希望の朝

 僕は弟が去った後、泥のように眠った。意識は淀む暗闇に落ち、体の感覚は溶けてゆき闇に一体化した。この溶解に従って僕の体に蓄積されていた疲労はある程度取れた。もっとも、約二十時間眠ったんだから当たり前のことだ。

 そして、僕はもう一度目覚めたその日から精神科医のお世話になった。僕の精神鑑定をやってくれるらしい。僕は既に診断書を貰っていた。だから無意味な診断と時間の消費は無駄だし、酷く馬鹿しいことだと、ふてぶてしい上に傲慢な調子で言った。けれど、医者の立場としてはどうにもそういう訳にはいかないらしく、僕の精神鑑定を否が応でもやると言った。

 僕は医者のきっぱりとした物言いに平伏して、大人しく医者の指示に従った。それは随分と前に他の病院の他の医者とやり取りした似たような内容の問答のやり取りだった。何か嫌なことが過去にあったか、何か症状の兆候はあるか、何が原因で人付き合いを断ったのか、人間関係は何時から億劫になったのか、何時からご飯を食べなくなったのか、何時から熟睡できていないのか、どうして死のうと思ったのか、何時から死のうと考えていたのか、最後に何時精神科に通ったのか、そんな前の病院でも聞かれたようなことに僕は嘘を吐くことなく正直に答えた。全く正直に答えた。嘘を吐いたところで、精神科の医者にはすぐに見破られてしまうことを僕は知っていた。そして、嘘を遠因として億劫で面倒な会話が広がって行くことを僕は前の病院で受けた問診から学んでいた。だから、僕はあまり言いたくないこともはっきりと答えた。分からないことに関しては分からないと答えた。

 過去と同じ問答を繰り返した僕に医者が下した病名は、回避性パーソナリティ障害だ。前の診断と同じ病名だった。だから、僕は驚かなかったし、むしろ平然と受け入れることが出来た。それに僕はかなり不謹慎なことだけれど、その病名ににわかな誇りすら抱いた。何もない、人から軽蔑されて、排除されてきた僕という人間が持ちうる唯一の肩書だから。そのせいか、医者から診断を貰った時僕の顔には笑みが浮かんでいたらしい。あの美しい看護師さんがそう教えてくれた。恍惚とした一人ぽっちの微笑が僕の痩せこけて青白い病的な顔に浮かんでいた悲しいことを。

 そうして無意味な問診と不幸な青白い微笑を浮かべた僕は、病室に戻って病院内の日常を繰り返し始めた。時には本を読んで、時にはギターに触れてみたり、時には病院の中を散策してみたり、孤独な時間を極力作って僕は日々を生活してきた。

 ただ、僕の生活は深雪さんとの再開を軸に動いていたし、そんな精神的支柱があっても僕の頭から痛みが引くことは無かった。もっとも、それは僕が今生きている動機であるから必然的なことだし、全てを壊して自分だけ永眠しようとしたことに対する罰だ。だから、これを僕は疑問に思わないし、みすぼらしいとも思わない。それに今さらこんなことをみすぼらしいと思ったところで僕は近い将来、精神の自刃を曇らせた疑念を晴らして死ぬんだ。それだから僕は、自分を今まで通り貶めたりはしない。曇りきって、汚れきった精神をこれ以上否定したところで何にもならない上に、精神疲労を起こしてしまう。

 ただでさえ、毎日毎日他人と出会って、他人と喋って、医者との意味があるのか、僕みたいな人間じゃ到底分からない問答を繰り返す日々に更なる負荷を掛けたら、いよいよ僕の精神は分裂して、僕という一個人の自我を保ってなくなってしまう可能性がある。僕は自分のまま死にたいんだ。自己を保持した狂人として首を縄にはめたいんだ。それが、僕唯一の願望なんだ。

 願望と深雪さんとの再会を胸に、そしてその幸せを否定する僕の頭に巣食う誰かによる作用によって痛む頭に苛まれながら、僕は一週間を同じ動作で過ごした。


「ああ、今日か……」


 普段の起床時間通り、僕は目を覚ました。デジタル時計は丁度、七時三十分を表示している。あの部屋に居た頃は時計なんて見もしない上に、朝同じ時間に起きるなんて考えられなかった。あの頃は獣のように生きていた。

