傲慢
少なめの味気ない朝食を食べ終えた僕は、運動場で行われる朝の体操に出かけた。ラジオ体操とほんの軽い運動をするためにだ。
僕はこの時間が嫌いだ。雰囲気が嫌いだ。精神病棟特有の鬱々しさは、僕の体に慣れてくれない。死にたいと願い続ける程、この世から消えてなくなって地獄の瘴気に生きることを望んでいたくせに不安な空気を肌で感じたら、そこから逃げたいだなんて矛盾だ。自分でもそう思う。そして、これの要因は僕の自己嫌悪だと思う。僕は僕自身、知覚しないところで自分と同じ人間を忌み嫌っているんだ。精神を病んでしまった人間を同類として見たくないっていう至極独善的なあさましい感覚が僕の中にある。しかも、分かっていても改善することが出来ない。
人間性の破滅だ。
けれど、僕は肉体よりも先に死にかけている精神を引っ提げながら僕は、平静を装いながら軽い運動をした。ラジオ体操だとか、柔軟だとか、ちょっとしたウォーキングだとか、そんな本当に軽い運動を精神病棟の日差しが良く差し込む運動場でやった。日光は収まりかけていた僕の不調をむくむくと甦らせ、運動をし終える頃には鬱屈とした痛みが僕の頭を支配していた。
けれど、僕はその精神から来る痛みを忘れるくらいこの時を心待ちにしていた。この一週間、僕は深雪さんと再会するためだけに生きていた。僕の抱える自刃への猜疑を晴らすことの出来る唯一の人ともう一度会って、この猜疑の正体を探るために僕は辛くて痛い一週間を過ごしてきた。
その苦痛が今ここで叶う。
けれど、忘れると言えども、僕の体を苛む痛みは蓄積された。残念なことに僕の体は、鞭を打って無茶が出来るほどまだ丈夫じゃない。あの時、僕がこの病院に運び込まれ、意識を覚醒させた時、無茶することが出来たのは僕の脳が尋常じゃないアドレナリンを分泌していたから。それだから、あの時僕は体を無理やり動かせたんだと思う。それに、自分が死ねなかった現実に直面して、あまりにも絶望してことも加味していたこともある。
でも、今は違う。脳は平生を保ちながら痛みを訴えているし、僕の精神は自刃に対して猜疑を抱いて嫌に冷静になっている。だから、僕の体は僅かな休息が必要だ。
僕は自分の痛んだ体を労わるために病室に一度帰って、清潔になったベットの上に仰向けで横になった。そして、ゆっくりと目を閉じた。
ただ、僕の瞼の裏には五分も立たずに例の文章が浮かんできた。僕の脳が、勝手に選んで、強烈な印象を残した謎めいた文章が僕の瞼から離れなかった。そして、僕の声によって、頭の中で文章は何度も再生された。
延々とリフレインされる文章に僕は辟易する。絶えることなく、僕の声で僕の頭の中に問い続けてくる。
僕はその答えを知らない。それに、多分、その答えを知る時こそが僕の死ぬべき時だと思う。きっと、それが僕が抱く猜疑に対する答えになるはずだ。そして、この答を得るには僕一人だけだと無理がある。誰か僕と同じように汚れて、堕ちて、どうしようもない爪弾き者と対話しなければならない。
個人の思考の限界なんだ。
いや、もしかしたらそれすら違う……?
分からない。僕は何も分からない。それが辛い。苦痛だ。僕は僕自身が分からないんだ。疎外感と劣等感これだけは分かる。この惨めで、汚れた二つの感情だけは知覚できる。それ以外のことは点で分からない。厚くて腐臭を放つ霧に覆われているんだ。汚染された自然の中だ。四方八方なにも見通せない。
億劫で仕方が無い。取り囲まれて一人ぼっち? 違う。僕は孤独を望んだんだ。だから、唯一所属できる社会集団である大学にも行かずにあの汚らわしい部屋に閉じこもったんだ。そして、その部屋の中で孤独に命を断とうとしたんだ。何もかもに流され続け、自分の意志を明確に示すことの出来なかった臆病者が初めて自分の意志を全うしようとしたんだ。
それだのに、僕は僕自身の英断を否定する?
そんな馬鹿げた話があって堪るか! 僕はやっぱり、僕の意志で、僕の渇望として死を望んでいるんだ。甘美で美しい地獄行きの死。これを喉から手が出るほど欲している。
ああ、考えれば考えるほど、どうして!? 僕の中に矛盾が蔓延るんだ。駄目だ、駄目だ、駄目だ!
