最後

 深雪さんは一酸化炭素中毒で、美しいまま死んだらしい。

 そう看護師さんが悲痛な声で教えてくれた。

 それを告げられた、その日から僕の様子は随分と変わったらしい。

 僕自身、そうとは思ないけれど、真斗も、看護師さんも、叔父さんも、医者も皆そう言ってくれた。その人たちによれば、人が変わったように明るくなって、それまで減衰していた食欲も旺盛になったらしい。そして、物事に対しても積極手に打ち込むようになったらしい。

 確かにそう言われてみれば、あの鳥のようだった手にも少し肉が着いたし、肋骨が浮いていた体の方も真斗と同じくらいに太った。衰えていた体力も少しずつ復活してきた。ぼさぼさで艶の無かった髪の毛も、艶を取り戻し、白髪の量も減った。もっとも、そんな髪の毛も退院するときバッサリと切った。今はさっぱりと、短く整えている。もう、あの頃の病的な面影は無い。

 ただ、あまりにも急な僕の変わり様に、誰も彼もが僕を不安に思った。特に看護師さんは僕のことを心配してくれた。ありがたいことだったけれど、僕には不要だった。でも、美しい人の真心からの心配は僕の心を温めた。それは確かだ。

 僕はあの日から、他人に称させる通りがらりと変わったんだ。だから以前では考えられなかったより良い生活を求めた。その一歩として、休学を取りやめようと思って、叔父さんに頼んでみた。でも、叔父さんはそれを許してくれなかった。叔父さんが、僕の壊れた精神を心配してのことは明白だった。だから、僕は叔父さんの必死な声に折れた。

 その間、僕には莫大な時間が与えられた。二十代前半の途方も無い青春の時間は、僕ただ一人の手に任された。けれど、僕はその時間を埋める術を知らなかった。僕があの軽蔑すべき両親から教えられたのは、勉強をすること、良い成績を取ることそれだけだったから。

 でも、僕は幸い叔父さんの家に居た。スタジオミュージシャンの仕事をしているだけあって、家の中には無数の楽器がある。僕はそれらに持て余した時間を突っ込んだ。ピアノ、ギター、ベース、ドラム、叔父さんの家にあった楽器全てに一か月かけて手を付けてみた。けれど、やっぱり僕の性分に合っていたのはピアノだった。それから、僕はピアノを狂ったように弾いた。毎日毎日、飽きもせず、色々な曲を弾いた。クラシックから、ロックから、ファンクから、ジャズから何でも弾いて見せた。

 そんなことをしている内に、僕は真斗に誘われて、真斗の通う大学のオーケストラサークルに臨時加入した。そこでの時間は楽しかった。共に音楽を奏でることは、僕にとって何よりもの財産になった。それに知的な人たちと共に、文学や音楽を話し合うことは僕の残された短い短い生涯の糧になった。

 豊かな実りを僕はこの一年間享受してきた。歩んできたのは茨の道であったけれど、僕はその実りのおかげで、膿んで腐った足を引きずりながらも、何とか自分の最後まで歩き通せることが出来た。もちろん、深雪さんの支えもあっての話だ。


「今日ですね」


 僕はそうして、あの日から一年経った今日を迎えることが出来た。約束の日を迎えることが出来た。途中で挫折することなく、醜い世界を生き延びてきた。

 いや、醜いと言えば嘘になる。僕が生きた瞬きの世界は美しかった。春の日差し、夏の蒼穹、秋の紅葉、冬のみぞれ、そこに住みつく全ての生物、全ての社会は美しく輝いていた。でも、僕にはその輝きは一瞬のものでしかないことも分かっていた。この一年が消費期限の期間限定の輝きでしかないんだ。

 だから、これ以上生きていても仕方が無い。僕は今生で得られる全ての栄光を掴んだ。光り輝くありとあらゆる美しさを、両手いっぱいに受け取って、貪った。僕はそれで満足だ。それにもう、僕の両足は腐り落ちた。歩ける足が無いんだ。

 椅子に座り、僕は薄暗い二階部屋に差し込むきらきらとした日差しを受けながら、ピアノの白鍵を適当に叩く。打ちっぱなしのコンクリートの部屋に、音が良く響く。そして、美しい日差しは肌寒い部屋を暖め、僕の若干強張った頬を緩ませる。


「あいつは僕を理解してくれているだろうから、遺書は要らないな……」


 一人取り残される真斗を想いながら、僕はアップライトピアノの鍵盤の上に置いた果物ナイフを握る。新品だから切れ味はきっと良いはずだ。安物だけれど、それでも僕の喉を掻っ切るのには十分なはずだと思う。

 叔父さんには申し訳ないことをする。こんな綺麗な部屋を、僕の汚れた血で汚してしまうことになるんだから。そして、このピアノも使えないがらくたに換えてしまうんだから。でも、僕は、そうした迷惑を無視しなければいけない。でなければ、僕は自分で決めた最後を実行できない。それに最後くらい、叔父さんは許してくれると思う。


「さあ、やろう」


 自然の光で満ちる美しい空間で、僕は首の動脈に果物ナイフを当てる。

 ああ、でも、最後だ。

 最後くらい何かまともな音を響かせよう。

 僕、最後の音楽を奏でよう。

 手に持ったナイフを一端、鍵盤の上に置く。

 さあ、何を弾こう。いや、考えたって仕方が無い。最後くらい、僕は自分の想うがままに、手が動くままに、自然の成り行きで弾こう。

 瞼を閉じて、僕は自分の腐りきった内面に目を向ける。あの日から僕の心に蓄積された良い思い出が、走馬灯のように甦る。幻想の様な時間が昔にあった。あれほどまでに楽しい時間を僕は貪ってきた。心地よかった。


「『Strawberry Fields Forever』か……」


 僕の精神が最後に求めた音楽は、変わった曲だった。けれど、それは深雪さんが望んだ世界を現した曲だ。こういうところまで、僕らは一緒だったんだ……。

 胸に温もりを感じながら、僕の口角は緩む。

 これで満足だ。

 もう、思い残すことは何もない。

 僕は再度、果物ナイフを握る。力強く握って、首筋に当てる。そして思いっきりナイフを首に押し込む……。


「これが死か。痛くて、冷たくて、熱いな……」


 糸が切れた操り人形ように、僕の上体はピアノの鍵盤に倒れる。

 酷い不快感だ。

 冷や汗がすごい、体の震えが止まらない。

 とめどなく吹き出す温かい血潮が白鍵を汚して行く。

 体が重い。

 視界はぼんやりとする。

 手の感覚も無い。

 頭がぼうっとする……。


『迎えに来たよ。正信。今度こそ一緒になろ?』


「ええ、いい、ですよ。深雪さん」


 ただ、魂は軽く、最愛の人の温もりに包まれる。

 

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逃れることの出来ない運命。あるいはその証明 鍋谷葵 @dondon8989

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