 けれど、今は随分と人間らしい上等な生活を送っている。起き抜けにそんなことが頭に思い浮かんだ僕は、溜息を吐いた。そして、掛布団で覆われた筋肉の無い上体を手で支えながら起こす。起きた僕の痩せくぼんだ目の先には、晴れた早朝の空の澄み渡った青白さとまだ若干の寒さを含んだ弱々しい日光の斜めぎった鋭い柱が見える。その中にはちらちらと埃が床に舞い落ちて、どこかゴミなのにもかかわらず幻想的な表情をのぞかせている。


「気持ちが悪い」


 ただ、僕にとって光の柱は部屋を汚らしく色づける一つの要因に過ぎない。僕にとって麗らかな日差しはやっぱり毒であったし、寝起きの僕の頭を痛ませる要因でもある。だから、僕は起き上がって、病院用のスリッパを履いて、急いでカーテンを閉めて、差し込む陽光を遮る。

 日差しが遮られた部屋は薄暗くなる。やっぱり、僕はこの薄暗い空間が一番だ。僕みたいな人間は土中で死ぬために微かな脈動をするだけで良い。暗がりの中で、一人瞑想にふけって、自分の中に眠る内在的な猜疑を解決できれば一番良い。

 でも、今の僕には猜疑の解決のために協力してくれる僕と同じ人が居る。孤独な解決じゃなくて、他方の意見を取り入れた解決を今の僕は出来る。

 そして、その日が今日だ。今日は深雪さんと再び会おうと約束した日だ。けれど、心は躍らない。楽しい気分にはこれぽっちもならない。それどころ、緊張のせいで吐き気がするし、僕の死に対して警鐘を痛みとして訴えてくる頭の寄生虫は僕の頭の中を這いずり回ってきて、和らげたはずの頭痛を悪化させてくる。

 酷く痛み出してきた頭の辛さに耐えきれず、僕はスリッパを履いたまま体をベットに投げ出した。けれども、そんなことで痛みが治まる訳がない。こめかみは脈打ち、絶え間ない苦痛を与えてくる。しかも痛みに従って、緊張による吐き気が胃から昇ってくる。


「はあ、はあ、はあ……」


 息苦しさも加わる。清潔な掛布団は、口から無制限に湧き出る汚らしい生唾が垂れて、瞬く間に粘性のある湿気を帯びて汚れる。それまで無臭であったはずの蒲団からは、気色の悪い悪臭が発せられる。

 昨日までは何てこと無かったのにもかかわらず、僕の精神は突飛な身体異常を弾き出して、僕を苦しめてくる。這いずり回る寄生虫は、より自身の体の棘に毒を巡らせて全身を病ませる。

 ああ、けれど僕はあの看護師さんが来る前にこの体調の悪化を取り繕わなきゃならない。もしも、こんな姿を見られたら僕は今日まで生きてきた目的を達成できなくなる。深雪さんとの対話、これが出来ないとなったら僕は自刃を肯定できず生涯廃人の様な生活を過ごさなきゃならない。甘美な死とは対極に位置する辛苦の生を僕は過ごしたくない。僕は楽なりたんだから……。

 少しでも体を楽にするために僕は小さな病室の洗面所に朦朧とする感覚の中、世界が混沌に飲み込まれようとする合間を縫って歩いて行った。ほんの僅かな距離を移動としただけなのにもかかわらず、僕の体は酔ってしまった。陶酔する脳内錯覚は否応なしに僕を陥れる。

 背中にびっしょりと嫌な冷や汗をかいて、胃からは断続的に吐き気が込み上げて、僕の体を蝕む。苛まれる体の自重を酔い切った両足では支えられずに、僕は洗面台の両脇に手を着いて、ほとんど倒れ込むように足を止めた。

 水垢のついたお世辞にも綺麗とは言えない鏡に映った僕の顔は、やっとのことで命の糸を運命の女神に断ち切られていない憔悴しきった表情を浮かべている。肩で呼吸をして、クマの取れくれない真っ黒な目下は青白さが加わって悪魔的になっているし、整えられて少しマシになったはずの白髪交じりの長髪は、病的な雰囲気を煽っている。その上、目の焦点が合ってない。それから口からは涎が垂れていて汚らわしい。電灯も点けない薄暗い空間っていうことも相まって、ここが病院じゃなくて、僕の部屋に見えてくる。壁は白い、床も清潔、着ている服もきちんと洗濯されたものだ。

