痛む体
僕の病室は、病棟の六階にあったおかげで、僕は重い体に鞭を打たなければならなかった。自分から拷問を受けに向かうだけなのに、望みもしない外に、痛々しい希望の現実の下に、痩せ細ってこれ以上いじめるところの無い体で僕は看護師さんの肩を借りて病棟から出るために、長いリノリウム張りの廊下を歩いて行った。
エレベーターを僕は使わなかった。看護師さんは、おどおどと僕を心配してくれた。けれど、僕は階段を使いたかった。だから、僕は階段で六階から一階のロビーまで降りようと試みている。一段一段降りるにつれて、足はふらつくし、頭痛はより酷さを増したけれど、階段を僕は使う。誰にも会いたくないんだ。僕は、僕について無関心な人と一緒に居られればいいんだ。僕が今肩を借りている美しい看護師さんがその人だ。気持ちだけは一人ぼっちだから。
「はあはあ……」
けれど、鞭を打って無理やり動かした体は悲鳴を上げた。
三階まで降りたところで、僕の息は上がって、足を止めた。脂汗が浮かんでいることが良く分かる。頭痛も鈍痛に変わってきた。こめかみが波打つように痛む。醜い体に血が流れていることを頭が理解すると、僕の頭は痛む。時間が経てば経つほど、その作用は酷くなる。
むかむかと胸焼けがして、気持ちが悪い。体が内側からめくれ上がるみたいに、何も入っていない僕の体は無いものを吐き出そうとして来る。自然と頭はうな垂れて、手入れのされていない白髪交じりのぼさぼさな長い髪が垂れる。
「うっ……ぷ」
「大丈夫ですか!?」
僕と看護師さん以外居ない真昼間にしては薄暗いひんやりとした孤独な階段に、高い声が良く響く。これ以上このまま僕が看護師さんの肩を借りて、立ち止まっていたら僕の有意義な孤独は消えてしまう。温かく、美しい拷問台に運ばれるまでに見続けたい清々しい暗雲が離散する。
これだけは防ぎたい。僕はこの人と、僕を客観視しないこの人と、もう三階を降り続けたいんだ。僕は自分でも分かるくらい体調の悪い顔色となっている惨めを看護師さんに向けずに、乾いた唇を動かす。
「大丈夫です……。まだ、大丈夫です」
「本当ですか? 私にはそう思えません!」
看護師さんは、はっきりと僕の嘘を見抜いて、初めて強い言葉で僕を諌めた。
けれど、僕の意志はこの人よりも強い。強くありたい。だから、僕は見せたくなかった真っ青な顔を、うな垂れていた顔をぐるりと看護師さんに向ける。
塵芥の願いを叶えてくれている看護師さんは、僕の顔を見ると目を見開いて、ギョッと驚く。そんな可哀そうな人の顔を見ながら、僕はしわがれた惨めな声で口を紡ぐ。
「本当に大丈夫です。ですから、少しゆっくり歩いてください。自分でも矛盾していることは知っています。でも、お願いします。僕は外に出たいんです……」
「……分かりました」
「すいません、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
薄気味悪い僕に恐れをなしてか、可哀そうな看護師さんは諦めたように、呆れたように、僕の要望を聞いてくれた。僕は表情をがらりと変わった看護師さんを確認すると、頭痛と体のだるさに身を任せて、頭をもう一回うな垂れた。ぼさぼさの髪がもう一回垂れてくる。
そう、これで良いんだ。これで、孤独はより一層深まるから。
不謹慎なことに僕の口角はニヤリと上がる。そんな僕を知らずか知ってか、看護師さんは一度体をふっと上に揺らす。
「それじゃあ出来るだけゆっくり行きますよ」
「はい」
けれど、看護師さんはそれまでと変わらない優しい声で僕の歩みを手伝ってくれる。止めて欲しい。そんな同情的な優しさは要らないんだ……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
不治の病に侵された虚しい体を、細すぎる頼りない両足でゆっくりと動かして、背中にびっしょりと冷や汗をかきながら僕は一階まで歩ききった。一階ごとにある踊り場で休み休み来たのにもかかわらず、僕の弱々しい体は音を上げてしまっている。筋肉は痙攣するし、動悸も止まらない。それからやっぱり、酷く頭が痛む。これ以上、動いたらどうにかなりそうだ。
でも、この下らない侵された体を直ぐに治せる薬は無い。本当はあるかもしれないけれど、きっとその薬を使ったら僕は二度と戻って来れなくなる気がする。精神的にも肉体的にも。
違う。僕はそれを望んでいたんだ。ならどうして、今さら精神を休めることの出来る機会に怖がる必要性があるんだ? 僕は怖がっているのか? あれだけ願ったことを? いや、それは違う……?