なんで、僕はこんなやけになっているんだ。さっきまでは冷静だったじゃないか、それなのにどうして熱が入るんだ。
苛立って、電子ピアノを壊したあの日から数か月ぶりに血が僕の中で沸騰する。手には力が入ってわなわなと震え、全身の筋肉は強張って、瞼も閉じることが出来ない。久々に全身に血が回って、今この瞬間を生きているという気分になる。
ただ、僕の脳はその気分を否定してくる。
「痛い……」
蓄積された痛みにさらに上乗せする様に、僕の頭は痛み出す。鈍痛が再び僕の頭の中を支配し始める。毒に塗れた虫が僕の体を暴れ回って、僕の体に巡らされた熱血の全てをぶち壊して行く。そして、僕の知らない誰かが僕の苛立ちを得も言えない不快感に換えて抑えてくる。抑圧された苛立ちは、頭痛に拍車を掛けて、さらに僕を苛んでくる。何もかもが痛みに、不快感に変わって行く。
壊れた僕の精神は、死ぬことも生きることも否定してくる。そして、僕から幸福という幸福を全て奪い去って行く。
「駄目だ。ここで、痛みに負けちゃ……」
ベットから起き上がって、僕はよろける足で立ち上がった。それから枕元に置いておいた医者が処方してくれた錠剤タイプの鎮痛剤が入った白い髪袋を手にとって、朝ぶりに洗面台に向かう。相変わらず大地はよろけて、僕を地中奥深く誘ってくる。視界も歪んで、何か赤い斑点がチカチカと浮かんでくる。
急激に悪化する体調を中、僕は必死に歩いて洗面所へと辿り着いた。そして、朝のように前のめりで、洗面台の端に両手をついて鏡を見た。
そこには、げっそりとした幽鬼のような男が佇んでいた。青白い肌に爛々と目を異常に輝かせた痩せ衰えた一人の人間の肖像画が一瞬にして描かれていた。鏡に映る人間を僕は僕と認識したくない。こんな衰えた、年相応じゃない痩せっぽちを男って認めたくは無い……。
けれど、そう言おうとも僕の実態はこれなんだ。そして、僕は望んでこんな姿になったんだ。だのにもかかわらず、僕はこの姿を厭悪している。
ああ、それに僕は傲慢だ。この世の誰よりも傲慢で、見栄っ張りなんだ。時々、そんな節を感じてきた。それが今、腑に落ちた。
僕は悲劇の中でも輝いていたかったんだ。底なしの死の暗闇の中で、僕は美しく装いたかった。死に際で、最も信頼できる人を、唯一の理解者をどん底の悲しみにまで追いやってでも僕は血色を保って、安らかな死顔を見せたいっていう願望があったんだ。そして、それは今でも僕の中にあって、自分の死を美しいものとして終わらせるために少しでも僕は絶望の状況の中でも笑ったりしていたんだ。感情的に成っていたりしたんだ。
でも、その結果がこの鏡に映る幽鬼だ。人間とはとても思えない悲しき生き物だ。
「どうして……。僕はこんな醜いんだ」
僕の肖像画に僕は震える右手の掌をベッタリと着ける。そして、僕の顔をかき消すようにゆっくりと下におろす。けれど、僕の肖像画がそんなことで消えるはずも無く、僕を相変わらず死んだ黒い双眸で見つめてくる。痛みを訴えて、醜い僕を糾弾する様に……。
自分が自分を糾弾する様子に、僕の精神は異常性を増した。僕の頭に居る誰かの自我が芽生えかけて来た。
『お前は醜い』
「お前のせいだ」
『いや、お前のせいだ』
違う。お前のせいだ。お前が僕の幸福を全て壊したからだ!
『お前は俺だよ』
「違う!」
『違わない』
ああ、駄目だ。こんな押し問答に意味は無い。それにこんな自分の脳に叫んだってなにも変わらない。痛みが増すだけだ。
白い紙袋から錠剤三粒取り出して、口に放り込むと蛇口にそのまま口をつけて、冷たい水で一気に飲み込んだ。
「はあ……」
若干カルキ臭い冷や水は、僕の体から発せられていた嫌な熱を一瞬にして取り去ってくれた。そして、錠剤は僕の頭の痛みを和らげてくれたような気がした。薬が効くまで時間はかかる。けれど、思い込みのおかげが痛みは若干和らいでくれた。
鏡から目を逸らしていた僕は、もう一度そっと鏡を覗いてみる。相変わらずそこには僕の肖像画が僕をジッと暗い目で見つめている。息が切れて、口から水を滴らせる気味の悪い人間がそこに居る。それでも、さっきよりはマシになっている気がする。いや、写っている僕自身が変わっていないんだからそれもまた僕の頭が無理やり思い込ませていることなのかもしれない。
錯覚、幻想。そう言った類が僕を惑わしているのかもしれない。でも、さっきみたいな人間とは言えない存在よりは絶対にマシだ。あんな姿は、落ちぶれて、汚れた人にも見せられない。
例え、僕が堕ちきった人間だとしても体裁は守らなきゃならないんだ。僕自身の傲慢のためにも、僕が僕としてあるために……。
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