 けれど、幻想に眩む僕の脳はこの部屋を、目の前に写る清潔を保った人間を、堕ちた生活に映写する。もちろん、僕自身は堕ちた人間だ。地獄に行くべき人間だし、それを望んでいる人間だ。でも、今の僕はそれを自認しながら、それを外的にも影響を及ぼし、空間自体を歪ませている。

 これじゃあ、到底あの看護師さんを騙すことは出来ない。もっとも、僕が一度でもあの人を根底から騙せたことがあるのか、僕は知らない。今まで看護師さんを騙した気でいるだけで、実際は僕の嘘をあの人は見ぬいているのかもしれない。けれど、もしも看護師さんが見抜いていようがあの人は僕の嘘をしてこなかった。きっとそれは僕が体裁を取り繕っていたからだし、僕のことを阿呆だと思っていたからだ。

 でも、今の僕は至極病的で、一目見ただけで異常だと勘付かれる状態だ。それだから、看護師さんが僕を見たら否応なしに僕に安静するようにと通告して、僕をベットに縛り付けると思う。それは何としても避けないといけない。

 僕はほとんど力の入らない手で、洗面台の蛇口をひねって、脇の棚からプラスチックのコップを取り出して、水を満杯に入れた。それで、まず口をゆすいだ。そして、うがいをした。この動作だけで、コップの中に入っていた満杯の水は無くなった。空になったコップに再度水を入れて、今度はそれを一息つかず、一気に飲み込んだ。


「げっほぉ、うぇっ……」


 胃の気持ち悪さと息苦しさ、そこに加わった大量の水に僕は咳き込んだ。ただ、込み上げてくる気持ち悪さは若干軽減された。ぬるい水であったけれど、今の僕に必要なものは水だった。

 汚れた水を生きる魚に清らかな水は良い影響を与えた。それから、僕は自分自身に少しでも清潔さをもたらすために顔を洗う。びしゃびしゃと、洗面台の周りに水が跳ねることを気にせず好き勝手に、手に力を入れて思いっきり洗う。へばりついた汚れが何となく、ほんのり落ちてゆくような錯覚を見る。そして、激しく僕の顔にぶつかる水の音が僕の頭を掻き乱す毒虫の興奮を諌めてくれる。吐き気もそれに従って、徐々に減衰してきた。

 時間を忘れて、僕は顔に水を浴びせ続けた。体感時間も分からないまま僕は、顔を上げて、水滴に塗れた鏡を見てみる。


「マシになった気がする……」


 水も滴る良い男と言うが、今の僕は入水自殺に失敗して岸に上がってきた長髪男性の魂の抜け殻にしか見えなかった。それでも、水をあおる前よりは随分と表情も体調もまともになっている。

 水気を帯びた僕は、それを拭うために真っ白な未使用のタオル(弟がいつの間にか置いて行ったもの)をやっぱり戸棚から取った。そして、顔に水を浴びせた時と同じようにごしごしと顔の皮膚全てをすりおろすように強く拭いた。

 力一杯拭いた僕の顔は赤らんだ。青白い素肌を隠す化粧には、もってこいの状態だ。

 僕は赤らんだ顔を見てにやりと笑った。でも、その笑みには体調の悪さと自分を起因とする気持ち悪さが混在していて見るに堪えないとなっている。看護師さんの前では、決してしないようにしよう。

 それから僕はまだ少しだけふらつく足と僅かに痛む頭に気遣いながら、顔を拭いたタオルであちらこちらに飛び散った水滴を拭く。こんな水に塗れた洗面所を見られたら、看護師さんは僕の体調と精神の変化に否が応でも気付くはずだから。

 寝起き間もないのにもかかわらず、かなりの体力を使って僕は自分のしでかしたことに対しての始末を完了した。と言っても、完璧に自分の行いを隠すことが出来たかと言えば違う。目を鋭くして探せば水滴は見つかるだろうし、まともに周囲を見ることが出来る人間であればタオルの濡れ具合からどれだけ激しい水の使い方をしたのかはうかがえると思う。だから、正確に言えば張りぼての状況を作ったまでなんだ。

 でも、今の僕の体力で出来る後始末はこれが限界だった。せっかく正常とはほど遠いけれど、健康状態にほんのり近づいた現状に近づいたのに、これ以上体を動かせばさっきの状況に戻ることは必至だ。それだから、僕は不満足な後始末に満足して、ベットに戻って行った。