ああ、これも違わないんだ。僕は楽に死にたいんだ。清廉潔白の身で地獄に落ちることを望んでいる。だから、僕は病み切った精神と痩せ細った体をこれ以上傷つけずに居たいんだ。痛いのは嫌いなんだ……。
「座りますか?」
嫌な方向にばかり考えが傾く僕に、看護師さんは僕の冷や汗にぐっしょりと濡れた背中をさすりながらそう言ってきた。けれど、僕の今の体に返事をするだけの余裕は無かった。だから、僕は小さく頷く。これが今できる僕の最大限の行動だ。
看護師さんは僕の子供の様な反応を確認すると、歩みを僕に合わせて薄暗い灰色に満ちた階段から病院のロビーの片隅に出てくれた。ロビーは随分と明るいし、温かい。ああ、ロビー全体を取り囲んで、見下ろすように吹き抜けの二階に設けられている長方形の窓ガラスのせいだ。それと、等間隔におかれた一階の窓ガラスのせいだ。
光に憂鬱になる僕を、階段の出口のすぐそばにある木製のベンチに看護師さんは難なく僕の痩せ細った体を支えながら座らせてくれた。そして、看護師さんは僕の隣座って、うな垂れる僕の顔色を見えないのにもかかわらずうかがってくる。
「何か要りますか?」
「いえ、今は何も要りません。今は少しここで休ませてください」
「分かりました。ですが、無理は禁物ですよ」
「分っています」
看護師さんの優しい言葉に僕は素っ気なく答える。僕は罪悪感を覚えるけれど、僕のコミュニュケーション能力と気力じゃこれが限界だ。
それから、僕と看護師さんの間には凪が生まれた。僕はうな垂れて痛む頭に悩ませながらも、何とか動悸を元の弱々しい脈拍に戻した。全身から噴き出してくる冷や汗も、脂汗も止まった。酷い体調が若干回復しただけだけれど、少なくともさっきよりはずっとマシだ。
僕は溜息を吐く。ここまでの困難を総括する溜息を小さく吐いた。それから、頭を上げる。
「ようやく顔を上げてくれましたね」
「さっきも上げてましたよ?」
「あれは私に何か言いたかったからでしょう? ですから違いますよ。松岡さんは今、何となく顔を上げたんですから」
「生活って言うことですか?」
「私にはその『生活』っていう言葉の意味が良く分かりませんが、きっとそうです。自然な行動ですし」
僕は看護師さんの言葉を聞き終える前に目を閉じて、一人の暗がりに入った。
確かに僕は、起きてから初めて何となく行動した。何の動機づけもせずに、日常の行動を取った。看護師さんもこう言っていることだし、間違いないことだ。僕は段々と生活に近づいているんだ……。
怖い。
また、僕は傷付く日々を送らなきゃいけないってことを考えると体が震えてくる。心は泣けてくる。どうしようもなくいじらしくなる。セイウチはもうこりごりなんだ。僕の殻を破らないでくれ。
「怖がらなくても良いんですよ」
けれど、僕の弱々しい中身を守るためだけのひ弱な殻を僕の隣に座る看護師さんは割ってきた。止めてくれ、僕の中を見ないでくれ。僕は自分を隠そうと顔を垂らして、看護師さんの顔が見えないようにする。
それから脆い中身を守るために僕は必至に声を紡ぐ。
でも、声は震える。
「どうして分かったんですか?」
「小さな子供がお母さんに怒られるている時みたいに、肩が震えていますからね」
「そうですか……」
何て虚しいことなんだろう。
僕は明らかにばれていることを必死に隠そうとしていたんだ。一番恥ずかしい部分を隠すために、一番恥ずかしいことをしていたんだ。今すぐにでも首を括りたい。丁度、ガラス窓の向こう側に見えた桜の木の枝にでも。
「桜?」
ふと、さっきちらりと見た桜色が僕の脳裏をよぎった。僕を苦しめる鮮やかな色の衝動に、僕の体は動いてちらりと近くのガラス窓の外を見ようと首を回した。
ただ僕は、自分でもがっかりするくらい馬鹿らしい弱虫だった。僕の首が向いたのは、今一番顔を見られたくない看護師さんの方だったから。看護師さんは美しい顔をより引き立てる笑みを浮かべながら、僕が咄嗟に吐いた言葉を受け取った。
「ああ、そう言えば言ってませんでした。この病院のロビーには、中庭があるんですよ。人工芝ですけど結構心地良いですよ。患者さんの面会に来られた親族や友人の方々が患者さんとが話したり、私の同僚たちがお昼休憩とかによく使う場所で、私のお気に入りの場所です。春になれば桜が見えますし、それ以外の季節も小さな花壇ですが季節の花が見れたりして案外癒しになるんですよ。どうです、病院の外に出るのも体調を考えると怖いですし、中庭に行きませんか?」
「ええ」
「それじゃあ行きましょう」
看護師さんの剣幕に僕は驚いて、美しい人の激しい言葉の勢いに飲まれてそのまま二つ返事をしてしまった。本当はあんな場所に行きたくない。あんな命に溢れた、希望に塗れた痛々しい場所に行きたくないんだ。僕はもうここで十分だ。拷問台になんか上がりたくないんだ。外になんか本当は出たくないんだ。
自分の言葉を否定する僕は、惨めだ。けれど、僕の本心は外に出たくないって叫んでいる。少しだけ和らいでいた頭痛も今は酷くなってきてる。本当は行きたくない。
けれど、僕の言葉しか看護師さんは知らない。だから、僕の骨ばった手を綺麗な白磁の手で僕を優しく引っ張る。僕は逆らえない。この引力に僕は逆らうことが出来ない。孤独の引力? 僕は一人になりたいのに、今はその逆だ。象徴だった人は逆向きの行動をしている。矛盾していることは分かっているけど、僕はこの矛盾に逆らえない。軟弱な僕は流される。吐き気がする。胸から僕の自己決定権がせぐりあげて、僕を苦しめてくる。頭痛も込み上げて来て、僕を段々苦しませてくる。
止めてくれ。僕を苦しめないでくれ。僕は誰だ? 僕は自分で言ったことを自分で否定して、自分で言ったことに自分で苦しめられている。自分を自分で縛りつけているんだ。自分の首が締まって行くのが良く分かる。それに、自分の心が矛盾に砕けそうになっていることも……。
矛盾に塗れた僕は、酷い頭痛を抱えながらも流れるままに看護師さんの肩を借りる。それから歩き出す。誰もが幸せを感じるはずの爽やかな自然で彩られた拷問台に向かって。
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