い話は現実に無いんだよ。

『けど、そんなとき、正信が現れた。私はね、正信を一目見た瞬間、私と同じだって分かったんだ。この特別な目のおかげかな。正信も私と同じだった。私と同じで、他人を理解したいし、自分に触れて欲しい。けど、自分から動けず、泥沼にはまって精神を病んだ人だったんだよ。分かって欲しくて、泥濘の中でもがいても、結局悪い方向にしか進めず、より泥に着かる哀れな人を私は光り輝く中庭で見たんだよ。そんな人に私は惚れたんだ。いや、惚れたというよりも道連れを見つけたって言った方が良いかな? 私はこの人となら分かり合える、この人となら傷を舐め合える、この人と私なら互い違いの空虚を埋め合わせることが出来る。そう思ったんだ。そして、ゆくゆくは心中しようと思ったんだ。どうせ、私たちみたいな欠けた人間が真っ当な道をあることは出来ないし、道を外れることしかできないって知っていたんだ。

『だから、私は正信に本当の私を打ち明けたんだよ。まあ、もう一人の私が主導権を握っちゃったからきっぱりと言えなかったけどさ。けど、正信はそれだけのヒントで、私の本質を見出してくれた。

『見出してくれたでしょ? 未来の正信。

『きっと、正信は私の本質を見抜いてくれた。そして、私と一緒に生きようとしてくれるはず。いや、絶対にそう。今を生きていない過去の私がそれを保証するよ。私と正信は絶対に一緒に生きようと、明日、約束するはずだよ。そうだよね、正信?

『こんな不安を書いても仕方が無いね。だから、もう、余白も少ないし私が死ぬ理由を簡潔に書くよ。

『私はね、未来が怖いんだ。例え、正信と一緒に歩けたとしてもその世界での未来が怖くて怖くて仕方が無いんだ。私は普通の人生を歩めない。それに、もしも、正信との間に子供が出来ても私は愛せない。私は最愛を向けられる相手に愛が向けられないんだ。絶対にそうだって思える。だって、私はお父さんもお母さんも愛することが出来ないんだから。むしろ、軽蔑している節すらあるんだ。私を一人ぼっちにして、自分たちだけ人並みの幸せを掴んでいるあの人たちを心のどこかで嫌いになっているんだ。それに、私は自分自身が嫌いなんだ。弱虫で、勇気が出せなくて、縮こまっていじけている自分が嫌いなんだよ。肉親も、自分も、自分の魂ですら嫌いになったんだよ。そんな嫌い塗れの人生が、真っ黒に染め上げられた人生が嫌なんだ。だから、私は死ぬんだ。一度、死んで汚れの無い魂になりたいんだ。純白で、透き通って、誰もが羨む美しい魂になりたいんだ。この世界で得られなかった本当の美しさを得たいんだ。

『それと、多分、私が死んだら正信も死ぬ。私たちは、その世界じゃ生きられないから。私たちの歪な愛はその世界だと、どうしようもなく不健全で、汚れたもので、拒絶させる愛なんだよ。だから、そんな歪んだ愛を受け入れてくれる世界に行くために私は逝くんだ。きっと、私たちは向こうできっと一つになれるはず。永遠の愛を紡げるはずだよ。私たちの魂の砂金は、死んで初めて輝くんだ。この世に生きるどんな愛よりも絶対に綺麗だよ。

『でも、一つだけ憶えておいて。私が死んだからって、その日に死なないで。正信は一年間、その世界で生き延びてよ。それで気が変わらなかったからこっちに来て。私は待ってるから。正信の手を取るためにずっと待ってるから。

『それじゃあね、最愛の人。私が心から愛したたった一人の人。そして、私が待ち続ける愛おしい人』


 最後の告白に、笑みをこぼす。

 こんな直球の告白、見たことも無いし、聞いたことも無い。それにここだけ、文字の濃淡がばらけて、字体もぐらぐらと震えている。深雪さんは、この最後の告白を書いている時、恥ずかしくて仕方が無かったんだろう。いや、絶対にそうだ。深雪さんは僕に対して余裕そうに構えているけれど、実際は恥ずかしがり屋なんだから。耳を赤らめている深雪さんが想像できる。綺麗な人だ。

 きっと、最後の表情も綺麗だったんだろう。美しいまま、可憐なまま、汚れた魂は召し上げられたんだ。

 三枚目の遺書をベットにおいて、何の気なしに僕は深雪さんが通り過ぎた空を見る。空はすっかり晴れていた。きっと、深雪さんは天国に行けた。例え、聖なる約束事に自殺が悪だと記されても、愛のための自殺なら許してくれたはずだ。マルガレーテも許されたんだから。

 降りしきっていた雨が空中の物質を全て洗い流したおかげで、空はあまりにも美しい。蒼穹に浮かぶ白熱球は、凄まじい命の炎を病室に差し込んでくる。病室は一挙に明るくなる。すすり泣く美しい人の鳴き声ですら、小鳥のさえずりのように聞こえる。


「また逢いましょう。オフィーリア」


 晴れやかな心持ちで僕はそっと微笑む。

 葬式には行かないようにしよう。

 深雪さんも、それは望んでないはずだから。


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