 ただ、ベットに戻っても横になる気分じゃ無かった。僕はベットの縁に、丁度弟が座っていた場所に座って、枕元に置いていた読みかけの文庫本を手に取って、意味も無くペラペラとページをめくる。文字を読みたくも無ければ、それに必要な集中すら持ってない。けれど、手に何も持っていないことが怖くて、手持ち無沙汰な今を慰めるために無駄な行動をする。


「おはようございます。朝ですよ、松岡さん」


「おはようございます」


 そんな無駄な行動で時間を潰していると、扉が開いて看護師さんの朝なのにもかかわらず透き通って綺麗な声が聞こえてきた。その声に僕は、水気を含んで普段よりも滑らかな声で挨拶を返す。

 僕の普段から薄暗い病室をこの一週間見てきた看護師さんは、僕がどうして暗くしているのかを理解している。だから、窓を覆うカーテンは開けない。けれども、仕事の便宜上僕の顔を見ない訳にはいかないため、少しバツの悪い顔に微笑を浮かべながら恭しく、部屋に入って直ぐのスイッチを押して電気を点ける。

 久しぶりに照らされた白い病室は、僕には眩しすぎる。目がくらんだ。それから、さっきまでペラペラとめくっていたページの文字がぼんやりと、まばらな幻影として視界に浮かんでくる。

 文字列に犯された目だけれど、僕は焦点を失わずに心配そうに僕を見つめる美しい人を見る。


「体調に問題はありませんか?」


「ええ、問題ないです。けれど、あまり食欲がありません」


「それは体調の問題です。何か気に病むことでもありましたか?」


「いえ、単純にお腹が減ってないんです。最近まともに動いてませんから。精々、病院の中を暇つぶしに歩き回ってるくらいですし」


「確かに動かないとお腹も空きませんよね」


 看護師さんは仕事を全うするため、クリップボードに挟まれた用紙に僕の様態を胸元から取り出したボールペンで書き記しながら、僕の問診をする。だから、看護師さんはチラチラとしか僕の顔を見ない。これはうまい具合に運んだと僕は、してやったりと思った。もっとも、回診はいつも通りこの調子でやっているから、このことを忘れていた僕自身が馬鹿だったていう話なんだけれど。

 とかく、僕の顔を凝視せずに受け流すような、けれども優しさを含んだ柔らかい言葉で看護師さんは相槌を打つ。僕は打って変わって看護師さんの疲労が感じられる少しだけ萎れた顔を座りながらジッと凝視する。


「あ、あのあんまり見られると落ち着けないです」


「すいません」


「ご、ごめんなさい」


「いえ、謝るのは僕です。ですから、頭を上げてください。すいません」


 気味の悪い僕の言動に、看護師さんは困り眉を造りながらそっとクリップボードから顔を覗かせて申し訳なさそうに拒絶の言葉を掛けてきた。僕はその言葉を聞くと、心が軽くなった。

 ただ、さしもの堕落しきった人間たる僕でもそんな表情を見せる女性を放って置けない。良心の欠片がまだ僕の中に残っていることは、弟が教えてくれた。その残骸に従って僕は一言謝る。けれど、それに看護師さんも謝る。そして、僕が謝る。

 三回の謝罪のやり取りを終えると、看護師さんの口元には微笑が浮かんだ。滑稽なやり取りが面白かったんだ。僕も看護師さんの突発的な微笑に反応して、小さな笑みを浮かべようとする。けれど、僕の凝り固まった表情筋は動いてくれない。おかげで、痙攣のように口角をヒクつかせることしかできなかった。風貌からして気味が悪いのにもかかわらず、それに加わるような不気味な表情は看護師さんのゆったりとした表情から微笑を失わせた。


「それじゃあ、今日の朝ご飯の量は減らしますか?」


「はい、お願いします。せっかく作ってくれたご飯を残すのは忍びないですから」


「分かりました。では、そう言っておきます。それと今日は十四時から臨床心理士の山田やまださんとの面談がありますから、その時間になったらお迎えにあがりますね」


「またあの人ですか」


 僕は山田という四十代前半の男性臨床心理士が苦手だ。あの人の爛々とした丸い眼、それなりに高い僕よりも頭一つ高い身長、厚い胸板と筋肉質な腕、ガッチリとした手、焼けて黒い脂ぎった肌、きっちり整えられた短い黒髪のあの男と話すのは、億劫で仕方が無い。それは決して、山田さんが悪い人間だからじゃない。

 ただ、その風采があまりにも父親に似ているから。僕の自己意識があの人と山田さんを同一視しているだけに過ぎないんだ。


「お嫌いなんですか?」


「いえ、嫌いではありませんよ。気さくな人ですし、何よりも僕に寄り添って話を聞いてくれます。けれど、あの人の雰囲気が苦手なんです。ただそれだけなんです」


 僕は今日の予定に一つの苦しみと一つの楽しみを抱く。そして、相反する二つの感情をごちゃまぜにした色彩醜い音声で看護師さんの心配する言葉に答える。ただ、僕の視線は自然に僕の忙しなく手遊びする手元に向いていた。自分の表情を見られたくないんだ。醜い面を見せる癖に、自分自身を見られるとなると嫌で嫌で仕方が無くなる。

 顔を逸らして、手元を見続ける僕をこの優しく美しい善人はどう思っているんだろう? もし、哀れんでいるとしたら止して欲しい。いや、自己中心的な僕の妄想に過ぎない。けれど、それでも、僕はこの人が内心で哀れみだとかを抱いているなら拒絶しなきゃならない。そうじゃなくて、僕を侮蔑しているのならそっちを受け入れたい。僕は見放されて生きたいんだ。

 そんな卑しい願望を持っている癖に、僕はそれを確認したくなくて目を逸らし続ける。本当は分かりたいのに、分かりたいのに、理解を遠ざける? いや、本当に僕は知りたいのか? 知りたいんじゃなくて……。

 違う。絶対に違う。僕はそんなことを望んでない。もしも、そんなことを僕が望んでいたとしたら僕の自殺衝動は、僕の晴らそうとしている自刃に対する猜疑の答えは、あんまりにも陳腐すぎる。それなら自殺しない方が良い。そんな気持ちの悪い理由が、僕を死に固執させているとしたら、僕は生きなきゃならない。


「大丈夫ですか?」


「ええ、問題ありません」


 僕の精神内に生じた動揺は、あの傷による化粧を打ち破って僕の心の本当の表情を晒してしまったらしい。看護師さんは、面を下げる僕の顔をしゃがんで覗き込むようにして見てくる。その顔に僕はギョッとしながらもなんとか体裁を保ちながら平然の面持ちをどうにかして取り繕って看護師さんの心配する声に答える。

 看護師さんが僕の声を虚偽のものだと認めたかどうか、それは僕には分からない。 

 ただ、ジッと美しい人は、その端正な顔に、その濁りの無い清らかな瞳を僕に向けて続ける。僕はそこの瞳に、自分が写っていると思うと急に胸が痛くなり始めた。無数の棘が心臓に突き刺さる。

 止めてくれ。僕を見ないでくれ。

 駄目だ。違う。ここで青ざめちゃ、僕の今日の幸は消え去る。どうしても、この痛みに耐えながら平静を保たないとだ。

 僕は意を決して、痛み出す胸の棘に耐えながら必死に自分の顔色がこれ以上悪化しないように耐え忍ぶ。鎮痛剤が欲しい。何か、僕を見捨てる言葉くれ。僕の存在を否定する言葉をくれ……。

 けれど、鎮痛剤を看護師さんは処方してくれなかった。でも、その必要自体無くなったおかげで僕は命拾いした。看護師さんは僕の顔色から何も? 察せなかったのか、僕の視界から消えた。僕は胸を撫で下ろした。


「それでは、何かあったら呼んでください」


「はい」


 そういうと看護師さんはクリップボードにさらさらと何かを書き記す。視線を上げない僕には見えないけれど、きっとこの人は笑みを浮かべていると思う。便宜上の笑みを……。

 優しげな声色は消え去る頃、僕はそっと返事をした。これを確認した看護師さんは、何も言わずに優しい足取りで帰って行った。

 扉がゆっくりと閉まる音を聞き終えると、僕はベットの縁に腰を下ろしたまま、上体をベットに寝かせる。そして、朝食が運ばれてくるまでそっと目を閉じる。瞼の裏には、支離滅裂な文字列が浮かんでいる。

 ただ、そんな混沌とする文字列の中から僕は二つの疑問符を見出した。


『自分を知られたいのか? 自分を知りたいのか?』


 僕は二つの疑問符を頭の中で、意味も無く反芻させる。


「あるいは両方……」

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